高群逸枝
「・・・、生活の中心は母子というテーゼがドカンと据わった。それはダウン症候群であることを母親に知らせるのは母親の状態を見て、という担当女医師との合議を母親が知って、何を騒いでいるのか、育てるしかないではないかと、父親が一喝された途端のことでもあった。『母子の権利こそ、実は女権の究極であり、女性独自のものである』(高群逸枝『女性の歴史』講談社文庫版上、一九七二年)ことが、星子の名付け親でもある母親によって宣言されたのである。」
「三界に家なきとされた女が、気に入った男と居をかまえ、男は生活の糧を稼いでくる。男の権利とは、せいぜい遊びと危険を冒すことで、最も危険な遊びとは女を好きになることだという口惜し紛れの言葉を吐いた男(ニーチェ)もいる。女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにする男は居域から追われる。古く母権制につながる新しい母子の権利に基づく生活が、わが住居にやってきたのだ。七〇年代、男権の表れとしての家庭の解体が始まっていたが、一組の男女が暮らす居場所の新しい名前はなかった」(最首悟『大衆の玄像』青土社発行「現代思想」平成24年7月号)
居域から追われてゆらゆらと「遊びと危険を冒す」浮遊、
「究極の独自の女権」の包みから放り出されたその浮遊が生み出す「怖れ」、
その浮遊者が「最も危険な遊び」として「求め」る相手が「究極の独自の女権者」、
その「怖れ」と「求め」のアンビバレンツ。
「高群逸枝の基調は、太平洋の原始と大陸の先進が並存し、ねじれる日本列島ということにある。そのなかで、「石も生きている」という幼児思考(ピアジェ)が、今現に書いているこの文章で堂々と、とは言わないまでも、記されているように、男は子ども性どころか幼児性を免れないのであって、複式主制では女性にとって男性は父性になれないが、男主にとっては女性は母性なのである。すなわち男は幼児性を残したまま人間になるのであり、女はずっとその根性に原始の根神性を貫かせているのである。居域での生活に関するかぎり、人間は女を超えることはできない」(同上)
居域から追われてゆらゆらと「遊びと危険を冒す」浮遊者が、その「怖れ」と「求め」のアンビバレンツを多数の鋭利な刃物で切り裂こうとしても救いは訪れはしない。
「究極の独自の女権者」が差し出す手を握り返すこともできない幼児は、なお、その「怖れ」と「求め」のアンビバレンツの間に浮遊するだけである。