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「柿食えば ふるさと想う 奈良のまち」

2020.10.18 03:48


https://nara.jr-central.co.jp/campaign/wokashi/chuguji/vol14.html  【柿食えば 鐘が鳴るなり】 より

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

秋になれば多くの人が思い起こすこの句の作者は、正岡子規。明治を代表する文学者であり、俳人、歌人です。

あまりにも有名な「柿食えば~」の句ですが、ひとつ、異聞があります。それは、この句は法隆寺ではなく、東大寺で詠んだのではないかというもの。

根拠は、正岡子規の日記です。

子規が柿を食べ、眺めた空は今も変わらずあります。その日記によると、子規は明治28年10月の26日から30日まで奈良に滞在しています。26日からの滞在地は東大寺の近くでした。

その滞在中の様子を記した随筆に、“美味しい柿を食べているとボーンと鐘の音が聞こえ、どこの鐘かと訪ねたら(宿の人に)東大寺の大鐘楼だという……”と書かれています。また、同じ時に詠んだ句には、

「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」

「長き夜や初夜の鐘つく東大寺」

とあることから、子規が柿と鐘を実感した場所は東大寺であり、元々は

「柿食えば鐘が鳴るなり東大寺」

だったという説です。

ちなみに、子規が法隆寺を訪ねたのは29日のことでした。そこでは、

「行く秋をしぐれかけたり法隆寺」

と詠まれています。

真実は作者自身しかわかりませんが、東大寺で詠んだにせよ、正岡子規が法隆寺のある斑鳩の地を好んでいたことは事実だったようです。 子規の弟子である高浜虚子(たかはまきょし)は、子規に倣って斑鳩を訪ねており、

「冬の山低きところや法隆寺」

という句を詠み、また、短編小説『斑鳩物語』を残しました。 正岡子規の足跡が明治の文人たちの足を斑鳩に向けさせたのは間違いありません。


http://jpsekaiisan.com/category14/entry94.html 【『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』から読み解く正岡子規の想いとは・・・】 より

正岡子規と法隆寺

これはかの有名な正岡子規の俳句であり、『海南新聞』1895年11月8日号に掲載された俳句であります。

正岡子規は明治25年に日本新聞社に入社し、日清戦争の記者として働いていましたが、明治28年に正岡子規は病を患い既に重病であったともいわれています。

しかしながらなんとか奈良を訪れ、その際ここ法隆寺を訪れ、その際に詠んだ俳句が『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』であるといわれています。

正岡子規は東大予備門において夏目漱石、南方熊楠、山田美妙など同窓生であり、漱石とはとても仲がよく、正岡子規が病に患ってからも療養生活の看病に必死にしていたといわれています。

奈良を訪れた正岡子規が詠んだ『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』への想い・・・

法隆寺

最初に奈良の市内を散策をして、興福寺、大仏殿のある東大寺、春日大社を参拝しました。

実は正岡子規は東大寺についても俳句を詠んでおり、『長き夜や初夜の鐘撞く東大寺』『大仏の足もとに寝る夜寒哉』などがその代表とされています。

そして『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』は、療養生活の世話、奈良旅行を工面してくれた漱石に対して、漱石の作である「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句へのお礼の句であるといわれています。

季語は柿でありこれは秋の象徴でもあります。

この句でいう柿は大和名産の御所柿と考えられています。

『法隆寺の茶店に憩ひて』と前書きがあり、法隆寺に立ち寄った後、喫茶店で一服して柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴り、その鐘の音色に秋の訪れを感じた、というのがこの句に込められて正岡子規の想いでもあります。

尚、「くへば」一見逆説にも思われがちですが、単に「食べていたら」という事実を述べているにすぎず、「鐘が鳴るなり」と特別に因果関係があるわけではありません。

ちなみに正岡子規が法隆寺を訪れた10月26日とされ、この日はこの句にちなんで『柿の日』にも制定されています。

この句は実際に詠まれたのか

法隆寺

しかし正岡子規が法隆寺を訪れた日は、雨であったとされこの句は実際に詠まれたかどうか疑問点も残されています。

また正岡子規は奈良を訪れた際には、かなりの病状も悪化をしていたと考えられており、実際に法隆寺を訪れることができたのかという点も疑問点に残されています。

もしかすると、病で床についていた正岡子規は、外で秋の訪れを感じたいという自分自身の願望をも句にしていたのかもしれません。

奈良の観光は、正岡子規にとって最後の旅行であり、明治35年に35歳の短い生涯を終えました。

しかしこうしてこの句をきけば誰もが法隆寺を思い出し、法隆寺は今世界遺産に登録をされ、人々から愛されるお寺となっていることは、正岡子規にとってもきっと喜ばしいことに違いありません。