兄弟は変わる、ネクタイで
愛用していた新緑色の蝶ネクタイではなく、近い色をしたアスコットタイを身につける。
留め具としてグリーンガーネットに細工を施したピンを用意し、生地を傷めないよう中央から一思いに突き刺した。
ボリュームのあるそれはどこか落ち着かないけれど、じきに慣れることだろう。
少なくともアルバートの目はそれを見慣れているし、だからこそ気持ちが落ち着かないことも理解している。
ボリュームのあるアスコットタイは、アルバートの記憶の中ではたった一人の人間が思い起こされるものだった。
「アルバート兄様、タイを新調なさったのですか?」
「あぁ、どうだろう?似合うかな」
「よく、お似合いだと思います」
「そう、ありがとうルイス」
昔の自分を見ているかのようにアルバートとよく似ていた弟は、今この世界のどこを探しても存在しない。
首を裂き、体を焼き、骨ひとつ残らないよう念入りに焼いた。
そうするよう命令した。
かつて存在していたアルバートの実弟は、今目の前にいる幼い金色の兄弟の片割れに成り代わられてしまったのだ。
末の弟であるルイスは交換したばかりの真っ白いガーゼを頬に当てたまま、物珍しげにアルバートへと問いかけた。
ルイスに続いてもう一人の弟もアルバートへと声をかける。
「アスコットタイ、という種類のタイだったでしょうか」
「そうだよ。あれからもう半年が経つ。少し、気分を変えてみようと思ってね」
「そうですか。お似合いですよ、アルバート兄さん」
「ありがとう、ウィリアム」
昔はあまりこの名前を呼ぶこともなかったように思う。
けれど実弟の名前と存在をそのまま受け継いだ新しい弟に対しては、自分でも驚くほど素直に声が出る。
父と母に関しては階級社会という歯車に組み込まれてしまったのだから、考えを改めさせることなど始めから考えていなかった。
けれど自分よりも後に生まれた弟ならば、きっと自分と同じく世界の歪みに気付いてくれるはずだと期待していたというのに、アルバートの期待は所詮無駄な願いに過ぎなかったらしい。
唯一自分の味方になってくれるはずの実弟と相容れなかった悲しみを、新しくウィリアムとなった弟で癒そうとしているのかもしれない。
アルバートは新しくウィリアムになってくれた弟の名を穏やかに呼び、もう一人の弟になってくれたルイスの名を優しく呼ぶ。
聡明なアルバートでさえ気付かない無意識の深層心理は、けれどもウィリアムにだけは知られているのだろう。
かつての名前を捨てた元孤児の少年は、半年前のあの瞬間からウィリアムとして生きている。
「ですが、そのタイは僕が身に付けるべきなのではないでしょうか」
「…そうかもしれないな」
「では」
先程までほんの少しだけ口元を緩めいていたルイスはまた表情をなくし、いつも穏やかに微笑んでいるウィリアムは自嘲めいた表情を浮かべている。
二人の脳内にはアルバートと同じ人物がいるのだろう。
アルバートが蝶ネクタイを好んで身に付けていたのに対し、あの子はアスコットタイを好んで身に付けていた。
聞こえてきた言葉の通り、本来ならばアルバートの首元を飾るアスコットタイはウィリアムと名乗る人間が身に付けるべきなのだ。
ウィリアムとして生きることを決めたのは目の前の弟なのだから、このタイの正しい行先はアルバートではない。
周囲に少しの違和感を抱かせない意味でも目の前の弟こそがアスコットタイを身に付けるべきだと理解しているけれど、それでもアルバートは静かに首を振っては拒否をする。
「いや、これは僕が身に付けるべきだよ」
相容れなかったとはいえ、嫌っていたとはいえ、あの子はアルバートにとってたった一人の弟だった。
目の前の人にその弟の殺害を依頼したのはアルバートだ。
誰かの命を奪った者には相応の責務がある。
それを知っているからこそ、傲慢な貴族の所業を許せなかったのがアルバートという人間だ。
だからこそ、間接的とはいえ相容れず嫌っていた彼の殺害を依頼した人間としての責務が、アルバートの身には存在する。
人が人を殺した責任を取ることなど出来はしないだろう。
だが、身勝手なりにその命を背負って生きていくことは出来る。
風化させずに罪を背負い続けることは出来る。
決して忘れてはならない己の罪を、楔として心に打つことは出来る。
アルバートにとってあの子を思い起こさせるこのアスコットタイは、己が犯した罪の証そのものだった。
忘れはしないし、忘れるつもりもないけれど、アルバートは愛せなかったあの子の記憶を身に纏ってこれからを生きていくと決めたのだ。
「…アルバート様」
「おやおや、君は僕の弟だろう?余所余所しい呼び名はやめてくれないか」
「アルバート兄さん、でもそのタイは」
「君だけがあの子を背負うことはない。僕達は兄弟であり、そして共犯でもあるのだから」
優雅な笑みを浮かべるアルバートはいつもの通り美しい。
とても家族を焼いたとは思えないほど美しい笑みはいっそ禍々しいのかもしれないが、新しくアルバートの弟になった二人がそれに気付くことはなかった。
理想のためには潔癖すぎるくらいに冷徹な人間なのかと考えていたアルバートは、ウィリアムの想定よりも深い深い情を持ち合わせていたようだ。
優しい人なのだなと、ウィリアムは悲しげにアルバートを見ては気を取り直したようにルイスを見る。
ルイスはまだ誰の命も手にかけていない。
詭弁かもしれないが、ルイスは屋敷を燃やす細工を施しただけなのだから、その手はまだ無垢なままだと信じているのだ。
このまま穢れなきルイスであるよう、何としてもアルバートとともにルイスに似合いの国を作り上げてみせると決めた。
そのためなら自分の手などいくら穢しても構わないし、どれほどの命を奪うことになろうともそれを背負い償う覚悟もある。
ルイスだけは絶対に守るのだと、ウィリアムがそう決意を固めながらルイスの細く小さな手を握りしめていると、ルイスの視線は未だ静かにアルバートへと向いていた。
「…アルバート兄様は、あの人を背負って過ごすのですか?」
「そうなるな。あの子が私の弟だった事実は消えないし、忘れてはいけないことだから」
「兄様…」
ルイスにとってアルバートの実弟とは、自分を虐げ兄を虐げた憎しみの対象でしかない。
彼に思うことがあるとすれば嫌悪しかないし、それ以外であるならば無だ。
彼亡き今、思うことなど何もない。
あんな貴族なんてアルバートに愛されなくて当然だし、兄をいじめるような人間なんていなくなって清々する。
だからアルバートが彼を背負って生きていく必要なんてないと思うのに、けれどもアルバートは彼の命を背負って生きるという。
アルバートが依頼し、兄が殺して、今はもうどこにもいないあの彼は、アルバートの心にも兄の心にもずっとずっと住まうのだ。
ルイスはそれが羨ましくも妬ましい。
自分の兄なのに、自分だけの兄ではないのだろうか。
ウィリアムに握られた手を握り返し、ルイスはもう一度アルバートを見た。
「兄様がそのタイを使うとして、今まで兄様が使っていたタイはどうなるのですか?」
二人が彼を背負って生きていくことは二人が決めたことなのだから、ルイスに関与できる余地はない。
けれど、アルバートが自分を押し殺して彼を思わせるタイを身に付けたとして、今まで彼が愛用していた新緑の蝶ネクタイはどうなるのだろう。
初めて出会ったときから身に付けていたあの蝶ネクタイは、きっとアルバート個人が気に入っているものだった。
好んで身に付けていたものを外し、嫌っていた弟の命を奪った責任だとでも言わんばかりに、今は亡き彼を彷彿させるタイを身に付ける。
それがどれほど精神をすり減らすものなのか、感情に疎いルイスでさえおおよその予想が付いた。
アルバートがそこまで背負わなければならないのだろうか。
ウィリアムとアルバートだけが背負わなければならないのだろうか。
自分を、ルイスを混ぜてはくれないのだろうか。
「以前のタイはそのまま処分だろうね。長く使っていたから型も古いし、丁度いい機会さ」
「そんな…兄様にお似合いの、タイだったのに」
「惜しんでくれてありがとう。きっとこのタイも報われるね」
「アルバート、兄様…兄さん…」
優しく微笑むアルバートからは一切の後悔を感じられないし、隣に立つ兄を見てもウィリアムとして生きることに迷いは見られない。
半年前のあの火事から二人は変わってしまって、けれどルイスだけが変わらない。
死んでなお彼が二人に居ついていることよりも、何も変われないまま二人の弟でいることの方がつらいように思う。
変わることは得意ではないけれど、変わる兄達に置いていかれるのは嫌だ。
兄が兄らしくいられる世界はきっともう来ない。
兄はウィリアムとして生きることを決めたのだから、ルイスはそれを受け入れるしかないのだ。
けれど、アルバートがアルバートらしくいられない世界を受け入れるのはルイスにとって難しかった。
アルバートはルイス達を見つけて生きる術をくれた大切な人なのだから、死んだ人間に囚われたままでいてほしくないと思うのだ。
気に入っていたものを捨てて、嫌うものを手に取るアルバートを認めてしまっては、きっとアルバートはこの先も自分を偽り隠して生きてしまうのだろう。
自分を弟として受け入れてくれた大切なもう一人の兄に、そんなにも悲しいことをさせたくない。
けれどルイスは所詮ちっぽけな存在で、ウィリアムの考えを変えることも出来なければアルバートの行動を変えることも出来ないのだ。
ルイスはアルバートがおざなりに持つ蝶ネクタイを手に取り、そのまま自分の方へと引き寄せた。
「ルイス、どうしたんだい?」
「…兄様に必要ないのであれば、これは僕に譲ってください」
「君に?」
「兄様があの人のタイを身に付けるのであれば、僕が代わりに兄様の蝶ネクタイを身に付けます。兄様と兄さんがあの人の命を背負うのであれば、僕が過去の兄様を大事にします。兄様が好んで付けていた蝶ネクタイは、これから僕が身に付けます。だから、だから…」
「…ルイス」
「だから、自分のことまで、嫌いにならないでください…」
「…っ…」
アルバートがルイス同様に貴族を嫌っていることは知っている。
貴族なのに貴族が嫌いだなんておかしな話だけれど、染まりきらずにいたアルバートだからこそウィリアムとルイスは彼に見付けてもらえたのだ。
だからルイスはアルバートのことが大切だ。
大切で、とても特別に想っている。
アルバートがいくら貴族を嫌っていても、貴族である自分自身を嫌っていても、ルイスはアルバートのことがだいすきなのだ。
けれどルイスはちっぽけな存在だから、アルバートの考えも行動も変えることは叶わない。
アルバートがあの人を背負って生きると決めたのならば、それは仕方のないことだと分かっている。
でもだからと言って、アルバートが好んでいたものを捨てることはない。
アルバートが大切にしていたタイを無碍に扱う必要はない。
どうしてもアルバートが大切に出来ないというのであれば、代わりに自分がそれを大切にしたいと思う。
「…僕が兄様の蝶ネクタイを大切にします。型が古くてモリアーティ家にそぐわないのであれば、他の蝶ネクタイを用意します。アルバート兄様が気に入っていたものは僕が大切にします」
「…ルイス、君は…」
「…あの人のことで、自分を嫌わないでください…自分を否定しないでください、兄様」
「…ルイス」
「……優しいね、おまえは」
ルイスはアルバートの実弟である彼のことが嫌いだ。
彼はルイスが知る貴族そのもので、傲慢で狡猾で弱者を忌み嫌う人間だった。
けれど、アルバートは家族でありながら初めて兄以外でルイスに優しくしてくれた人だ。
完璧さを求めるあまり冷徹な人だと思っていたアルバートは、殺めてしまった彼を忘れず、その罪を背負いながら生きようとする誠実さを持っている。
その誠実さこそがアルバートという人間の魅力なのだとようやく知ったけれど、ルイスには今までのアルバートだって大切だ。
くたびれているけれど丁寧に手入れされた上質な蝶ネクタイを首に巻き、ルイスはアルバートが身に付けているアスコットタイに目をやった。
あの彼を彷彿とさせるそれは、今後アルバートのチャームとなるのだろう。
それで良いし構わない。
アルバートが好んでいたタイは、今後は新しくルイスのチャームとなるのだから。
「あの人のタイ、兄様によく似合っています。僕はどうでしょうか?兄様のタイ、似合っているでしょうか?」
ルイスはきっと、あの彼のことをすぐ忘れてしまう。
興味がないのだから、アルバートがアスコットタイを身に付ける姿に慣れてしまえばそれが真実になるのだろう。
そしてこの蝶ネクタイはアルバートではなくルイスのものになる。
二人の兄があの彼を背負って生きるというのであれば、ルイスはアルバートを背負って生きていく。
変わることは苦手だが、兄が認め自分が大切に思うアルバートに染まるのであれば、それはとても愛しいことだとルイスは思う。
「…よく、似合っているよ。ルイス」
「…あぁ、とてもよく似合っている」
「良かった」
ウィリアムはルイスの手をもう一度握り、アルバートはガーゼで覆われた右頬に手をやった。
ルイスの気持ちがとても嬉しい。
愛せなかったあの子の代わりではないけれど、目一杯に慕ってくれるルイスを大事にしたいと心から思う。
目指す理想のためには血生臭い行為に手を染める必要がある。
醜い行為を覚悟しているけれど、それでも今この瞬間、純粋に自分を想い慕ってくれるルイスのことは晴れやかな気持ちで愛おしいと思うのだ。
「ルイスが僕のタイを引き継いでくれるのなら安心だね。大事にしてくれると嬉しい」
「はい!」
ウィリアムは無垢なままアルバートを慕うルイスの手を強く握りしめ、寂しそうに喜ぶその顔を見ては泣きたくなるほど心が締め付けられるのを実感した。
(では、早速ルイスに似合う蝶ネクタイを用意しようか)
(ありがとうございます、アルバート兄様)
(ルイス、何色が良い?僕と揃いにしようか。きっと似合うと思うよ)
(赤、とても綺麗ですね。でも養子の僕と同じ色で後々怪しまれても困るので…)
(…そう、そうだね。残念だね…)
(兄様は今後も緑ですよね?お二人とのバランスを考えると、僕は青色が良いのでしょうか)
(青か、悪くないね。では今から買い付けに行こうか)