グラバーへの手紙 奥日光を愛した人に
https://www.shimotsuke.co.jp/feature/special/special-glover 【グラバーへの手紙 奥日光を愛した人に】 より
グラバーについて
トーマス・ブレーク・グラバー
[写真説明]1898年ごろ、奥日光で釣ったマスを前にしたグラバー(左)と、後に中禅寺湖漁業組合の総代となる大島久治(大島久夫氏蔵)
明治期の産業革命に貢献し、「日本近代化の父」と評される英国スコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(1838~1911年)。昨年7月には長崎市に残る住居「旧グラバー邸」の世界遺産登録が決まり、激動の半生や人物像にも注目が集まった。
しかし奥日光に滞在した史実は県内でもあまり知られていない。
1880年代後半、豊富な経験や人脈を買われて三菱財閥の幹部社員となったグラバーは、長崎から東京に拠点を移したとされる。
そのころ、在留外国人の間で中禅寺湖が避暑地として注目され始めていた。英語の旅行ガイド本にはマス釣りができると紹介された。
英国では昔も今も「釣りは紳士のたしなみ」と言われる。グラバーは89年夏、51歳の時に初めて中禅寺湖で釣りをしたとみられている。その後は湖畔に別荘を建て、夏になると釣りに明け暮れた。
手つかずの自然が残る奥日光は国内屈指の名勝として知られる。
県日光自然博物館によると、奥日光は「いろは坂」登り口から、金精峠の間に広がる地域を指す。日光国立公園の区域内で、開発などが厳しく規制されている。
気候は北海道に似ており、夏は涼しい半面、冬の寒さは厳しい。2千メートル級の山々に囲まれた狭いエリアに、中禅寺湖や華厳の滝、戦場ケ原などの名所が凝縮された様子は「自然の箱庭」と称され、多種多様な動植物も生息している。
中でも中禅寺湖の景観は、世界的観光地として名高い英国の湖水地方やスコットランド高地にも例えられ、欧米人観光客も目立つ。
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/925 【グラバーへの手紙 奥日光を愛した人に】
[9]神仏宿る信仰の山々
「登拝」の歴史綿々と 神仏宿る信仰の山々
日光二荒山神社中宮祠の男体山登拝講社大祭が幕を開ける。深夜の境内は厳かな雰囲気に包まれ、空気が張り詰めた
拝啓 トーマス・ブレーク・グラバー様
男体山は古来、信仰の対象であり続けてきました。私たちは山に入ることを「登山」と言いません。神仏を宿す霊峰なので「登拝(とうはい)」と呼びます。
男体山の信仰団体「登拝講社」は現在、関東一円に約50講あり、講員が約7千人います。男体山を畏(おそ)れ敬い、その恩恵に感謝する人々です。
講員にとって大切な行事が登拝講社大祭(登拝祭)。夏真っ盛りに1週間ほど行われるので、避暑に来ていたあなたも目にしたことがあると思います。特に初日は人出が多く、昨年は約1500人が訪れました。1960年代には、なんと約1万人も詰めかけていたそうです。
山岳信仰の歴史を物語る史料があります。1924年と59年の男体山の山頂発掘調査で、江戸時代までの遺物約6千点が出土しました。奈良期~平安初期の法具や仏具が中心ですが、古墳期の銅鏡なども見つかりました。これは勝道上人(しょうどうしょうにん)が初登頂するより前から、頂が信仰の拠点だった可能性を示唆します。山を管理する日光二荒山神社中宮祠の部長金子宗生(かねこむねお)さん(59)は「山岳信仰の遺跡では国内3本の指に入るといわれている」と説明しました。
一方で男体山に限らず、日光の山々を広く崇拝する人もいます。日本独自の宗教、修験道(しゅげんどう)を実践する「山伏(やまぶし)」です。彼らは山中で厳しい修行を積んでいて、今では一般の人が山伏修行を体験する姿を見ることもできます。
健康志向を背景に、日本は空前の登山ブームにあります。男体山では昨年の登拝期間(5月5日~10月25日)に、過去最多の約3万5千人が登りました。登拝道ですれ違う顔ぶれも大幅に変わっています。目立つのは若い女性です。
にわかに信じがたいことでしょう。あなたが亡くなる前年の1910年まで、女性の登拝は完全に認められていなかったのですから。そもそも奥日光全域は1872年まで、山岳信仰の慣習を理由に女人禁制でした。
外国人も増えています。同じく信仰の山の富士山が3年前に「世界文化遺産」となったので、日光富士の愛称もある男体山にも世界の目が向いているのかもしれません。
ことしから8月11日は「山の日」という祝日になりました。日光開山1250年の節目でもあるので、例年より多くの人々が霊験あらたかな奥日光の山々に足を運んでくれるのではないでしょうか。
グラバーメモ
■日光修験の歩み
修験道(しゅげんどう)は、山岳信仰に仏教や神道を取り込んだ日本独自の混交宗教。日光の山を修練の場とする「日光修験」は、明治期の断絶を乗り越えて今に受け継がれている。
日光三山(男体山、女峰山、太郎山)を神体とする信仰形態は鎌倉期に確立、日光の山々を巡る四季の修行路「三峰五禅頂(さんぶごぜんじょう)」も設定された。勝道上人(しょうどうしょうにん)の足跡をたどって修行精神を学ぼうとする「冬峰」と春の「華供峰(はなくのみね)」、山中の神仏を巡拝する秋の「五禅頂」、そして最も過酷な「夏峰」だ。
室町期に全盛を極めた日光修験は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代に衰退。江戸期に今の二社一寺の年中行事に組み込まれ再興したが、修行性は重視されなくなり、1868年の神仏分離令、72年の修験禁止令もあって、ついに途絶えた。
復活に尽力したのは日光山興雲律院の中川光熹(なかがわこうき)住職(79)だ。同院は1964年以来、簡略版の華供峰を毎年行ってきた。85年から鹿沼市の山王院も峰行を再現、一般参加も毎年受け入れており、「日光修験への関心は高まりつつある」(中川住職)。最近では、宇都宮市の多気(たげ)不動尊の青年僧らが五禅頂を実践している。