長崎の幕末
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【長崎の幕末3】より
幕末の長崎は西洋の近代技術の窓口としてその役割を果たし、海軍伝習所をはじめ長崎溶鉄所(長崎製鉄所)、近代医学、洋式採炭技術、英語伝習所、活版印刷など当時の長崎には、新しい技術や科学が入り、根付いていました。その長崎を目指し、日本各地からそれらの技術を吸収したい若者たちが、この“長崎”を目指して訪れ、学びました。
さて、明治維新を迎える“長崎”では、どんなことが起こっていたのでしょうか。
戊辰戦争
1867年(慶応3)、徳川慶喜の大政奉還にともない、王政復古の令が発せられ、薩摩藩と長州藩を主体として明治政府が樹立されました。
この新政府の圧力に対抗するため、佐幕派であった陸奥国(奥州)、出羽国(出羽州)、越後国(越州)の諸藩は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結びました。
1868年(慶応4)、鳥羽・伏見において薩摩藩と長州藩を主体とした新政府軍と、会津藩と桑名藩を主力とした旧幕府軍が戦闘状態となり、鳥羽・伏見の戦いが開始しました。いわゆる戊辰戦争が始まりました。
長崎会議所
長崎奉行として赴任したばかりだった河津祐邦(かわづすけくに)は、鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍が不利であることを知ると、長崎港守備当番であった福岡藩聞役をよび、後の事をまかせてイギリス船に乗って江戸へと帰ってしまいました。
福岡藩聞役は、薩摩藩聞役・松方正義(まつかたまさよし)や土佐藩士・佐々木高行(ささきたかゆき)らを呼び、事後について協議しました。当時長崎にいた各藩の藩士や長崎の地役人達が協議し、政府から責任者が派遣されるまでは諸事を行なうための協議体を作りました。とくに長崎は開国後、居留外国人が増加していたため、外国人に危害が加えられた場合には、在留軍隊が動き出す危険もあるため、長崎地役人子弟から組織された遊撃隊が編成されていました。各藩兵や遊撃隊が当面は長崎の治安維持に当たることになりました。遊撃隊は1868年(慶応4)に振遠隊(しんえんたい)と改組されました。
こうして政府から責任者が派遣されるまで諸事を行なう協議体を、長崎会議所と呼びました。
河津祐邦の長崎脱出によって、長崎奉行所はその役目を終え、江戸幕府の長崎支配は終了しましたが、このことで長崎の地で旧幕府軍と新政府軍との武力衝突を回避することができたともいわれています。
一方で、海援隊で坂本龍馬を支え行動していた沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)が警備中に誤って薩摩藩士を射殺してしまうという事件も起こりました。沢村惣之丞は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で自刃しました。なお沢村惣之丞の墓は、長崎の本蓮寺にあります。
九州鎮撫総督
西洋の近代技術の窓口としての役割を持っていた長崎を重視した明治政府は、長崎に九州鎮撫総督を置くことにしました。総督には、三条実美(さねとみ)らとともに尊王攘夷派公卿として長州藩にのがれた沢宣嘉(のぶよし)を任命しました。
沢宣嘉は、長崎取締に大村藩藩主大村純熈(すみひろ)、総督参謀には井上馨(いのうえかおる)、町田民部、佐々木高行などを判事に任命しました。
この政庁は当初長崎裁判所と呼ばれましたが、その後長崎府となり、沢宣嘉が初代知事となっています。沢宣嘉は外国事務総督も兼ねており、維新直後めまぐるしく揺れ動くなか、複雑な外国交渉にあたり、後に明治政府の外務卿に転じています
長崎という地
長崎港
長崎は、鎖国時代から出島をとおして西洋の医学、科学、技術をいち早く取り入れてきました。
開国を目前にした幕末期には、オランダからの軍事技術の周到、造船技術、炭鉱など重工業の根幹となる産業技術を取り入れる施設が造られ、日本の近代化のさきがけとしての役割を果たしてきました。価値の高い近代化遺産が、長崎に多数現存するのはこうした歴史的背景があります。
長崎県を旅する時には、長崎の歴史、文化に触れ、長崎県内に残された歴史遺産たちに目を向けてみてください。幕末の長崎を含め、さまざまな時代の長崎の歴史を感じることができます。