思い草
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/omoigusa.html 【思い草 南蛮煙管(なんばんぎせる) 学名:Aeginetia indica】 より
思い草(ナンバンギセル) 鎌倉二階堂の拙宅庭にて
『万葉集』 寄草 作者未詳
道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ
古歌に詠まれた「思ひ草」はナンバンギセルであろうと言われている。ナンバンギセルはハマウツボ科の一年草であるが、薄の根元に寄生することと言い、頭を垂れて咲く姿と言い、万葉集の「思ひ草」によく適合する。
一首の大意は、「道のほとり、穂を出した薄の下蔭の思い草――まるで思い悩むように俯いて咲いている。そんな風に私も恋の悩みを抱えているのだけれども、いやいや、今更もう何を悩んだりしようか」。解釈は様々だろうが、私はこんな風に読んでみた。
万葉集には上に挙げた一首しかないが、王朝歌人はこれを本歌にしてしばしば「尾花がもとの思ひ草」を詠んだ。
『俊成卿女集』 北山三十首 恋 藤原俊成女
くれはつる尾花がもとの思ひ草はかなの野辺の露のよすがや
「すっかり暮れ果てた野辺の、尾花のもとに咲いている思い草は、はかない露が身を寄せるよすがであるよ」という歌。露に涙を暗示し、夕暮、恋人を待ち侘びて物思いに耽る我が身を「思ひ草」になぞらえている(初句を「朽ちはつる」とする本もある)。
恋に悩む自身を思い草に託していることは同様だが、率直に思いを表明する万葉の無名作者と、婉曲にイメージを重ねて見せる新古今時代の俊英女流と、作風は好対照だ。
いずれにしても、「思ひ草」の可憐な風情が活きる、愛すべき佳品には違いない。
写真は鎌倉の拙宅庭にて。犬小屋の周囲の草刈りをしていて、萱の陰に咲いているのを発見した。よくまあむさ苦しい庭までやって来てくれたものだ。
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『新古今集』 (題しらず) *和泉式部
野辺見れば尾花がもとの思ひ草かれゆく程になりぞしにける
『金葉集』 (頓来不留) *源俊頼
思ひ草葉末にむすぶ白露のたまたまきては手にもたまらず
『新勅撰集』 (女につかはしける) *藤原隆房
人知れぬ憂き身にしげき思ひ草おもへば君ぞ種はまきける
『式子内親王集』 *式子内親王
ほのかにもあはれはかけよ思ひ草下葉にまがふ露ももらさじ
『新古今集』 (題しらず) *源通具
とへかしな尾花がもとの思ひぐさしをるる野べの露はいかにと
『宝徳三年百番歌合』 (旅宿夢) 下冷泉政為
臥しわびぬ我がふるさとをおもひ草をばながもとの夢もつたへよ
『漫吟集』 (人のもとにて庭に薄あるに) 契沖
朝な朝な尾花がもとを清むれば思ひ草なき秋の庭かな