相生橋(永平寺町)
相生という地名は日本全国、どこにでもあり多くみられる地名です。
しかしその意味をこたえられる人は少ないのではないでしょうか。
元は同じ根から2つの幹が生えている木を指した言葉です。
そこから派生して、夫婦が共に長生きできる様を指す言葉として縁起の良い印象もありますね。
つまり相生橋とはかつてそういう木が生えていた橋ということ。
全国的に多くあるはずですね。
というわけで今回は京都の相生橋(諸事情につき公開停止中)から続いて福井の相生橋をご覧に入れましょう!
レポスタート!
これじゃないですよ。
五松橋(ごまつはし)
この橋は福井県道110号中川松岡線が九頭竜川を渡る橋です。
この橋自体も昭和32年竣工と実はなかなかの年代物。
ワ―レントラスがいい味出しています。
九頭竜川という全国区の川に架かる橋としては、古い部類に入るでしょう。
時代を感じるものは橋自体ではありません。
これは昭和32年あたりからありそうな駒止め(なのか?)。
混ぜられた砂利の粒が見えるあたりに精度が垣間見れますね。
この辺りで一番新しいのはこの歩行者用橋かもしれませんね。
まぁこの橋掛け変えるってのはなかなか大変な作業になりそうなので、なかなか実施できないでしょうが。
しかし今日の目的はこの橋ではありません。
そこから少しだけ下流に入った場所。
そこにこの橋は存在します。
しっぶいな、おい
相生橋(あいおいはし)
古い橋には名板が失われているものもあるのでまずは一安心。
お名前は判明しました。
まあ、除くのは大変でしたが。
めり込む一歩手前ですよ。
なんなら左端はめり込んでますからね。
ここちらに関しては恐れていた事態。
あるあるなんですけどねぇ。
ここはせめて読み方であってほしい。
竣工年度だけはやめてくれ。
昭和22年12月竣工、GHQがまだ日本にいた時代。
日本国憲法が施行された年。
この橋は生まれたのです。
まさに激動の時代ですね。
さてそろそろわたっている川を拝ませていただきましょう。
橋と川はセットですから。
ふぁっ!?
この橋が渡っているのは川ではなく用水路。
しかしただの用水路と侮るなかれ。
この用水の歴史はなんと1601年にまで遡るのです。
芝原用水(しばはらようすい)
上水道が普及するまでは芝原上水と呼ばれ、飲み水としても使用されました。
最初に開拓を命じたのは徳川家康の次男である結城秀康初代福井藩主です。
鉄分の多い福井市の水にとって、この上水は非常に重要な水だったのです。
振り返ったら情報量多すぎた
えっとまず、橋。
あなたはどなたですか。
閉腹アーチって架橋形式はちょっと渋すぎやしませんか。
次に管。
お前はどこから来たんだ。
橋の下から現れたんでしょうが、びっくりするからやめてくれ。
そもそも暗渠の用水路の上に管を通すとは空間利用が素晴らしいな。
とり急ぎ先ほど見えた橋へ。
これは見逃せないでしょう。
この至近距離で古橋が2本同じ用水に架かってるって状況は大変レアです。
なんせ近くには仕掛ける理由なんて普通ないんですから。
そしてここでまさかの事態。
まさかの同名。
つまりこの橋は親子橋の可能性が高い。
大変残念なのはこちら側の橋の竣工年が見つからなかったということ。
それがわかれば、確実に親子橋と言えるのですが。
しかし道の一連性を考えると五松橋と同時期の可能性が高いのです。
となると昭和30年代。
橋が現役と考えると道自体に何か問題があったのか。
どちらも同名ではさすがに呼びにくいので、最初の橋を旧相生橋、今いる橋を新相生橋と仮称します。
どちらも新しくはないですが。
しかし先ほどちらっと触れましたが、閉腹アーチというのは意外と少ない架橋形式です。
特に物資が乏しい時代には、必然的に物資が必要な形式は避けられてきました。
軍事施設に関連するところではけっこう使われてたんですけどね。
現在、暗渠化されている芝原用水ですが、きっと日本の原風景として美しい姿をしていたのでしょう。
在りし日の姿を見てみたかったですね。
新相生橋から見た旧相生橋。
こう見るとやはり旧橋の方が古く見えます。
しかし親子と言われると疑いたくはなるレベルの年の差です。
微妙だなぁ・・・。
架橋記念碑
これは五松橋の架橋記念碑なので相生橋についての記述はありませんでした。
水に悩まされた福井の歴史。
水と橋の関係は当たり前ですが深いものです。
まだまだ面白い橋が吹くにはたくさんありそうですね。
そしてそんなことより、僕はこの石碑を見て最後にこう思いました。
この石碑に針金は心許な過ぎやしないかと
・・・大丈夫・・・なんだよね・・・。
以上、相生橋(永平寺町)編