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それ、なんの意味があるの?

2020.10.20 04:09

Facebook・船木 威徳さん投稿記事 【 それ、なんの意味があるの? 】

私は、通っていた大学がかなり田舎ゾーンにあったこと スポーツも嫌いだったこともあり、やむを得ない試験勉強以外はほとんど下宿で、ラジオを聴き、哲学書を読むことに明け暮れた。

そんな私も、大学医学部の6年間、唯一、ずっと続けたことがあり、それが、「茶道」の稽古、だった。

下級生は、稽古前の掃除から道具の準備、当然、終わってからのあと片付けもしなくてはならず、入部はしたものの、全く、楽しくもなんともなかったのだ。

それに、お茶を点(た)てる、お客として、お茶をいただく、それらの動作の一つ一つが細かく決まっている。

そのすべてを覚えなくてはならなかった。これも、本を借りて下宿での練習をしながら楽しくないなあ、と感じていた。

では、なぜ、やめなかったのか。

ボランティアで毎週、吹雪の中でも教えに来てくださる先生に申し訳ない、というのが一番だった。一緒に入った同級生たちはほとんど来なくなり、残ったわずかなメンバーが妙に結束していった。

そんな、ある日のこと。茶道の先生が、私の点てたお茶を飲みながら、「船木さんも、20年か、30年かしたら、あのときお茶をやってよかったなあ、と言う時が来ます。

もうお点前も身体が覚えているから将来、いつでも再開できますから。」とおっしゃった。

そんな先のことを、なぜ、急に話したのだろうと感じた。茶道を始めて、3年はたっていたと思う。たしかに、手順など、頭で考えなくても、手が勝手に動く。つまりは、身についた、のだろう。

後輩たちに、動作の意味まで話している自分に、あとから気がついた。

そのころから、急に、お茶の稽古が楽しくなり、茶碗や、釜のひとつずつも愛おしく感じるようにさえ、変わっていった。

それから、20年ほどしたある日。

クリニックを作って、1年半ほどたった頃だったと思う。

スタッフたちと、納涼会をしながら私は、クリニックの将来像、クリニックのスタッフに求める仕事のしかた、原則を話した。

その時に、あるスタッフがぼそっと、ひとこと、「なんの意味があるんだ…」と言った声が、私の耳に入った。

私は、なぜか、その「なんの意味があるのか」ということばが、しばらく、気になってしょうがなかった。

正直、頭にきたが、それよりも「気になった」のだ。

たしかに、私は、医療に関わり応用科学を扱うプロとして、合理性を追求する。無駄を排除し、根拠のない慣習なら、すすんで、それを取り除いてきたもの。それは、そうなのだが。

たまたま、今日、宮台真司氏の3年ほど前のオンライン誌の記事を読んでいて、こんな

くだりを目にした。

(以下引用)

〜学問の基本は武道や演奏と同じだ。基本動作を反復訓練して「自動機械」のように動けるようにする。そこに意識を使わなくなる分、意識に新しい役割が与えられる。「自動機械」化した自分から幽体離脱し、自分に寄り添って観察する。これを「意識の抽象度の上昇」という。

昨今の若者は「何の意味があるのか」と合理性を問い、合理性がないことをしない。確かに企業内には不合理にみえることが多数ある。だが企業人の初心者が逐一合理性の有無を問うても無駄。合理性を問う前に、先行世代のマナーやルールを自動機械のように振る舞えるくらい身につけたほうがいい。思考する価値のある問題に注力するのはそれからだ。自分はできもしないのにマナーやルールの合理性を問う者は、思考レベルが低い。

(PRESIDENT 2017年5月1日号より、

引用終わり)https://president.jp/articles/-/23173?page=3

決して、私が全面的に、宮台氏の主張に賛同しているわけではないし「…合理性を問う者は、思考レベルが低い」などと断言するだけの洞察力を持っているわけでもない。

ただ、たしかに、私が自分の仕事でひたすら科学や合理性を追求しつつ、それでも毎日のように、向かい合わねばならないのは合理性とは程遠い、人間の、生々しい非合理であり、永遠の「なぜ?」を突きつけるこの世の倫理や伝統、ルールなのだ。

氏は、さらに、続ける。

〜抽象度を上げた意識から見れば、「合理的なものが非合理で、非合理なものが合理的だ」という逆説はザラだ。

若者が合理性を問うてきたら、そうした世の摂理を開陳すればいい。

先行世代自身も自分を見直す機会になる。合理性は高い抽象度で判断するべきものだ。

よりよく考えられた合理性とは非合理をも超えたところの高い抽象度で判断するしかない。

つまり、合理性ばかりを追求しても合理性を判断する力を養うことができない、と私は解釈する。

私が、茶道を、何年も好きになれなかったのは、何の意味があるのか全くよくわからない

儀式めいたしぐさがあまりにもたくさんあったからなのだけど、それが、一度身についてしまうとその手順のひとつにも、全く無駄のない、美しい合理性を見ることができるようになった。

スポーツ、武芸や、もしかしたら料理も車の運転や、私たちなら傷ひとつ縫う作業だって

そうかもしれない。

いや、あらゆるプロの仕事に関連した作業は、すべて、一度徹底して身につけないと、それが最初は「なんの意味があるの?」と思えてしかたがないことに、どれだけの合理性が、組み込まれているかさえも、実感することはできないのだと、そして、そこに尽きない楽しみを見出すことはできないのだと私は、あらためて思った。

そもそも、学校の勉強だってそうだろう。

歴史の年号や化学式を覚えて「なんの意味があるんだ」と、誰もが問うだろう。

『やるべきことを、一度は、徹底してやらないと、本当に意味が「ある」ことを判断する力を身につけられない。誰かのことばが、本当かどうかも見分けられなくなってしまう。

連日のマスコミ報道やうわさから新型感染症について、多くの人がどう考えているか、見ていたらわかるはず』もし、いまの私が、スタッフから同じことを言われたら、

こう答えるだろうと、思う。

〜王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり