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Okinawa 沖縄 #2 Day 47 (23/10/20) 旧東風平 (10) Takara Hamlet 高良集落

2020.10.24 01:41

高良集落 (たから)


世名城グスク (ヨナグスクグスク、ウィユナグスク) [10月19日 訪問]

高良集落内

世名城グスク (ヨナグスクグスク、ウィユナグスク)



高良集落 (たから)

絵図郷村帳 (1646年) や琉球国高究帳 (17世紀中頃) には高良は記載されておらず、世名城の一部であったと考えられている。高良村が書簡に現れるのは1713年に編纂が完了した琉球国由来記だ。1863年に世名城から独立して字となるが、1903年に、再度、世名城の小字として一部になり、1947年に世名城から分離して字となる。

部落の始まりは幾つかの伝承がある。伝承の二つは移り住んできたところが野原とある。野原は上の地図でもわかるように高良の北の地域で現在の集落もこの地域にある。主要な門中は七腹プラス1門中で8つだ。国元は佐久真門中、嶽元は大屋門中、ノロ (根屋) は神谷門中だ。ほとんどの門中の姓が野原となっているのは興味深い。

現在の人口は旧東風平村の13の字の中では一番少ない。1880年 (明治13年) の人口が209人 (46戸) の記録がある。これと比較しても現在の人口はさほど変わらない。沖縄戦終結後人口は400人程になったがそれ以降減少し、沖縄本土復帰時は300人ほどになり現在は254人の小さな字だ。

高良は元々面積が狭く、農業に適した耕地面積も限られ、畜産が主要産業であった。(集落を巡ると幾つかの養鶏場や養牛場を見かけた。) そのため、たびたび生活困難に陥り、村は疲弊していった。生活苦から多くの海外移住者を出したこともこの人口推移に表れている。

東風平村史に掲載されている高良集落の拝所は以下の通り

殿・御嶽・井戸調査報告書では上の拝所にさらに追加されている。

10月19日に世名城グスクを訪れた際に高良集落の拝所も見たのだが、佐久真之殿 (下ヌ城 シチャグシク) だけは見落としていたので、今日はもう一度ここを訪れた。世名城グスク内の拝所については10月19日の訪問記に含めている。


世名城グスク (ユナグシク) 

ここは前回訪れた世名城集落と共通の御嶽で、世名城集落訪問記に記載している。この世名城グスクにある文化財の表示には必ず「高良」と書かれている。ここが高良の地にあることを主張している。ともすれば世名城集落に様々な面で吸収されてしまう傾向にあるので、頑張っているようだ。文化財への思い入れは世名城よりははるかに高いように思える。文化財を訪問する側にとってはありがたい字だ。二つの集落の共通の拝所は、上世名城之嶽 (ウィユナグシクヌタキ) と上世名城井のみのようで、先日訪れた中之殿 (ナカヌトゥン)、エン佐久間之殿 (上城 ウィグスク) は高良集落の拝所のようだ。

この世名城グスクにある高良集落の拝所、それを探すためにもう一度世名城グスクに戻ってきた。これでここは3回目だ。


上世名城之嶽 (ウィユナグシクヌタキ)

上世名城之嶽 (ウィユナグシクヌタキ) については10月19日の世名城訪問記で触れたが、ここは高良と世名城共通の御嶽で、二御前 (フタウーメ、二つの神) と呼ばれ、高良集落は東方の日行末威部 (ユキスイヌイベ) を御願する。高良集落では、旧正月、旧1月3日のミッチャヌスク、旧3月1日のウハチ拝み、旧4月20日のアブシバレー (畦払い、害虫駆除の儀式)、旧5月6月のウマチー、旧6月23日の夏のウハチ、旧8月24日の白露の拝み、旧12月24日の師走の拝みと多くの御願の儀式がある。さすが、村の最重要な御嶽だ。伝承では昔、八重瀬按司と高良村の某が結婚をして、ここから高良部落が始まったといわれている。


エン佐久間之殿 (上ヌ城 ウィグスク)

ここも10月19日に世名城を巡った際に訪れている。世名城グスク内にある。

佐久真之殿 (下ヌ城 シチャグシク)

この殿は10月19日には見落としていたので、今日 (10月24日) もう一度訪れて探してみたが見つからない。世名城グスク内のエン佐久間之殿 (上ヌ城 ウィグスク) の道を挟んで斜め前にあると東風平町教育委員会の資料では出ていたのだが... もっともこの資料は地図に間違いが多く、あまりあてにはできないのだが (80%ぐらいの精度と思う)


中之殿 (ナカヌトゥン) / 中の殿井

10月19日に訪れた際には中の殿井は草でおおわれて石の表示板も見えなかった。今日は思い切って中に入っていった。表示板のまわりの草を足で踏みつけて何とか見えるようにしたが、肝心の井戸の方はぎっしりと草でおおわれて、かすかに井戸の周囲の石垣が見える程度だった。この井戸は初水ナディーの際に拝まれている。

上世名城にあるその他の拝所については10月19日に世名城集落を訪れた際の訪問記に記載している。Okinawa 沖縄 #2 Day 46 (19/10/20) 旧東風平 (9) Yonagusuku Hamlet 世名城集落



この世名城グスクのある高台が高良集落が始まった場所で古島と呼ばれている。この古島にはいくつかの拝所がある。



上之井 (ウィーヌカー、高良井、夜闇井 ユヤシンガー)

世名城グスクの入り口付近にこの井戸への表示が出ていた。それに従って進むと、曲がり角に別の標識が、そしてもう一つ。こんなに丁寧に標識があるのは珍しい。それも住民の手作りのものだ。有名な史跡は立派な交通標識とともに掲げられているのだが、このようなマイナーな文化財にも標識があるのはありがたい。集落の人たちはこの井戸が誇りなのだろう、それを多くの人に見てもらいたいという気持ちが伝わってくる。この一帯は古島と呼ばれている。つまり高良集落が始まったころ住居を構えていた場所。現在の集落よりは高台にある。

この井戸は他の多くの井戸とは少し異なっている。井戸は地面から相当に急な斜面を降りて行ってやっと到達できる。まるで岩の洞穴に入っていくような感じだ。下まで降りてみたが注意しないと滑り落ちてしまいそうになる。これには伝承がある。この地は水に困っていたが、高良の七腹の一つの山城門中の祖先がここに水脈があると思い、何年もかけて岩を砕きながら掘り続けやっと水脈に到達して井戸が出来上がった。それ以降、この井戸は水が絶えることなかった。水道が敷設されるまで集落の人たちに水を供給し続けたという。この話はこの井戸を見た後に知ったのだが、何枚もの案内板やこの井戸の形状に合点がいった。やはりここは村の誇りで、歴史の一コマなのだと.... この井戸も旧1月3日のミッチャヌスクには御願されている。世名城グスクでおじいと出会い、暫く話をしたときに、この井戸を見るように勧められた。おじいの子供のころはきれいな湧水が出ていたそうだ。旧正月には子供達が、初水を汲みにこの井戸まで来ていたそうだ。ここで汲んだ初水を家に持ち帰って、お年玉がもらえるのだ。高良集落からこの井戸までは600-700m程の距離で、半分は坂道で、なおかつ、井戸も急な階段を降りて汲まねばならず、今の子供達だと悲鳴をあげるだろう。おじいはこの井戸のことを自慢そうに語ってくれた。


内原之殿 (大屋之殿 ウフヤヌトゥン) / 大屋之殿井 (ウフヤヌトゥンガ-)

この殿は上之井の近くの草むらの林の中にある。集落の七腹の一つの嶽元である大屋門中が司宰をしているので、大屋 (ウフヤ) 之殿とも呼ばれている。昔は内原之殿 (ウチバルヌトゥン) と呼ばれていた。周囲は石垣で囲われている。

隣には大屋之殿井 (ウフヤヌトゥンガ-) がある。殿は旧1月3日のミッチャヌスク、旧5月6月のウマチー、旧8月15日の夜祭に拝まれている。大屋腹は高良集落の嶽元 (タキムトゥ) にあたる。 

その隣にある大屋之殿井は、旧1月3日のミッチャヌスク、旧5月6月のウマチーで御願されている。


この高台から高良集落へ下る道路沿いにも拝所が三つある。祝女 (ノロ) 井、威部御嶽 (イビウタキと知名 (チナー) 御嶽だが、知名 (チナー) 御嶽はみつけられなかった。



祝女 (ノロ) 井

上之井 (ウィーヌカー) がある高台から高良集落まで降りていく道路の脇に井戸が数か所ある。その一つが祝女 (ノロ) 井で旧1月3日のミッチャヌスクの際に御願されている。


威部御嶽 (イビウタキ) / 威部井 (イビガ-)

祝女 (ノロ) 井から道路を数十メートル下ると、もう一つ拝所と井戸がある。威部御嶽 (イビウタキ) とそれに付随する 威部井 (イビガ-)だ。ここも旧1月3日のミッチャヌスクで御願されている。


知名 (チナー) 御嶽 [未訪問]

この知名 (チナー) 御嶽をいろいろなところを歩き探すも、見つからない。資料の地図の場所は幾つか間違っているところがあったので、ここもどうなのだろう?



次は高台から降りて、高良集落内の文化財をめぐる。



サーターヤー (製糖場、黒糖小屋)

世名城グスクのある丘陵の麓、集落の南の端にサーターヤー跡の石柱が立っている。ここで収穫したサトウキビを黒糖にする小屋があったのだ。今でも周りはサトウキビ畑が広がっている。サーターヤー跡も拝所となっていることは意外だった。それほど、住民にとってサトウキビが生活の上でいかに重要な存在であったかがわかる。ここには旧1月3日のミッチャヌスクと旧4月20日のアブシバレー (畦払い、害虫駆除の儀式) の時に御願されている。


タルガー (産井)

サーターヤー跡のの近くにある井戸。ここに集落ができる前からあったそうで、高良集落では重要な井戸。形がサーター樽のような形をしていることからこの名がついたともいわれている。水量も豊富で水質も良好で、豆腐作りにも使われた重要な生活用水であった。赤ちゃんが生まれたときには産湯の水として使われ、初水ナディーでもこの水が使われていた。旧正月、旧1月3日のミッチャヌスク、旧3月1日のウハチ拝み、旧4月20日のアブシバレー (畦払い、害虫駆除の儀式)、旧5月6月のウマチー、旧6月23日の夏のウハチ、旧12月24日の師走など多くの祭祀に拝まれている。


トーヌアタイガ- (高良)

集落の西側を流れている報徳川の支流が字の境界線になっている。高良側の道路沿いに形式保存されているトーヌアタイガ-がある。初ミジナディ (水撫) で御願されている。


中瀬之殿 (ナカガワスヌタキ) / 中瀬井 (ナカシーガ-) [2021年2月1日 訪問]

「東風平村史」の大まかな地図には中瀬之殿の場所が記載されていたのだが、「殿・御嶽・井戸調査報告書」では所在地不詳となっている。「東風平村史」で記載している場所は畑になっている。

2021年2月1日に旧真壁村新垣集落に向かう詩にここを通った際に畑がきれいに刈られ、その中に石柱が建っている。以前ここを探したが見つからなかった中瀬之殿 (ナカシーヌトゥン) とかかれている。やはりこの場所が殿だったのだ。中瀬井 (ナカシーガ-) についてはやはり見つからなかった。


高良農村公園 / 川田之殿 (タータヌトゥン)

高良集落の中にある高良農村公園の一角に御嶽が残っている。旧正月2日、旧5月6月のウマチーに御願されている。公園にはすべり台が二つある。ひとつはコンクリートで作ったもの。もう一つは金属製の今では一般的なもの。このコンクリート製すべり台は時々見かける。戦後に村の人たちが作った手製のものだろう。これは滑り心地も悪く、今では誰も使っていないと思うが、当時の思い出として残しているのだろう。


佐久真之神屋

高良集落内には国元 (クニムトゥ) である佐久真門中の神屋で、佐久真門中関係者だけでなく村として旧正月、旧5月6月のウマチー、12月24日の師走の拝みに御願されている。


手田川之嶽 (テラガーヌタキ、ティラガーヌタキ) / 御手田川井 (ウティダウガー、テラガー)

高良集落の北の隣の字の糸満市の与座に高良集落の住民のはいしょがある。この手田川之は世名城集落の門中の屋号宇根家が司宰をしており、昔に読谷村波平から移住してきた屋号宇根の租神を祀っている。手田川之嶽 (ティラガーヌタキ) が祀っているのは 寄石威部 (ユリイシノイベ) で、同じ場所にある形式保存されている御手田川井と同様に初ミジナディ (水撫) で御願されている。


我謝川之嶽 (カズカワヌタキ、ガジャウタキ)  [所在地不詳]

高良集落の集落「殿・御嶽・井戸調査報告書」(2002年発発行) では、糸満市の与座の手田川之嶽の近くにあるとなっている。この御嶽も高良と世名城共通の御嶽で写真まで載っているのだが、東風平村史 (2004年発発行) では所在地不詳となっている。地図に載っている場所を探す。この場所が地図に載っていたところだが、そこには小屋があり、人が住んでいる様子で、中に立ち入って探すのはためらわれた。公民館で地元の人に聞くしかないだろう。旧1月3日のミッチャヌスクに御願されているそうだ。


中我和瀬之嶽 (ナカガワスヌタキ) [所在地不詳]

「殿・御嶽・井戸調査報告書」では所在地不明とある。もう高良集落ではこの御嶽を御願していないので時とともに忘れられて、今では誰も知らない。


高良集落で御願されている拝所をまとめると下記のようになる。最も多く御願される祭祀行事があるのが上世名城之嶽で、集落ができたときからの重要な御嶽だ。井戸としては産井となっているタルガーが上世名城之嶽とほぼ同じ時期に御願されている。祭祀行事としては最も多くの拝所巡りがされているのが、やはり旧暦5月6月のウマチーと旧暦1月3日の仕事始めとなるミッチャヌスクだ。

今回見つからなかった拝所は以下の通り、この拝所については後日、公民館で確認する予定。


参考文献