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水車のたとえ(二宮尊徳のご子孫・中桐万里子さんの講演から)

2020.10.21 02:36

https://ameblo.jp/makworld/entry-11657176747.html  【水車のたとえ(二宮尊徳のご子孫・中桐万里子さんの講演から)】より

雑誌致知のメルマガの記事からの紹介です。

内容は、今年の6月に開催された二宮金次郎七代目子孫・中桐万里子さんの講演会からの引用になっています。

(引用ここから)

ちょうど田植えが終わった初夏でありました。

農民が、重労働が終わったと一息ついていたある日、金次郎は大変な形相で村人全員にこう言ったのです。

「今年植えた米の苗、全部抜いてほしい」

彼はその日、ナスの漬け物を食べて驚愕したのです。「秋ナスの味がする」と。

カレンダーではこれから夏が来るというのが常識であります。

ところが金次郎はいまが秋で、これから冬が来る、つまり冷夏がやってくることをナスは伝えているのではないかと判断したのです。

そして寒さに弱い米から、稗などの寒さに強い作物への植え替えを指導しました。

この年から、日本全国が地獄絵図になったと言われる「天保の大飢饉」がやってきたのです。

しかし、金次郎がいた村では、一人の餓死者も出しませんでした。

植え替えの結果、作物が実ったのです。

金次郎はこの事例を通して、どんな環境の中でも必ず豊かさを手にして

生活できると実証してみせたわけです。

それは金次郎にしかできないのでは?

と思うかもしれません。

けれどもしそうであったなら、六百もの村が再興することはなかったのです。

彼は村人一人ひとりが実践できるよう、水車を使ってその方法を説明していきます。

水車と川の関係では、全然違う個性のもの同士が生かし合い、さらにエネルギーが生み出されている。

金次郎はこれこそ理想的な現実の姿だと説きました。

皆さん、自分自身を水車、直面している現実を川だと思ってください。

そこで重要なのは、どんな水車も思い切って川に飛び込むところから回り始めるということです。

何が流れてこようとも、頭から突っ込むことが始まりだというんです。

しかし、そのままでは水車は流されてしまいます。

水車にとってもう一つ大切なことは、その場に踏みとどまり、川とは逆向きに動くことであるわけです。

つまり彼は、私たちは現実に半分従い、半分逆らって動けばいいと言うのです。

彼が言う「従う」とは相手を知ること、さらには、どんな現実や相手でも、覚悟を決めて受け入れることでありました。

そしてその上で大切なのは逆らうこと。つまり現実に対して対策を立て、実践することだというのです。

先ほどのナスの事例は、まさにこの通りでありました。

彼は冷夏をなくしたわけではありません。ここは米のための土地だといったこだわりを捨て、冷夏を生かす方法を考えたことで知恵が生まれたことが、彼にとって最も大切なことでした。

そして彼が現実を知ることを重んじた背景には、どんな現実も実りを生む力を持っているという信念があったのです。

私たちは困難にぶつかった時「自分って無力だなぁ」と思ってしまいがちです。

けれど金次郎は、一人として無力な人間はいない、私たちが壁を越えられないのは、無力なのではなく「無知」だからだと言い切ります。

彼は、実りを生み出すのは能力ではなく、従い、逆らうことができるかどうかだと考えていたのです。

(引用ここまで)

一人ひとりの力は小さいけれど、正しい方向に向けて努力をすれば、きちんとした成果が生まれることの実例ですね。

二宮尊徳翁のこうした話を知っているだけでも、人間としての軸がしっかりしてくると思います。


http://www.pref.tochigi.lg.jp/c05/intro/tochigiken/hakken/jinbutsu1_14.html 【二宮尊徳(にのみやそんとく)】 より

1787年から1856年まで 稀代の農村指導家

通称金次郎。生家は小田原藩の豊かな地主であったが、酒匂川の洪水で田畑が荒廃し、さらに14才の時父を、16才の時母を亡くした。

しかし、そのような不幸の中から尊徳は天才的な創意と努力を重ね、30才の時には大地主となり一家を再興した。

その後、小田原藩家老服部家の財政を再建して藩に用いられ、藩主の分家である下野国桜町領(真岡市南部付近)再興を命じられた。1823年、一家をあげて桜町領に移り住み、以後、その死まで30数年間、栃木県での農村復興に取り組んだ。

下野国と二宮尊徳

桜町領・茂木領・烏山藩などで農村再興に成功した尊徳は、1853年に日光御神領再興を命じられ、仕法の実践にあたったが、1856年今市で没した。

尊徳の説いた「報徳仕法」とは、全ての階層の誰もが誠実に努力を積み重ねれば報われるという実践的な仕法であったことから、勤労を尊ぶ国民性と相まって、今日に至るまで多くの人たちによって継承・実践されてきた。

県内には真岡市の桜町陣屋跡、今市市の尊徳の眠る如来寺、報徳文庫などの他、各地に「二宮掘」などの尊徳の足跡が残されている。