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Eimi企画  それぞれの虹

柚子

2020.10.21 04:24


『柚子』

       蘇芳 環






 朝早く、百合子は軽乗用車の後ろに柚子を乗せて、村の自由市場に向かった。


「お願いしまーす」

 午前六時、まだ外は真っ暗だが、自由市場の駐車場には次々と荷を降ろすトラックで一杯だった。

 マーケット内では明々と電燈が点けられ、検入や陳列の人で活気溢れている。

 百合子は荷を降ろし、自分の名前の入った袋詰めの柚子を次々と棚に並べていった。

 生産者が卸を通さず直接販売できる村営の自由市場は、数年前幹線の国道に面した土地を買収して建てられている。

 高齢者ばかりが残る農村の村をあげての事業で、自由市場の隣には地ビール工場、レストラン、ハム工房、うどん屋等が軒を連ねている。

 初めの年には見向きもされなかったマーケットも、駐車場が整備され、客足が増えるに伴い、参加者は鰻上りに増えていった。

 商品内容が充実していくにつれ増々売れ行きが良くなる。

 いい循環が始まり、今では観光バス等で駐車場は、常に一杯となっている。


 百合子は家に戻ると最後の柚子をもいで、大きなダンボール箱に詰めて台所裏の洗い場に置いた。

 出荷しないそれらは、一つ一つ手で絞って、汁は酢とし、 皮は薄切りにして、総菜やすし飯に混ぜ込み活用する。

 多い時は果肉をジャムにし、皮は砂糖煮にする。

 最後には網の中に入れられて風呂に浮かべ、柚子風呂となる。


「お、いけない、 急がなきゃ」

 百合子は今年で四十五歳になる。

 この村で生まれ育ち、未だに村に住みついている。

 ここを離れたのは、結婚していた五年間だけで、離婚した後には再び村に戻って来た。

 百合子は時計を見て、慌てて割着を脱き捨てた。

 お盆の上に用意した一人前のお粥と味噌汁と漬物を、居間のこたつの上に持っていった。

 部屋は起床と同時に温められている。

 彼女は襖の向こうに声を掛けた

「お母さん、起きちょる、朝よ」

「はい。起きます」

 返事はすぐに返って来た。

「朝御飯、置いちょるけんなあ。うちは洗面所におっちょるけん」

 そう言って、百合子はさっさとその場を離れた。

 脱衣場の前で身仕度を整え、簡単な化粧を済ませて居間に戻ると、母がこたつの前に座ってお粥をすすっていた。

 灰色の髪は撥ねたまま、寝着も兼用の部屋着を着込んでいる。

 茶碗の上に覆い被さるようにして、ズルズルと音を立てて汁を吸るのは毎朝の見慣れた姿である。

「お母さん、おはよう」

 だが、母の目に百合子は映らなかった。

 百合子は仕度をしながら更に続けた

「お母さん、今日はお母さんの誕生日やろ。早めに帰って来るなあ、晩御飯はちらしにしようなあ」

 母のサカエは七十五歳になる。

 ちらし用の柚子は用意している。

 細切りにした皮を混ぜ込んで作る散らし鮨は、以前は、サカエの得意料理だった。

 百合子が結婚して家を離れている頃は、毎年母が柚子を絞り四合瓶に詰めて送って来ていた。

今度は、かつての母のように、百合子が毎年柚子を絞って瓶に詰めているのである。

「はい。それはようすんません」

 母はそう言って、 箸を置いて百合子の方に向き直った。

「どこのどなた様か存じませんが、本当に有り難うございます」

 手をついて頭を下げる母を見ながら、百合子はいつも込み上げる思いを自制しなければならなかった。


 酒乱の夫に悩まされ、その暴力とわがままに精魂尽き果てた彼女の心が崩壊したのは、ひとり娘である百合子が結婚して、家を出たころだった。

 それを教えてくれたのは柚子だった。

 結婚して村を離れた百合子の元に毎年送られてきた柚子の果汁は、四合瓶に二本。

 母はそれを箱に詰め、きれいに包装して、送ってくれていた。

 果汁を瓶一本に詰めるのに、柚子三十個以上を必要とする事さえ百合子は知らなかった。

 そして五年目、突然、四合瓶が二十本も送られて来たことで、彼女は初めて母の発病を知ったのである。


 百合子は夫と別れて実家に戻ったが、母の心は戻らなかった。

 父はもっとずっと以前に、既に癌で亡くなり、サカエはとっくに自由の身であった。

 

 だが母は、人の区別もつかず、周囲の話にも耳を貸さない。

 自分の世界だけで生きている。

 そんな母を目の当たりにして、初めて母の苦悩の深さを知った。


 百合子はにっこり微笑んだ

「さあ、食べて。 時間がないんじゃら」

 もうすぐ、ディケアの人が母を迎えに来る。

 同時に百合子は隣町の自動車部品工場へと出社し、帰りにデイサービスセンターに寄って母を連れて帰る。

 それが百合子の毎日だった。

「お早うございます。サカエさん」

 福祉バスが来て、いつもの保健婦が愛想良くあいさつしながら母を車内に乗せて行くと、百合子も急いで食器を片付けて、家を出た。

 昔と違って、"認知症"という病名も貰い、堂々と介護をお願いできる。

 人目を忍ぶ必要も、全てを胸の内に秘める必要もない。

 それだけでも心の負担は軽くなる。

 その分、経済的な負担は確かに増えたが、それでも百合子にとって年々状況は改善されているように感じられていた。

 母を乗せた福祉バスが行ってしまい、ようやく自分のことに心を留める。

 始業時間までには、もう少し時間がある。


 百合子は工場に向かう途中の、公園の前で車を止めた。

 車を降りると息が白く浮かび上がる。

 高台に造られた森林公園からは、冬枯れの田畑や隣町の集落なども一望できた。

 彼女は山の斜面にそって植えられた公園裏の樹々へと向かった。

 砂場や色鮮やかなジャングルジムの間を抜けて、一番奥に植えてある大きな野生の柚子の木の前に立つ。

 じっと、その太い幹を見つめていた百合子は、さらに黄色い実を確認するようにじっくりと見上げた。

 そして、その枝を掴み、足を掛けて、勢い良く登り始めた。


 若い頃のようにはいかない。

 自宅のものと違って技が高い。

 身体が重くて脚が震えている。

 それでも腕に力を込めて登り、枝の先に生っている一番美しい実に手を伸ばした。

 靴を脱ぎ捨てスカートを捲った姿は、傍目からは見苦しい年増女に見えるだろう。

 それでも百合子は脚を踏ん張り、腕を伸ばし、遂にその実を掴み、思い切り力を込めて引き千切った。

 その瞬間、二十年の時を経て、かつて懸命に百合子を説得しようとしていた夫の顔が、突然思い起こされた。


 優しい人だった。

 離婚の必要はないと言い続けていた。

 しかしその優しい夫が、いつか父のように豹変しないと誰が言い切れるだろう。

 事業に失敗するまでの父も、優しい人だったじゃないか。

 心の中に様々な葛藤が蘇る。

 それまでずっと自慢だった母なのに、その今の姿を見られたくないと思ってしまった自分がいる。

 そんな母が可哀そうで、母を原因とした喧嘩の可能性さえ恐ろしいと思う。そうすると、どうしても夫の言葉に、首を縦に振ることは出来なかった。

 結局、自分もまた母のように、人を信じる事ができなかったのだ。


 それは甘く懐かしく、そして苦々しい香りと共に弾けた映像だった。

 そして百合子の心には、苦しみでもなく悲しみでもない何かが残った気がした。


 遠く新国道の向こうに、村営の自由市場の看板が建てられている。

 大きく赤々としたその看板や銀色のモダンな屋根やドーム型のステージ等が、僅かに見え隠れしている。

 百合子はそれらを見つめながら、手にした柚子に噛みついた。

 痺れるような酸味と苦味が、鼻と口一杯に染み渡り、そしてそれらを消し去るほど、しょっぱい味が、あとからあとから口の中に広がったのだった。




(了)