いけばな稽古。何も生けない。
昨日は華道のお稽古で、師匠の名言をたくさん聞きました。初めて聞く名言ではなく、繰り返しおっしゃっている言葉ですが、稽古の回数を重ねるごとに、身に染みてくるように思います。
そもそも稽古は「できないところをできるようにするもの」というようなことをおっしゃっていました。そう考えると、私は出来ないことをしようとしているのだから、今できないという苦悩を持っていることは、稽古にふさわしい土壌にいるということで、回数を重ねていけば、だんだんと分かってくるのだろうと思います。
しかし、先日の英会話の先生との対話で、「君はいくら華道の稽古を積んだとしても、先生の感覚はコピーできないんだよ。君は稽古で自分の感覚を養っていくんだ」と言って貰えたことで、私は胸をなでおろしました。ちなみに、このメルマガは神回です!
そんな言葉の後だったので、昨日の稽古は、先生のやっていることを真似しようというだけでなく、真似している間に自分の感覚はどうなっているか? まで洞察して取り組むことができました。そうすると、いつもと姿勢が全く違うのを感じたのです。
コーチングを学んでいく中で、途中から守破離の「破」にきたとき、自分の感覚に着目していたはずです。いろいろと取り入れたいメソッドがあり、それを使っている自分の感覚を鍛えて行ったのです。だから、今感覚的にできるようになっている、そんな習得のプロセスも思い出しました。
昨日は、全く生けることなく稽古が終わりました。先生が、「全く生けない生徒もいる」とおっしゃっていたので、私もそれをやってみたのです。誰かが教えを受けているとき、自分も聴きにいきながら、その所作を見る。そういうスタンスです。そのような動きをしていたら、師匠にその学び方にOKを貰いました。そして、試行錯誤は家で教科書を使い、復習や予習をするときにするのです。
自分の作品を手直ししてもらうことが稽古と思い込んでいたのでしょう。それだと、自分の手元ばかりに集中して、教えてもらう機会をロスしていたのです。華道を通して、「いかに学ぶか」と言うことを学ばせていただいているようです。相変わらず花材が上級すぎて、手に負えませんが。(笑)
今、家の中がトロピカルないい波動出ています。(笑)