ZIPANG-5 TOKIO 2020 「最上紅花」 が 「北前船」のプリマドンナだったこと知っていますか?(その2) ・・・【寄稿文】色紐子
「紅花資料館」の紅花畑
この資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡である。屋敷の総面積は約80haで、かつては土蔵が6棟、板倉が7棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまった。
この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点が保存してある。
昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館した。
〒999−3511山形県西村山郡河北町谷地戊1143 TEL:0237-73-3500
最上川 「五月雨をあつめて早し最上川」 芭蕉
北前船の繁栄から誕生した「酒田まつり」
1609年から一度も休むことなく続いている山王祭。
上下両日枝神社の例大祭「山王祭」として、1609年から一度も休むことなく続いているお祭りで、酒田大火復興記念となった昭和54年から「酒田まつり」として開催。
本祭りでは、大獅子や仔獅子、傘鉾など約50台の山車行列がある。
はじめに
前回の記事では日本海側こそが「表日本」だったお話に焦点を合わせましたが、それには切っても切れない主人公が「北前船」だったからです。また、その「北前船」にとっては、切っても切れないプリンセスが「最上紅花」なのです。今回はそのお話が中心となります。
北前船 千石船
酒田 山居倉庫 北前船集積地の米倉庫 「おしん」の舞台となりました。
酒田 山居倉庫
北前船西廻り航路の主力商品はお米。ではなぜ数あるお米の生産地の中から酒田が北前船の寄港地として選ばれたのでしょう? それはお米の保管倉庫として使われている山居倉庫が最上川に隣接して建ち、船にお米を積み込むのに便利だったことが理由のひとつであり、保管に必要な様々な工夫凝らされていたことがあるのだろう。
この山居倉庫は白壁、土蔵づくりの倉庫が9棟も連なりお米が10,800トンも収容可能。風よけや西日による高温防止のために背後にケヤキを植えたり、内部の湿気を防止するため二重屋根にするなど、お米の保存に最適な倉庫にするための工夫があちらこちらに見られます。
今も現役の農業倉庫として使用されていて、秋には収穫されたお米を運ぶ風景を見ることができるのです。
酒田 堂々たる門構えの本間家。武家造りと商家造りが1つになった珍しい建築様式
酒田 本間美術館
本間家 ゲストハウス名勝「鶴舞園」
文化10年(1813年)に建築され、名勝「鶴舞園」をはさんで本館と新館(昭和43年竣工)がある。本館は清遠閣と称され、2階建ての銅板と瓦ぶきの建物である。
藩政時代は庄内藩主や幕府要人を、明治以後は皇族や政府高官、文人墨客を接待する酒田の迎賓館の役割を果たし、大正14年には昭和天皇の御宿泊所になりました。
昭和22年に市民に開放され、全国に先がけて地方都市の私立美術館として開館したのです。
所蔵品には、本間家が大名から拝領した品、歴史資料として価値の高い文書、当主が好んだ茶道の器物など、重要文化財や重要美術品が多数あります。
2009年には、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にも掲載されています。
旧阿部家 片中門造り
旧阿部家 正面
1690年(元禄3年)の創建といわれる古民家で、市指定文化財である。
代々坂本新田村で村役(肝煎)をつとめた阿部喜助氏の住居で、当時の特徴である片中門造りで、柱は雑木のチョウナ仕上げである。一向宗信仰の仏間も貴重なものである。
2月11日の小正月行事など、季節毎に行事が行われている。
旧阿部家ひなまつり
町内をはじめ、庄内一円から寄贈された雛人形が、約600体飾られている。
江戸時代末期から戦後にかけて作られた昔ながらの瓦人形が奥座敷に並ぶと素朴な懐かしさに包まれる。瓦人形の製作体験も行っており、時間のない方には絵付け体験のみもある。
開催期間 毎年3月から5月上旬 料金 無料
住所 山形県酒田市山元字上千刈田27 電話番号 0234-54-2776
交通アクセス 砂越駅より山元行きバス30分
その前に…
おさらいのつもりで、酒田の北前船が如何に隆盛を誇ったか…ポイントを抜書しますね。
✦酒田市にある回船問屋の鐙屋は井原西鶴の「日本永代蔵」に「北の国一番の米商人」と記述。また、世界を風靡したTVドラマ「おしん」の奉公先。
✦日本一の大地主になった酒田本間家は山形県の米沢藩を支えた
✦百万都市の江戸は物不足となり、河村瑞賢が拓いた西周り航路は庄内米などの輸送で本領発揮し人々の暮らしを支えた
✦出羽の紅花は、お米と並び酒田の商人に多大な富を築いたといわれる。
✦帰り荷には、紅花染の雛人形や京友禅など京の文化を運んだ。
……全て見学可能です。
まだ、(その1)をご覧になっておられない方は 、
下記のリンク記事をご覧ください。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 表日本とは日本海側だったこと知っていますか?(その1)・・・【寄稿文】紅山子
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10889691
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色紐子が見た紅花伝説の裏話
【第一章】
紅花の原産国は長年、エジプト起源説が定説だった。
エジプト「ツタンカーメン王」
振り返ると、つくば市にある現在・産総研(旧通産省傘下の国立研)から山形市に創設されたばかりの芸術系工科大学へ転職したのは、30年前のことでした。 以来、山形県が最大の紅花栽培産地だった事を初めて知ることになります。その頃、紅花は全国的にエジプト起源説が大勢を占めておりました。
紅花の由来については当時、色彩学の中でも、我が国を代表する染織家や研究者等の文献を紐どくと夫々の見解が異り錯綜していました。 …エジプト起源説、エチオピア説、ペルシャ説、アフガニスタン説、インド説等々…共通点はシルクロード地帯ではありましたが…
その後暫く経って 、県の農業総合研究センターによる
「最上紅花」※¹の遺伝子分析では、どうやら古いイラン(ペルシャ)原形のものと一致したらしく、それ以降はエジプトまたは西アジア起源説が併記されるようになり、最近では西アジア起源説が優勢になりつつあります。
※1「最上紅花≈モガミベニバナ」とは北前船の酒田港から積荷する為、米や青苧などと共に県内各地から大動脈となる最上川舟運にて酒田港へ集結するのです。その名に因みモガミベニバナと呼ばれました。
私の運命を変えた紅花との因縁
~夏~ 米どころ庄内のシンボル山居倉庫。明治26年(1893)に建てられた米保管倉庫。
~冬~ 敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館を併設。
そんな中で私は、.風土の環境色彩と人々の感性や嗜好色或いは美意識に及ぼす影響に関心があり、紅花に関しては山形にご縁が付くまでは全くのド素人でした。
ところが、大学教員としての定年間近になって、大学の東北文化研究センター(赤坂憲雄センター長)の特別研究プロジェクトの一環として、とてつもなく、おこがましい幸運が舞い込んできたのです。
それと言うのは、山形の県花である紅花のルーツをエジプト或いは西アジア(現地シルクロード)に探る過程を色彩学の視点で映像化し、それが母国の東北文化に如何なる影響を及ぼしたのか?…について40分もののビデオ作品5本を制作するという条件付きの大役が与えられたのです。これはやるしかない!・・・
シルクロードにおける紅素花産地の拠点を洗い出し、実に5年間に亘る現地調査として、5名の隊員によるチームを募り、暗中模索しながらの決死的プロジェクトが始まったのです。
山形では、我々よりも20年前に先遣隊チーム(山形大学名誉教授・渡部俊三隊長他3名)が同様の調査をしました。これは、山形新聞社の企画で特別プロジェクトとして、連続3ヶ月に亘る調査隊を現地に派遣し、エジプトを起点とするアフガニスタン、インド広域圏を詳細に調査した報告書として残っています。
しかし、結論は今日のシルクロード上には、紅花が咲いている形跡が皆無であった…とする誠に残念な結論を導いていました。
それを何故、我々が再び行うのか?? ・・・
あの夢に見たシルクロードの野生種紅花は何処に?
ウルムチから北西部に広大な紅花栽培のジムサル市が存在
理由はその事実に対しての検証と根拠の洗出しにありました。
それを踏まえて、確認した結果はその事実に関する限り、確かに群生した場面の痕跡さえも見当たらず、結局、ルーツ探しにおいては収穫無しでした。
但し…タクシー運転手の情報でウズベキスタンのタシケントから150km離れた奥地に、かなりの規模で紅花農家の集落があるとの聞き込みをたよりに現地迄車を走らせたところ、季節外れで枯れ花の確かにそれは、紛れもない紅花そのものでありました。
しかし用途は漢方薬又は採油用でした。(同じく、現代では世界の各国にも採油用の大規模農場が存在するようです。)
ある農家を訪ねると、日本と同様に庭先の土の上に敷かれた何枚ものむしろに、紅花の花弁をむしり採った散花の状態で干されていました。
用途は漢方薬用であるということでした。でも、私たちが2年掛かりでお目にかかった本物だったので一同小躍りしたい気分!!
序でにこの地域では染料としての利用は?と質問したところ、それは今も昔も記憶に無いとの答えが返ってきました。
でも、当方はそれで十分に満足でした!ウズベク全体地区には歴史的に、絨毯などには遙か昔にトルコ辺りからの交易品に紅花染料のものがあったようですか、当地場産の製品は無い事が確認できたのです。嬉しいような…落胆したような…
視点を変えることで謎が解けてきた
謎その1. エジプトのミイラが紅花染の包帯で巻かれていたのは本当か?
エジプト起源説の根拠はどうやら、エジプトのミイラが防腐処理として、紅花染の布を巻きつけていたとする話から、俄然、私はソレを確かめたくなり、或るツアーに加わり、決められたコースを抜け出し、単独で、エジプトの国立科学博物館での特別ミイラ安置室を見学したのです。
それは見学者もまばらながら、シルエットでそれとわかる薄暗さの大空間に、累々と横たわる何十体ものミイラが安置されていました。
何千年の時を超えてそこにいるのです。不気味ではありますが、感動の方が上回りました。
私が確かめたかったのは、何故、ミイラが防腐のために紅花染めの包帯を巻きつけていたのか?を知りたかったのですが…それらは2千年以上も時を経ているのに、最も色褪せし易い紅色が残っているのかどうか?
果たして…全ては薄暗がりの中、胴体に巻きつけられた包帯も、更にその上に巻きつけられた、つる草の飾りらしきベルト、飾りの胸まで垂らしたネックレスも皆、色褪せたべージュ系褐色で、名前さえも判断できる状況ではありませんでした。ただ、愛惜の印しとしての外から巻き付けた献花。これこそが枯れた紅花の痕跡では?と強く感じた次第です。
博物館で入手した解説文にも、何一つその事に触れず仕舞で、帰国してからミイラの作り方を研究した資料などを、幾つか読み返す等して、結局わかったことがあります。
謎その2. ミイラの防虫防腐剤は紅花ではなく、ナトロンであった。
当然、巻かれている包帯は亡くなった遺体の永久保存の為の防腐処理でしたから、主に使われた防腐剤とはナトロンというものでした。アフリカにあるナトロン湖にはフラミンゴが多く生息し、特殊な美しさのある外観だそうで、香ばしく美味しそうな匂いがするそうです。
ナトロンは塩分が強く高温になる危険な水で、動物を石化する成分があるとか。加えて多くの生き物にとっては有毒、且つ殺虫、殺菌効果があるのだそうです。
故に私の見解は、紅花は包帯の上に副えられた飾りであろうと思った次第です。
山形県河北町にある「紅花資料館」の紅花畑で咲いたばっかりの黄色の花とは違う雰囲気の紅花~初々しいですネ~まるで、ゴッホの絵画のようですネ・・・
謎その3. イランの一般家庭にお邪魔して伺った話
紅花は赤と黄色の2つの色素を持ちますが、直射日光の強い砂漠地帯では、晒されると忽ち、色を失います。紅花の赤い色素(カルタミン又はカーサミン)はその代表的な色素なのです。こちらの特徴は栄養価が高く、水には溶けない性質があります。しかし、黄色はすぐに水に溶けますから…
という会話から、そこのご夫人、曰く…
「私たちはパンを焼く前にこの黄色を混ぜて長持ちさせるんですよ。食べ物の色付けには色々と使いますね。」「本当はサフランの色が欲しいのだけど、高くってね〜
イラン北東部の州では広い紅花の栽培地があるようで、バザールに行けば、いつでも簡単に買えますよ。とのことでした。紅花の赤い色は使いませんね」…
と、本場の元ペルシャ人の言葉でした。
その為に水溶性の実利的に役立っ黄色の成分(サブロールイエロー)は、現代でも一般家庭の食パンなどにその色素を混ぜれば4∼5ヶ月は保存が効くと言う話も。特にサフロールには殺菌効果があり、保存にはうってつけの、成分だそうです。
と、言うことは、あのミイラたちが首や胴体に巻きつけられていた紅花と覚しき飾り紐はサフロールの防虫効果を狙ったもので、同じ紅花でも栄養価の高い赤いカーサミン色素は、虫が好む上、色褪せが激しくエジプトでは経験上、赤い染料の包帯ではなかった…と申すのが、私の感想です。
アスターナ古墳群の全貌 殆どが未着手の状態にある
アスターナ地下古墳群の入口に向かう坂道坑道
左図は高松塚古墳壁画に描かれた飛鳥美人像。中図は正倉院御物の鳥毛立女屏風第4 部分、右図は新疆自治区博物館所蔵の樹下美人像群。何れも唐時代のファッションで、飛鳥、天平時代には日本に伝わっていたを物語る。
特に驚いたのは左図、女性群スカートの柄が、当時のウルムチや高麗、奈良でもこのストライプ柄で共通していたことです。
奈良県法隆寺の西約三五〇メートルに所在する藤ノ木古墳。石棺内から大量の紅花の花粉が検出されている。
私達の調査隊が辿ったコースは起点を西アジアの
イラン(テヘラン、ヤズド、イスファハン、シラーズ)➡パキスタン北西部(インダス河に沿うフンザまでの各州)➡インド(ラージャスタン州各地)➡ウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)➡最終回は中国の最西域ウイグル自治区(ウルムチ、トルファン、ジムサル)を拠点に合計5カ国を5年間掛けて巡り、大きな謎が解けたのです。
勿論、20年前の先遣隊の報告は正しく、シルクロードから紅花は消えた・・・とするのは事実でした。
つまり、野生紅花は大量に群生していると想うのは斯く在りたし…の願望であって、経済的な需要が釣り合ってこそ、人の手で栽培するものであることが解りました。
考 察
何故、シルクロードから紅花が消えたのか?
1) 紅花染は退色しやすくシルクロード諸国には適さない。
2) 彼らは各地で行ったアンケート調査から日本と真反対の鮮烈な高彩度色を好む。
3) シルクロード諸国全体に共通して最高位の嗜好色は 鮮烈な赤又はローズピンク、そして意味は異なるが、最敬意色がサフランの黄金色だった。(イスラム圏の特徴)
4) 地理的に共通するのはイランではザクロス山脈、中央アジアでは天山山脈からの地下堰カナルを通じての水脈から、オアシス都市を形成しており、生活圏が限定され、野生紅花は生育不能である。
5) 消えたのではなく、古代のインドやペルシャの奥地には、ごく少数の民族による伝統的な手法で紅花染が行われている➡テヘランやウルムチ、トルファンの博物館情報より
6) 彼らには古より耐光性に強い赤の染料があった。それは行程も簡単なマゼンタや、コチニールであり、媒染で赤色にもローズピンクにもなった。
まとめ
総合的に分かったのは、このような、砂漠性乾燥地帯では、水分補給程大切なものはなく、大量に水を使う紅花染は適さないが、化粧料の行程は、途中まで染めの行程が類似していて、応用可能でした。
つまり、紅花染の原点となる化粧料即ち頬紅や口紅は
乾燥地帯でも僅かな地下水の溜り場があれば作れたのです。但し、酸とアルカリ成分があれば、赤い色素が発現します。
紅花化粧を発明した主人公は誰か?
との疑問から
実は…何を隠そう…
BC1〜2C 頃、漢の武帝時代にシルクロードの大半を牛耳り、古代中国への侵入略奪を重ねていた主、狩猟騎馬民族の匈奴でありました。
彼らの誇りは漢民族の百姓連中を軽蔑し、土地に縛られ、収穫時には自分たち騎馬民族に襲われると、折角の努力も水の泡。あれ程馬鹿馬鹿しい連中は居ないもんだ…と捨てゼリフ残しながら、毎年、秋になると全ての収穫をかっ攫って逃げる連中でした。
万里の長城はそれ故に大変な年月をかけて築城されたものでした。特に漢の武帝は彼らの征伐に虎視眈々とその機会を狙っていたのです。
結局、漢は将軍霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ(BC121)、匈奴の休屠王を撃退。
つづいて匈奴が割拠するきれん山脈を攻撃。
これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、更に渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまい、最強の伊稚斜單于(BC.126 - 114)は衛青と霍去病の遠征により大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われ完全に逆転し、今日に至っています。
匈奴の関心事は女性を美しく輝かせる化粧料にあった。
きれん山脈 前一世紀頃匈奴が紅花を栽培した地
その彼らが隠れて紅花栽培を手がけていたのですから驚きです!
其の場所とは、河西回廊の祁連山脈の麓に広がる広大な土地、今では山丹馬場として、軍用馬場になっているそうです。
そこには強力なライバルが存在したのです。その名は”サフラン” 。イスラム圏では黄色を指す言葉です。別名は”クロッカス”。つまり、紅花を英名、サフラワーと呼ぶのは紅花が黄色の花として認識され、サフランの代用品として、日常的にはパンに紅花の黄色を混ぜて焼くと、サフロールという成分の抗菌性で長持ちするのです…日本のように複雑な工程を繰返して、赤い色素を取る発想が殆どないのです。
シルクロードでは”サフラン 1g =金 1g”の謳い文句
さて、サフランと紅花は左右どちらでしょうか?正解は左がサフランで、右は紅花です。
しかし、サフランは彼らにとって大変高貴な香りと共に、その黄金色にオーラを感じるのだとか…
故に、”サフラン 1g =金 1g”の謳い文句も日本では“紅一匁金一匁“とする謳い文句と正反対の位置づけです。
乾燥シルクロード Vs. 湿潤日本の色彩感覚は大違い!!
火焔山の一部。高さ500メートル、長さ98キロメートルの丘陵である
理由はシルクロード諸国の殆どが砂漠性の乾燥地帯なので、年中あの強烈な日射しに晒されたら、ひと堪りもありません。彼らが好むのは最高彩度色。配色においても然りです。日本では気恥ずかしい色使いとも言うべきか、まるで毎日が舞台衣装で働いているかの如しです。
反対に我国では 1、2 位を争う紅花染めと紫根染は最も退色し易い存在ですが、それ故に日本では儚さを伴う情緒が愛でられる面もあるのです。
源氏物語 徳川美術館 所蔵
紫式部像 石山寺にて
源氏物語の創作を、女院から下命された紫式部が、成就を祈願するため石山寺に七日間参籠し、湖面に映える十五夜の月を眺め、『源氏物語』の構想を練ったと伝わる石山寺。
滋賀 石山寺 月見亭
近江八景のひとつ「石山の秋月」には月見亭が描かれ、月の名所としても知られている。
紫式部歌碑 白髭神社にて
滋賀 白髭神社 琵琶湖中鳥居
近江最古の大社で、社記によると垂仁(すいにん)天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建(御再建とも)、天武(てんむ)天皇(第40代)の白鳳(はくほう)3年(675)勅旨(ちょくし)を以て「比良明神(ひらみょうじん)」の号を賜るとある。
三重 明和町 斎王宮※にて「斎王※まつり」
※竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。
※斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。
それは日本独特の感性を育んだ温帯特有の気候風土が関係するのか、この褪色現象に心を寄せたのが時の主人公、平安貴族の姫君たちだったのです。
そのことに注目してみましょう。多勢の仕女を抱え、暇を持て余す女性貴族たちの嗜みとは主に、手習い、琴、和歌だったそうで、関心事は自ずと四季折々の歳時記に向けられます。
京都 竹林
彼女たちが住まう屋敷が点在するのは京の都。その界隈は温暖湿潤で、豊かな自然に囲まれた環境です。
多彩な植生と、刻々変化する四季の彩りは貴族たちの感性を育みました。〜 移ろい、儚さ、翳り、おぼろ、霞み、秘めやか、憐れ…等々〜繊細で抑制の効いた美意識です。これに対して真逆の砂漠環境では何を欲するのか…?推して知るべしですね。
【第ニ章】
最上川と北前船と紅花は三位一体 だった
山形県と言えば新潟と秋田に挟まれた地味な土地柄ですが、江戸中期〜明治初期にかけては天下に轟いた謳い文句が、"紅一匁金一匁"でした。それは日本一の紅花産地山形のウルトラ景気を謳歌した表現だったのです。
熱砂のシルクロード生まれの紅花が何故雪国の山形で花形に…?
紅花は種子さえ保存できればどれ程寒かろうが、春になって蒔けば、立派に育つのです。但し発芽期は大量の水分を必要とするので、シルクロード地域でも…保水力のある山麓付近で無ければ育ちません。また、開花期には沢山の日光を浴びる必要があるのです。そして、花を摘むには未だ黄色い花弁の時分、裾に僅かな紅色が挿した時なのです。その命は10日間とされます。
そういう意味では山形の紅花が本場とそつくりの条件が再現できるのです。
シルクロードの真ん中で、野生の群生が見られないのは当たり前ですね。
しかし、それだけでは、プリマドンナにはなれません。プラスα ?が必要。
それには先ず、
・広大な生産の需要と規模 ・最上川舟運・北前船の連携 ・商売の天才近江商人の介在等々…による好条件が揃うこと。
最上川河口の夕日
山形県を貫流する最上川(流路延長229km 流域面積は7,040㎢)の河口部。
夏は夕日、秋はいも煮会、冬は白鳥や鴨などの渡来地。四季折々の風景が楽める。
次に最上川のご紹介です。
山形県南端の米沢市に位置する西吾妻山源流から日本海に注ぐ河口酒田迄は他県を跨がず県下のみで完結する珍しい最上川。その距離は 全国一の229km です。
その分、大きく蛇行し、川幅や川床の形状や性質、水深の差異等もあり、特にネックは三大難所(碁点・三ケ瀬、隼)の存在でしたが、57 万石城主最上義光(戦国時代〜徳川時代前期)によって、全線が繋がったのは江戸初期でした。
文化も運んできた北前船
最上紅花は乾燥した紅餅の形で最上川を下り、酒田から北前船に転載して敦賀港へ。再び、琵琶湖経由で染め物のメッカ京都へと運ばれました。その需要は染もののメッカでもあり、身分の高い人々の住む都。役者や舞妓の京紅は昔から必需品てした。
江戸の活性化は西回りの航路開通から〜酒田港は日本の真ん中と呼ばれました
最古の江戸城図「江戸始図」
江戸の町
1600年代、徳川幕府が江戸城に移ると、百万都市とも謂われる爆発的な人口の増加で、極端に物資の不足を招きました。特に大量の建材や米等の食糧の不足は鉄道のない時代、舟運に頼らざるを得ず、いきおい幕府は御用商人✤河村瑞賢に命じて、北前船の西廻り航路による交易路を開通させました。その寄港ルートとは次の如くでした。
瑞賢が提案した西廻り航路の寄港地
起点 : 酒田 ⇒佐渡小木⇒能登福浦⇒但馬柴山⇒石見温泉津⇒長門下関⇒摂津大坂⇒紀伊大島⇒伊勢方座⇒志摩畦乗⇒伊豆下田⇒江戸: 終着点
以上は幕府直営御用船であり、何処の港も厳しい見張りと検閲場を設け、民間商人の入る隙間もなく、効率的に事が運びました。 以降、酒田ー江戸との交易は益々繁盛。その盛況ぶりは井原西鶴「日本永代蔵」に「北の国一番の米商人」だった廻船問屋の旧鐙屋や、日本一の大地主になった本間家の様子に触れています。(何れも現存。公開中!)
さて、紅花交易には当然、かの鐙屋が大きく関わります。(NHKドラマ、おしんの奉公先で有名な回船問屋でした。例えば私が回った東南アジアの少数山岳民族地帯やシルクロード諸国でも、天皇陛下や首相の名は知らずとも、おしんだけは子供まで知っていましたっけ。)
紅花染めと北前船は江戸の活性化に繋がる原点だった
江戸 日本橋の賑わい
北前船は、本来日本海側のみを走るものでした。
江戸中期と言えば鎖国時代、しかし、徳川幕府ご安泰は大戦も無くなり、武士は兵役お役御免で、国は疲弊していきました。
お百姓は我国の歴史的な身分制度「士農工商」の抑圧と、相次ぐ天災飢饉に苦しんだ東北の農家、次男坊以下は嫁も家も持てず、 裸一貫で江戸へ江戸へと向かい、ごみ拾いから始めます。だから、江戸は塵一つない清潔そのものの町でした。
天秤棒と笊さえあれば自分で採った浅利や釣った魚から街中で声を張上げて耳目を集め、その日暮らしができたのです。
体力が勝負の血気盛んな若者衆は他人の 2 倍働けば 2 倍の見返りありで、こうして商人の台頭は実質的な身分の逆転現象を招きます。
中でも「奢侈禁止令」における衣服色への制約は町人には絹以下、下女以下は麻布、木綿の着用。殊に高貴な色の紫、黄櫨。紅色や梅色などはご法度。果ては柄付けに迄及びました。
西回り航路による江戸の活性化と「四十八茶百鼠」
江戸火消し 富岡八幡宮(深川八幡宮)
しかし町民もさるもの。禁止令に洩れた身近な藍やどんぐり、炭などの媒染劑に目をつけ、それらを駆使して、「茶・灰」系の色名を隠れ蓑に、推計100万の町方衆がバッたと取り組みましたから堪りません。
実に多彩なニュアンスに満ちて洒落れた色名が編みだされたのです。千歳茶(せんざいちゃ)、利休茶、縹色(はなだいろ)…深川鼠…etc.
それらが所謂「四十八茶百鼠」と呼ばれ、現代に至っては国際的に再評価を受ける「JAPAN COOL」の源です。それは…江戸庶民の一歩引いた洗練の極みが
「粋」の精神。一方で、ヤセ我慢の美学とも…典型例が「武士は食わねど高楊枝」とか「宵越しの金は持たねえ」などですが・・・それが江戸っ子の心意気とされたのです。
(ヒネてますね〜 ) …
続く・・・
長々とお付き合い頂き、真に有難う御座いました。
【寄稿文】
日原もとこ(色紐子)
東北芸術工科大学 名誉教授 / 風土・色彩文化研究所 主宰 /まんだら塾塾長
日本デザイン学会名誉会員 / 日本インテリア学会名誉会員 /
本号関連のリンク記事を、下記よりご覧ください。
ZIPANG-3 TOKIO 2020「舞楽の神髄を伝える谷地八幡宮 ~林家舞楽~(第一話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5888137
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~雛と紅花の里 河北町~ 「谷地ひなまつりに秘められたお婆ちゃんたちの思いとは・・・みちのくひなまつり発祥の地より(第二話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5901235
ZIPANG-3 TOKIO 2020 まゆはきを悌にしてべにのはな ~芭蕉~紅花の本場、谷地の「べに花まつりは、浴衣美人が映える半夏生の頃・・・(第三話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5935889/
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 最上川とべに花物語 ~「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花【松尾芭蕉】・・・ (第四話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5960062
協力(順不同・敬称略)
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