Okinawa 沖縄 #2 Day 48 (27/10/20) 旧東風平 (11) Tomori Hamlet 冨盛集落 [1]
冨盛集落 (ともり、トゥムイ)
- 八重瀬グスク (富盛城 トゥムイグスク)
- 本殿
- 冨盛城之殿 (グシクヌトゥン、城御火之神)
- 冨盛川 (トゥムイガ-、グスクガ-)
- 蔵当 (クラントー)
- 火之神 (ヒヌカン) と井戸
- アザナ (物見台)
- 八重瀬公園
- 第24師団第一野戦病院壕跡
- 八重瀬の塔 (11月7日 訪問)
- 身替忠女ゆかりの地
- 午之方クサイ御火之神 (ウマヌファクサイヒヌカン)
- 午之方クサイ威部神 (ウマヌファクサイイビカン)
- 遊歩道
- 池当腹之按司志墓
- 門中拝所拝所 (墓跡?)
- カジュマルの根元の拝所
- 宇宙三天 (水之神、父神、母神)
- 八重瀬岳
- 八重瀬之嶽 (ヤエセヌタキ)
- 雨庫理 (アマグーイ)
- サシカサ庫理 (グーイ )
- ウマノチマ庫理 (グーイ)
- 石灯炉 (イシドゥール)
- 山内之殿 (ヤマチヌトゥン、クックルーヌトゥン) / 山内之殿井 (ヤマチヌトゥンガ-)
- 竹下之殿 (嶽下之殿)
冨盛集落 (ともり、トゥムイ)
琉球王朝時代には「友利村」と書かれトゥムイと呼ばれていた。1713年編集の琉球国由来記で、現在の名称の「富盛村」が現れる。三山時代は具志頭間切に属していた。
冨盛集落の世立てについては様々な伝承がある。これを見るとそれぞれの系譜で世立てとされている祖は時代が異なっている。異なった時代にここに移ってきた人物から新たな門中が始まっているのだろう。村の祖は一つではないことがわかる。南山王 他魯毎の弟、第一尚氏、第二尚氏からなど興味深い。
人口に関しての記録では1880年 (明治13年) では 953人 (209戸)、1903年 (明治36年) では 1,412人 (308戸) で、約20年で50%も人口が増えていた。その後の人口推移は芳しくなく、沖縄戦の3年後の1948年では1,240人、沖縄本土復帰の1972年では1,229人と減少している。この時点から現在では40%の人口増加があり、ここ10年は人口が少しずつではあるが増加傾向にある。
増加傾向にあるとは言え、戦後3年目では字東風平に次いで2番目に人口の多い字であったが現在では5番目に後退している。
人口推移の割合については、増えてはいるが増加率は低いグループに属している。
東風平村史に掲載されている冨盛の拝所
- 御嶽: 八重瀬之嶽 (ヤエセヌタキ)、中間之嶽 (ナカマヌタキ)、フラウ之嶽、比嘉森
- 殿: 富盛川 (グシクガ-)、富盛城門之殿(グシクヌトゥン)、野原之殿 (ノバルヌトゥン)、竹下之殿 (タキシタヌトゥン)、山内之殿 (クツクルーヌトゥン)、波平之殿 (ハンジャヌトゥン)、比嘉森之殿 (ヒジャムイヌトゥン)、仲真森之殿 (ナカマムイ)、ヒラウ之殿 (ビロウヌトゥン、金満之御嶽)
- 泉井: テラガー、ギルマガー、シュヌメガ-、カーマシガー、蔵見井 (産井 ウブガー)、カシ-ガ-、マカンジョーガ-
- その他: 威部之前 (イビヌメー)、ミ火ヌ神、神アサギ (ノロ殿内)
東風平町教育委員会編集の「殿・御嶽・井戸調査報告書」では上記の他に以下の拝所を挙げている。
- 泉井: ミーフダークサイガー (御穂田グサイ井)、前元野原之前井 (根井 ニイガ-)、身井 (ミガ-)、山内之殿井、山川、野原之殿グサイ井、如呂殿内井
- その他: 火ヌ神、午ヌ方クサイ威部神、石灯炉、上之拝所、神アサギ (ノロ殿内)、午ヌ方クサイ御火ヌ神、上如呂殿内、ビロー門
今日で旧東風平村の集落巡りは最終日で、冨盛集落を訪れる。この字冨盛には八重瀬グスクがあり、昨年訪れた。今年も10月24日に高良集落を訪れ、更に今日もここに来た。
八重瀬グスク (富盛城 トゥムイグスク)
八重瀬グスク (富盛城 トゥムイグスク) は八重瀬岳北側中腹の標高110mに位置している。
このグスクを築いたのは南山王 承察度の叔父である汪英紫と伝わっている。汪英紫は下世之主と名乗り、八重瀬グスクを中心に島尻の各グスクを次々と攻略し、島添大里グスクを攻め取った後は、八重瀬グスクから島添大里グスクに居城を移した。一族などを八重瀬グスクの城主に据え、汪英紫の長男の達勃期や最後の南山王の他魯毎の弟がここの城主であったとも伝わっている。第一尚氏の尚巴志が琉球統一の部隊の一つでもあった。尚巴志が南山王の他魯毎を滅ぼした後は尚巴志の四男が八重瀬按司となった。少なくとも第一尚氏王統の時代までは八重瀬グスクは使用されていたと思われるが、第二尚氏時代がどうだったのかは不明。
この八重瀬グスクに行くにはいくつかのルートがあるが、冨盛集落から八重瀬グスクにはかなり急な坂を登らないといけない。城の防備にはうってつけの地形で容易に攻め込むことができない。しかもここから攻める際には冨盛集落と八重瀬グスクとの間にある支城の勢理グスクからの攻撃も覚悟しなければならない。自転車での上るにはかなり辛いものがある。もう一つのルートは高良集落から丘陵地を通って八重瀬グスクにいくもので、高良集落から標高140mほどの丘陵地へは比較的なだらかな道となっている。自転車ではこのルートで向かう。丘陵地の上は広い平野が広がっている。この標高140mの平野はほとんどがサトウキビ畑で、所々に養牛場や養鶏場がある。この平野から標高110mにある八重瀬グスクに降りていく。この平野の南東側は崖がそびえておりその崖の上が標高160mの八重瀬岳の頂上になる。この160mの頂上も広い平野が広がり、現在は陸上自衛隊八重瀬分屯地とゴルフ場になっている。八重瀬グスクを攻めるには標高140mの平野からと標高160mの八重瀬之嶽からになるだろう。勢理グスクがある八重瀬岳の麓に一部隊を置き八重瀬グスクの兵をひきつけ、残りの2部隊が標高140mの平野からと標高160mの八重瀬之嶽から攻めればこの八重瀬グスクは攻略できるように思える。尚巴志がこの八重瀬グスクをどう攻めたのかはわからないが、同じように考えたのではないだろうか?
グスクは本殿、蔵当 (クラントー)、物見台の三つの曲輪で構成されていたと推測されている。
本殿
ここに八重瀬按司の住居があった。そこそこの広さの敷地で、周りは石垣と自然石で囲われていた。石垣の一部が残っている。
冨盛城之殿 (グシクヌトゥン、城御火之神)
本殿内にある火之神を祀った拝所。資料では5月のウマチーに御願されているとあるが、なぜ6月のウマチーは対象になっていないのだろうか? 沖縄では一般的にウマチーの祭祀は4つある。麦の豊穣祈願・収穫祭では、旧暦二月のニングァッチ (二月) ウマチーは豊穣祈願、旧暦三月のサングァッチ (三月) ウマチーが麦の大祭 (収穫祭)。稲の豊穣祈願・収穫祭については旧暦五月のグングァッチ (五月) ウマチーが稲の穂祭 (豊穣祈願) で旧暦六月のルクグァッチ (六月) ウマチーが稲の大祭 (収穫祭) だ。ここは稲の穂祭 (豊穣祈願) に御願されていることになる。
冨盛川 (トゥムイガ-、グスクガ-)
本殿には井戸がある。現在は水はたまってはいないのだが、井戸のある岩場からは水がしたたり落ちて、かなりの湿気を感じる。ここも集落の拝所となっており、ここは旧暦五月のグングァッチ (五月) ウマチーが稲の穂祭 (豊穣祈願) だけでなく、旧暦六月のルクグァッチ (六月) ウマチーが稲の大祭 (収穫祭) にも御願されている。
井戸の拝所は祠で囲まれているのだが、それ以外にもいくつかの拝所がある。一つ石碑がある。「京阿波根生井戸」と書かれている。(下の方は埋もれて見えないのだが) 阿波根は沖縄の素手格闘術・空手の元祖で、尚真王 (1477年~1526年) に仕えていた。王家の宝刀「冶金丸」を研ぎ師に磨かせるため京に上り、役目を終え、帰国後、研ぎ師が偽物と取り換えていたことが判り、再度京都に赴き、三年を経て宝刀を見つけ出し琉球に持ち帰った。この功績で、京の文字が冠せられたそうだ。冨盛が阿波根の生まれ故郷ということで、ここに拝所ができたのだろう。
蔵当 (クラントー)
本殿の上には蔵当 (クラントー) と呼ばれた曲輪がある。自然岩でかこまれており、それほど広い場所ではない。本殿から石の階段が残っている。蔵当 (クラントー) とは倉庫係のことなので、この場所に倉庫が建っていたのだろう。ただ資料によってはここはまだ本殿の一部で蔵当 (クラントー) は冨盛川 (トゥムイガ-、グスクガ-) の上の方にあるとされている。
火之神 (ヒヌカン) と井戸
資料ではこの場所に火之神 (ヒヌカン) があるとされている。二つの拝所があったので、どちらがそれにあたるのかは分からなかった。写真下の拝所は井戸のように思える。もう一つ (写真上) は崖の下に香炉が置かれている。
アザナ (物見台)
石の階段をさらに上に行くと、琉球ではアザナと呼ばれたもの物見台がある。
狭いスペースだが、ここからは城の北側が一望できる。世名城や東風平の町がみえている。
八重瀬グスクの支城であった勢理グスクも間近にみえている。
八重瀬公園
八重瀬グスク跡を含みこの一帯はは八重瀬公園として整備されている。ここは桜の名所だそうで、一月末から緋寒桜が見れるそうだ。来年はぜひ桜を見に戻ってこよう。
先日10月24日にここを訪れた際は、土曜日だったせいか、地元の人や観光客がここに来ていた。今日は平日とあって、誰にも会わず公園は貸し切り状態。八重瀬岳の中腹に駐車場があり、そこから階段で公園に上っていく。
第24師団第一野戦病院壕跡
八重瀬公園の入口に沖縄戦の遺構の第24師団第一野戦病院壕跡がある。
1945年 (昭和20年) の沖縄戦では、日本軍は5月下旬に首里から撤退し、本島南端の摩文仁に司令部を移転した。6月上旬には防衛線を八重瀬岳から与座岳を主に具志頭から国吉まで築き、独立混成第44旅団が陣を構えていた。確かにこの丘陵は長く伸びて、アメリカ軍が南に侵攻するにはここを突破する必要がある。アメリカ軍はここをビッグアップル (Big Apple) と呼んでいた。アメリカ軍の第24陸軍は6月4日より、この地に陣を張った日本軍に猛攻撃を開始。日本軍は混成部隊で練度は低く、装備も不足していたため、14日にはアメリカ軍の第381歩兵連隊により八重瀬岳頂上が占領された。
当時アメリカ軍がこの場所での侵攻の様子を撮影した写真がいくつかある。
八重瀬岳に置かれた第24師団第一野戦病院には、沖縄県立第二高等女学校の従軍学徒看護隊 (白梅学徒隊) が配属され、1945年 (昭和20年) 3月23日にはアメリカ軍が沖縄本島への上陸を見据えた攻撃を開始したため、看護教育期間を切り上げて、即日に動員された。当初は兵舎で患者の看護を行っていたが、アメリカ軍の攻撃が激しくなり、八重瀬岳中腹を掘ってつくられた壕内に野戦病院を移転し、多い時には患者500人の収容可能人数を超える患者の面倒を見ていた。6月4日、戦況悪化により野戦病院の解散命令が告げられ、一部の学徒隊は糸満市国吉に移動。当地の壕にある山第一野戦病院に合流し、負傷兵の看護に従事した。除隊した9人を除く白梅学徒隊46人のうち、沖縄戦で17人が死亡した。糸満市国吉真栄里には白梅学徒隊の戦死者の冥福を祈った白梅の塔が建てられている。
八重瀬の塔 (11月7日 訪問)
ここには、11月7日に 具志頭に向かう際に訪れた。公園から丘陵を下った所に沖縄戦でこの富盛で玉砕戦死した兵士たちの慰霊碑が建っている。富盛の住民が戦後、この地に散在していた兵士の遺骨を拾い集めここに供養塔を建てた。拾い集めた兵士の遺骨は1500体にもなったそうだ。慰霊碑の脇には二体の地蔵尊も置かれている。沖縄で地蔵を見るのは非常にめずらしい。どのような経緯で地蔵尊を造ったのか聞いてみたい。
階段を3分の2ほど登ると八重瀬城跡があり、その上は子供のために遊戯具が置かれた広場がある。大きなガジュマルが真ん中にあり、本土では見たことがない木がある。大きなさやえんどうの様な実の木や幹が肥満体系となっている木など珍しい。
階段を上る切ると運動場がある。土曜日は少年たちが野球をしていたが、今日は平日で誰もいない。
身替忠女ゆかりの地
ここに組踊の記念碑が立っている。身替忠女ゆかりの地と刻まれてある。どんな組踊かと興味が沸き調べてみた。組踊の創始者・玉城朝薫 (たまぐすくちょうくん) と平敷屋朝敏 (へしきやちょうびん) と共に組踊御三家といわれる田里朝直 (たさとちょうちょく) の作で、八重瀬グスクを舞台にした組踊だ。八重瀬の若按司と予座慶留の子の娘乙鶴を主人公にした物語。この組踊は1756年に首里城で上演されたと記録では残っていたが、その内容は長い間不明だったのだが、1988年に偶然に台本が発見され、それから10年後の1997年に上演された。実に241年ぶりの上演だったそうだ。あらすじは
「昔、八重瀬城の主である八重瀬按司は、糸数按司の襲撃で滅ぼされた。その嫡子の若按司は逃げ延びて、同士の慶留の元に匿ってもらった。慶留には、玉の乙鶴と言う娘がいた。乙鶴は、落ち込む若按司を慰める為に月見の宴を開き、舞を踊った。若按司は、心が晴れ、糸数按司を討つことを決意する。一方、糸数按司は家臣の志堅原に若按司の捜索をさせていた。志堅原は、ついに慶留のところまで来て若按司の引渡しを要求する。慶留は、若按司に女装して逃げるように言うが、それを聞いた乙鶴は逆に若按司に変装して身替りになると父の慶留に申し出るのであった。慶留は、その乙鶴の首を泣く泣く落とし、志堅原に引き渡す。志堅原は、慶留の願いを聞き、首を持ち帰らなかった。かくして、若按司は乙鶴の犠牲により逃げられたが、慶留に死んだ乙鶴と結婚したいと申し出る。慶留はその言葉を聞き、乙鶴は果報者だと泣く。若按司は糸数按司を討つべく、糸数按司が旧の3月3日に浜降りをすると言う情報を得る。そこで旧臣を集め、浜降りに紛れ込む。そして若按司は女装をして踊りながら、浜遊びに興じる糸数按司に近づき、見事一刀両断に仕留める。」という内容で、恋物語、仇討ちといった本土の歌舞伎でも人気の題材だ。
ここ公園内には多くの拝所がある。東風平村史と殿・御嶽・井戸調査報告書に載っているのはそのうち僅かに二つだけだ。それ以外には、どこにも掲載されていない拝所が点在している。
午之方クサイ御火之神 (ウマヌファクサイヒヌカン)
公園から西側の森の中への入り口に祠がある。これは午之方クサイ御火之神で、ここは5月/6月の稲の豊穣祈願・収穫祭のウマチー、旧9月中の総御願いの際に御願されている。
森の中へ入っていく。
午之方クサイ威部神 (ウマヌファクサイイビカン)
森の中の道を奥まで行くと崖の下の午之方クサイ威部神にいくつかの拝所がある。ここも同じく5月・6月の稲の豊穣祈願・収穫祭のウマチーと旧9月中の総御願いの際に御願されている。
上の二つの拝所は資料に載っているものだが、それ以外の拝所もこの公園一帯にある。丘陵の下の方から紹介する。
遊歩道
グスクの下にある駐車場から更に下側に遊歩道が整備されている。
遊歩道は舗装されて歩きやすいが、その周りはジャングルのようなところが多くあり、そのような場所には拝所や墓が残っている。
池当腹之按司志墓
崖の下に墓がある。池当腹之按司志墓とあるが、屋号が池当という門中は東風平村史では見当たらなかった。
門中拝所 (墓跡)
グスクへの駐車場がある場所に各門中の拝所が集まっている。これほど多くの門中拝所が同じ場所にあるので墓ではないだろう。この八重瀬岳の頂上に八重瀬之嶽があり、そこはノロ以外は入れない聖域だった。その他の部落の人たちはお通しのような別の場所から御願していたので、その様な遥拝所なのだろうか、それとも通常の祖先を祀っているのだろうか?冨盛は今ではそれほど大きな字ではないが、かつては東風平に次いで2番目に大きな字であった。時代によって様々な門中の腹 (分家) がこの冨盛に移ってきているので、かなりの数の門中が存在している。東風平村史では冨盛集落の36もの門中がリストアップされている。(最大の字である東風平は32門中) ここには冨盛集落の門中屋号の安谷屋 (高良集落?)、金城、徳東利、野原、当之蔵だけでなく、世名城集落の門中屋号の志本、池之当の拝所がある。世名城集落の門中の拝所があるのは、この八重瀬岳の影響力が大きかったのだろう。森の奥には墓らしきものもある。ということは、やはり香炉を墓の前方に置き、祖先を祀っているのか?
拝所 (墓跡?)
八重瀬公園の階段の途中に拝所があるが、詳細は分からなかった。コンクリートの小屋で入り口がセメントで固められているので、墓と考えられる。
カジュマルの根元の拝所
公園の上にあるグラウンドの片隅に大きな岩があり、そこには形の良いガジュマルが生息している。岩の割れ目に拝所が設けられている。詳細は不明。
宇宙三天 (水之神、父神、母神)
グラウンド添いの道から森への階段があった。写真上の森の沖の崖上に八重瀬之嶽があるはずなので、ひょっとしたらこの道がそこに通じているかもしれない。八重瀬之嶽ではなくても、この奥に何かあるだろうと思い入ってみる。
まずは崖の岩の前に香炉が一つ置かれている。(写真左上、左下) 更に奥へ進むと、宇宙三天 水之神と水色の字が石碑に刻まれている。いつも見るコンクリ-トではなく石を削った香炉が置かれている。
更に奥に進む。だんだん不気味な雰囲気になってきた。突き当りには神秘的な崖があり、亀裂が縦に走っている。その下に鳥居がありそこには神宮と書かれ、宇宙三天の父神と母神が祀られていた。石碑の上部には星が描かれ中には「誠」と書かれている。今まで見た拝所とは趣が異なり、比較的立派な石碑や香炉、そして鳥居まである。この水神、父神、母神は本土でもよくある神なのだが、沖縄でこれを見るのは初めてだ。インターネットで検索してもこの場所はヒットしない。つくりから見て、冨盛集落で管理整備しているとは思えない。どこかの宗教団体が整備しているように思える。新興宗教のものではないかとも思う。この場所は10月24日に高良集落訪問の後に立ち寄った。今日、別の場所で会ったユタにこの場所のことを聞いてみたが初めて聞いたと言っていた。このユタは50年もここで神との交信をしていると言っていたので、集落の拝所であれば知っているはず。やはり、新興宗教の場所ではないだろうか?
この鳥居のところから、更に崖の上の方に道があるので、登っていく。だんだんと道は急になってきた。よじ登ると、ようやく崖の上が見えてきた。多分この崖の上に八重瀬之嶽があるはずだ。何とか上まで行きたいのだが、あと数メートル登ればという所で道はなくなり、あとはほぼ垂直になった崖だ(写真右下) 。足場が確保できそうにない。悩んだ末に断念し、来た道を戻ることにした。下りは上りより大変で、途中足を滑らせ転倒、岩で太ももに切り傷。この日はここに来る前にも林で棘で切り傷を作っている。血も出ているので、これ以上無理はできない。グラウンドまで戻ったときに、持っていたモバイルバッテリーが亡くなっているのに気が付いた。転倒したときに亡くしたのだろう。もう一度戻り探すが見つからず。この日の夜は足の擦り傷のところがみみずばれになって、布団に擦れて痛みで寝れないほどだった。(翌日には痛みは取れていた)
この日 (10月24日) はここを最後に帰路についた。今日もう一度、この続きで、ここに戻ってきた。
八重瀬岳
10月24日は八重瀬岳中腹の八重瀬公園・八重瀬グスクは見たのだが、八重瀬之嶽には到達できなかった。今日は別のルートで八重瀬之嶽に行く。八重瀬岳は琉球方言で「エージダキ」という。これは、八重瀬グスクを築城した汪英紫 (えーじ) が八重瀬の当て字と考えられている。汪英紫が八重瀬の呼び名のもとになったのか?八重瀬に居城を構えていたのでから汪英紫と呼ばれていたのか?どちらだろう? また、中山伝信録には八重瀬岳は「八頭嶽」と記載されている。。八重瀬之御嶽にかかわる拝所は、「上の五御嶽」と「下の三御嶽」の合計八つあったからだろうか?八重瀬岳頂上にはグスクから崖を直線には登れないことが先日分かった。別のルートは八重瀬岳の尾根の端まで行きそこから登る方法だ。登山ではなく、自動車道路があるので、難なくいけた。
八重瀬公園のグラウンドから八重瀬岳の崖の下の農道をいく。
崖の下は広大なサトウキビ畑が広がっている。畑の先には航空自衛隊与座分屯地のレーダーが見える。
崖墓群
崖には多くの墓が掘られている。集落の門中の墓だ。そのいくつかを見て回った。ほとんどが同じような造りになっている。農道から入る道があり、そこには墓参りに来た人たちが集まる広場があり、香炉が祀っている主要な先祖の数だけ置かれている。奥には崖に上る急な階段があり、崖を掘った墓まで登れるようになっている。ここの墓は崖の上にも香炉がいくつか置かれている。ここは世名城集落の富銘門中の墓。この崖には冨盛集落の門中墓だけではなく、世名城集落の3分の2ぐらいの門中はこの崖に墓を造っている。
八重瀬按司墓
ここには八重瀬按司の墓がある。どの時代の八重瀬按司なのかは分からない。
この墓の場合は崖の墓だけでなく、下の広場にも新しい墓を造っている。崖墓が手狭になったのか、崖の上までの行き来が大変だからか?新垣原門中とある。冨盛集落の新垣門中の腹 (分家) だろうか?
世名城集落の松本門中の墓。同じ様な構造だ。
ここは幾つかの門中をまとめている。仲間、敷田、志本、ヌル按司、知志本御按司墓などの香炉が置かれている。ここも世名城集落の門中の墓。
ここも世名城集落の池当門中の墓。
ここも世名城集落の古波津門中の墓。
他にも崖墓ではない墓もある。家単独の墓も多くある。集合墓地が2か所あった。
やっと丘陵の崖が途切れ、今度は丘陵の上を走る道路を逆の方向で八重瀬グスク方面にに戻る。この丘陵の頂上の台地は陸上自衛隊八重瀬分屯地とゴルフコースになっている。分屯地へ向かう道路は多くのジョギングをしている若者がいる。自衛隊員だ。トレーニング中なのだろう。
八重瀬之嶽 (ヤエセヌタキ)
自衛隊分屯地正門に到着。八重瀬之嶽 (ヤエセヌタキ) は標高163mの八重瀬岳の頂上、現在の陸上自衛隊与座分屯地の敷地内にあった。ここには「上の五御嶽」と呼ばれる5つの御嶽から構成されていた。五御嶽とは、龍グチング、大庫理 (ウフグーイ)、雨庫理 (アマグーイ)、サシカサ庫理 (グーイ )、ウマノチマ庫理 (グーイ)。四御前と呼ばれる威部 (威部)を祀っている。二御前の寄道威部 (ヨリミチヌイベ)、一御前の石良具威部 (イシグラヌイベ)、一御前の雪明威部 (ウキアガリヌイベ) だ。沖縄戦の後、米軍がこの場所を軍用地として接収し、その後、自衛隊分屯地になった。八重瀬之嶽の上の五御嶽は接収された際に移されたそうだが、現在ではすべての拝所が確認はできてはいない。五御嶽一帯は聖域で、戦前はノロ以外はこの御嶽に入ることが許されておらず、人々は、少し離れたところにある石灯炉 (イシドゥール) のお通しから御願していた。ノロ以外この御嶽をじかに見たことがなかったので、現在は不明点が多くわからなくなっている。資料東風平村史では上の五御嶽の三つは所在地の説明があり、冨盛字史では地図がある。殿・御嶽・井戸調査報告書では上の五御嶽の三つは写真が載っていた。
この三つの資料は内容が一致していないところもあるのだが、何かが見つかるかと思い、自衛隊の検問所に詰めている隊員に「敷地フェンスの外を歩いて良いか」の許可を求めると、上司に相談した結果、許可が下りた。早速フェンス添いを御嶽があるだろう場所を目指して移動する。途中で、自衛隊員がフェンスの内側で同行してくれた。崖淵を歩くので気を使ってくれたのか、不審者ではないかという職務上からなのかは分からないが、小さな祠があると教えてくれてそこまで付き添ってくれた。長崎県出身の隊員だ。沖縄に配属されている自衛隊員は九州出身が多い。崖の上を歩くのだが、所々、足場が50㎝ほどしかなく、下は崖という場所がある。高所恐怖症なので、フェンスを握ってそろそろと前に進む。とても写真を撮る余裕はないので、その場所は紹介できない。先日崖を登ろうとした話をすると、自衛隊の基地を目指しての崖登りは危険ということもあるが、自衛隊としては不審者と疑われセキュリティー上問題なるので、やめたほうが良いよと笑っていた。
雨庫理 (アマグーイ)
写真に出ていた拝所を見つけた。ブロックの香炉が置かれ、その奥は井戸なのか穴が開いている。地図から見ると雨庫理 (アマグーイ) ではないかと思う。庫理 (グーイ) は拝所がある場所で時々見かけるが、どの様な意味なのかが分からない。
サシカサ庫理 (グーイ )
写真に出ていた拝所とされている場所。ただの石にしか見えない。冨盛字史の地図ではサシカサ庫理 (グーイ ) と思われる。東風平村史では所在不明となっていたが、殿・御嶽・井戸調査報告書の写真はこれに間違いない。
ウマノチマ庫理 (グーイ)
やっと広場に出た。祠がある。これは間違いなく御嶽だろう。ウマノチマ庫理 (グーイ) だろう。ここで一息。
ここからの下界の様子。自衛隊員の時間をとるわけにはいかないので、すぐに入り口へ戻る。自衛隊員にお礼を言って、次の場所に向かう。
石灯炉 (イシドゥール)
先にも書いたが八重瀬之嶽 (ヤエセヌタキ) は昔はノロだけしか入れず、一般の人たちは遙拝所のお通し (ウトゥーシ) から御願していた。そのお通しがこの石灯炉 (イシドゥール) で、自衛隊の敷地のフェンスのすぐ外にある。戦前は自衛隊の敷地内にあったのだが、元の場所は米軍に接収されて、この場所に移設している。初起しや旧暦9月中の総御願いの際に、八重瀬之嶽 (ヤエセヌタキ) を御願している。昔は唐に旅をする人が、旅の安全を祈願して拝んでいたそうだ。今日は女性4名が集まって、祭祀の準備をしている。大量の平御香 (ヒラウコウ) を割っている。平御香 (ヒラウコウ) は沖縄独特の線香ででんぷんと木炭の粉末を混ぜ合わせて作られている。戦前は馬糞を使ったそうだ。平御香 (ヒラウコウ) は本土の線香が6本ひっついた平べったい線香で、祭祀によって使われる本数が12本、15本、17本とか決まっている。その燃え方で御願が伝わったかどうかを気にするようだ。女性たちは6本の平御香を3本に割っている。近々、祭祀があるのだろう。写真の許可のため話しかけると、おばあがいろいろと沖縄の神についてや、お通しと神の世界との交信之ルートなど細かく教えてくれた。半分も分からず、メモを取った。後で調べてもやはりわからなかった。このおばあはユタで30年修行をしてやっと神様からユタとして認められたと言っていた。何か霊感があるのだろう。沖縄のノロとユタが混同されるが、ノロは本土の神主のようなもので、祭祀を取り仕切る人で、必ずしも霊感が備わっていなくともいい。個人的に占ったり、神との交信の橋渡しなどはしない。ユタは霊媒師に近い。一般の人と先祖や神との交信の橋渡しを行う。沖縄にはこのユタが多くいて、詐欺師まがいのユタも少なくない。これは昔から現在でも社会問題になっている。色々話をした後、別れ際にはユタのおばあが「また会いましょうね」とほほ笑んでくれた。このおばあには好感が持て、少しユタに対するイメージが良くなったかもしれない。
ここからは冨盛集落が下に見える。反対側は東シナ海が見える。東風平がこの冨盛でおしまいになり、次は 具志頭をめぐる予定だが、その具志頭の方向だ。
八重瀬岳の丘陵を冨盛集落へ下る途中に森の中への山道がある。草も刈られているので、拝所があるのだろう。森の中へ入ってみる。門中墓だった。当之蔵門中、安谷屋門中は冨盛集落の門中の屋号だ。
更に奥の入ると別の門中墓。山城門中、森田門中の墓と書かれている。いずれも冨盛集落の門中だ。八重瀬グスクの上にある崖には世名城集落の門中の墓が集中していたが、こちら側は冨盛集落の門中の墓が集中している。
少し下ると草がきれいに刈られた広場があり、そこには立派で神秘的なガジュマルの木がそびえている。何に使われている広場だろう。草も刈られているので、何かに使われているのだろう。
山内之殿 (ヤマチヌトゥン、クックルーヌトゥン) / 山内之殿井 (ヤマチヌトゥンガ-)
八重瀬岳の丘陵を冨盛集落へ下る途中の森の中に拝所がある。5月ウマチー前の拝みと5月のウマチーの際に御願されている。
奥には井戸の拝所がある。
竹下之殿 (嶽下之殿)
更に反対側の奥には道が続き、別の殿が岩場のところにある。5月ウマチー前拝みと5月のウマチーの際に御願される竹下之殿 (嶽下之殿) だ。
これで八重瀬岳にある予定していた文化財はすべてめぐり終わったが、冨盛集落内にある文化財をめぐるには時間が足らない。今日が旧東風平村の最終日と思っていたのだが、もう一日必要だ。今日は自衛隊と石灯炉で地元の人と話をしたので、少し時間がかかった。
参考文献
- 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
- 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)
- 富盛字誌 (2004 富盛字誌編集委員会)