『平安人物史』上の蕪村と若冲
http://yahantei.starfree.jp/2019/01/31/%e8%95%aa%e6%9d%91%e3%81%a8%e8%8b%a5%e5%86%b2%ef%bc%88%e4%ba%8c%e9%a1%8c%ef%bc%89/ 【『平安人物史』上の蕪村と若冲】より
蕪村が明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』に載ったのは、宝暦七年(一七五七)三年間に及ぶ丹後・宮津逗留に終止符を打って、それ以前に寓居していた京都に再帰して十年余りが過ぎた、五十三歳の時であった。
この宝暦七年(一七五七)から明和五年(一七六八)にかけての蕪村の歩みを振り返ると、讃岐逗留(明和三年=一七六六~明和五年=一七六八)を含む「三菓社時代(宝暦九年=一七五九~明和七年=一七七〇)」ということになろう。
「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(一七七六)頃までの長期にわたり断続的に用いられている。その前身は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られる、その種の「三果樹」などに由来があるのであろう。
「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろう。その第一回目の句会は、明和三年(一七六六)六月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の八人である。
この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦九年(一七五九)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦九年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」と、その署名は「東成趙居」である。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れない。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろう。
この「趙居」は、宝暦七年(一七五七)に丹後宮津を去って京都に再帰してからの蕪村の画号で、宝暦十年(一七六〇)の「謝長庚」が登場して、以後見られなくなる(但し、「趙」という一字の印章は晩年まで用いられている)。
大雑把な「三果社時代」の画業の中心をなすのは、宝暦十三年(一七六三)から明和三年(一七六〇)にかけての「屏風講(蕪村の屏風など大作を購入する同好会)時代」で、そのメンバーは、三果社のメンバーが基礎になっていたのであろう。
この屏風講時代に創作された絖本(こうほん・ぬめ張り)・絹本の屏風絵は次の通りである。
○山水図屏風(絖本、出光美術館蔵) 宝暦十三年四月碧雲洞での作。(落款)謝長庚。東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚・春星氏・謝長庚印・春星・東成。
○野馬図屏風(絖本、京都国立博物館蔵) 宝暦十三年八月三果軒および碧雲洞での作。(落款)東成謝春星・東成謝長庚。(印章)春星・謝長庚印。
○山水図屏風(絖本、文化庁蔵) 明和元年夏三果亭での作。(落款)謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・溌墨生痕・三果居士。
○山水図屏風(絖本、個人蔵) 明和九年・十月三果亭での作。(落款)東成謝長庚・謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・謝長庚・謝春星。
○柳塘晩霽図屏風(絖本、フリーア美術館蔵) 明和元年十一月三果亭での作。(落款)謝
長庚・東成謝春星。(印章)謝長庚・謝春星・謝長庚印・春星・溌墨生痕。「柳塘晩霽図 陳霞狂筆ニ擬ス」と記す。
○青楼清遊図屏風(絹本、個人蔵) 明和二年六月作。(落款)春星。
○蘭亭曲水図屏風(絖本、東京国立博物館蔵) 明和二年作。(落款)謝長庚・溌墨生痕・山水自清言。
○草廬三顧・蕭何追韓信図屏風(絖本、野村文華財団蔵) 製作年次不明。(落款)謝長庚。(印章)謝春星・謝長庚。
○龍山勝会・春夜桃李園図屏風(絖本、MOA美術館蔵) 製作年次不明。三果堂での作。(落款)謝長庚、東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚印・謝長庚・謝春星。
(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著・吉川弘文館)』)
そもそも、宝暦七年(一七五七)、蕪村が四十二歳の時に、丹後宮津から京に再帰する以前の前半生というのは、大阪・江戸・北関東・東北・京都・丹後各地を、一所不在の放浪の日々で、それは同時に、画(画人)・俳(俳人)の二道を極めんとしての修業・修練の日々でもあった。
そして、その前半生の放浪・修練の日々は、「釈蕪村」と僧籍にある「釈」氏を名乗り、浄土宗の遊行僧として雲水行脚の日々であったとしても差し支えなかろう。
その放浪の雲水行脚の日々に終止符を打って、還俗して俗姓の「与謝」氏を名乗り、結婚して京都での定住の生活に入ったのは、宝暦十年(一七六〇)の四十五歳の頃で、この時期を境にして、蕪村の絵の落款は「謝長庚」「謝春星」と「謝」氏となり、この「謝」は「与謝」という姓の中国風に一字のものにしたものと解して差し支えなかろう。
上記の、蕪村の一時代を画することになる屏風講時代の大作は、いずれも、「謝長庚・謝春星」の落款を用いての、京都に定住して創作されたものということになる。そして、蕪村が、名実共に京都の画人として世に認められた証しが、冒頭に掲げた明和七年(一七六八)刊行の『平安人物史』の「画家」の部に、「大西酔月・円山応挙・伊藤若冲・池大雅・蕪村」の順で、全部で十六人中、五番目に搭載されたことが、何よりの証左ということになろう。
ここで、蕪村と同年(正徳六・寛保元年=一七一六)に誕生した若冲との関連を、「蕪村と若冲関連年表」(『生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』所収)でビックアップすると次のとおりである。
宝暦七年(一七五七)四二歳 (若冲)高遊外、「売茶翁像」(作品一五二)に賛する。(蕪村)九月、鷺十の閑雲山真照寺にて「天橋立図」(作品二七)を描く。丹後与謝から京に戻る。帰洛後、氏を与謝と改める。
宝暦八年(一七五八)四三歳 (若冲)「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館)の制作をはじめる(前年からか)。春、「梅花小禽図」(動植綵絵)。
宝暦十年(一七六〇)四五歳 (若冲)梅荘顕常や池大雅らと京郊外の梅を見る(翌年か)。八月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」(作品一五一)。十一月、「四季花鳥押絵貼屏風」(作品六四)。十二月冬至、「動植綵絵」を見た高遊外から「丹青活手妙通神」の一行書を与えられる。
「髑髏図」(作品七四)に高遊外の賛。(蕪村)六月、「維摩・龍・虎図」(作品五〇)。十二月、「倣王叔明山水図屏風」(作品一四二)。冬、「双馬図」(作品一二六)。この頃、結婚するか。
宝暦十三年(一七六三)四八歳 (若冲)『売茶翁偈語』に高遊外の肖像を描く。(蕪村)この頃、屏風講をはじめ、屏風を多数制作。
明和二年(一七六五)五〇歳 (若冲)九月十九日、末弟宗寂没(享年不明)。九月二十九日、「釈迦三尊像」三幅(宮内庁三の丸尚蔵館)、「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進。十一月十一日、宝蔵寺に宗寂の墓建立。十二月二十八日、相国寺と死後永代供養の契約を結ぶ。
明和五年(一七六八)五三歳 (若冲)五月、『玄圃遙華』(作品七九)。十一月一日、東本願寺光遍上人、「動植綵絵」の一覧を相国寺に願い、貸与を許可される。三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「高倉錦小路上ル町」。『素絢帖』(作品七八)跋。
(蕪村)三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「四条烏丸東ヘ入町」。
四月、讃岐を去り、帰京する。五月六日、三果社中句会を再開する。
上記の「関連年表」で、まずもって注目したいことは、宝暦七年(一七五七)に蕪村が京都に再帰した、その年に、若冲の畢生の傑作シリーズの「動植綵絵」の製作がスタートを切ったということである。この若冲の「動植綵絵」(三十幅)と「釈迦三尊図(三幅対)との全貌は別記の通りである。
そして、この「動植綵絵」は、明和二年(一七六五)九月に、妻子のいない若冲の跡取りとして期待をかけていた末弟宗寂が亡くなったのを機に、いまだ未完成のままに、「釈迦三尊」(三幅)と「動植綵絵」(二十四幅)を臨済宗相国寺派大本山相国寺に寄進し、生家の伊藤家の菩提寺宝蔵寺(浄土宗)の宗寂の墓を建立している(父母の墓も若冲が建立している)。
何故、生家の菩提寺宝蔵寺ではなく相国寺に寄進したのかは、若冲より三歳年下の、生涯にわたって精神的支柱と仰いでいた、後の、相国寺百十三世住持となる大典顕常和尚(梅荘顕常)と、その相国寺の塔頭の林光院を住居としていた売茶翁(漢詩人・高遊外、臨済・曹洞の二禅を極め、さらに律学をも修した当代一流の黄檗僧・月海元昭、その僧籍を捨てて、「通仙亭」で煎茶を売る「売茶翁」の名で知られている)との二人の縁に因るものなのであろう。
この若冲の精神的二大支柱の梅荘顕常と高遊外の二人が、宝暦十年(一七六〇)に、若冲のアトリエ(「独楽窩」でなく「心遠館」か)を訪れて、「将ニ花鳥三十幅ヲ作リ、以テ世ニ遺サントス。而シテ十有五幅既ニ成レリ」((大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」))と、その時に完成していた十五幅を見たとの記事を残している。
それだけではなく、この時に梅荘顕常に同行していた高遊外は、「宝暦庚辰(十年)冬極月/丹青活手妙通神/八十六翁高遊外書付/若冲隠士」という一行書(書A)を認め、若冲に与えたのである。
この高遊外が「八十六翁」の八十六歳とすると、若冲、四十五歳、梅荘顕常、四十二歳の時となる。即ち、高遊外と若冲・梅荘顕常とは、四十歳以上の歳の開きがあったということになる。
若冲は、この一行書の「丹青活手妙通神(丹青活手の妙神に通ず)」の七文字を二行にわかって印刻し、生涯にわたってそれを使用し続けた。「動植綵絵」においても、別記の「17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」「22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)」「23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)に、その印影を見ることが出来る。
さらに続けると、梅荘顕常の「藤景和画記」には、この「而シテ十有五幅既ニ成レリ」の、その十五幅について、漢字四字の題名をつけて、それぞれに、その図様の解説を漢文で記している。それと、現存する「動植綵絵」(三十幅)を照合すると、別記の「1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)」から「12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)」の十二幅は一致し、三幅(「秋扇涼影」「寒華凝凍」「群囲攻昧」)は該当するものがなく、その三幅は「墨画」と明記されている。
すなわち、若冲の当初のプランでは、着色画(カラー)十五幅と水墨画(モノクロ)十五幅とを対にするものであったが、製作途中で、全てを着色画として、明確に「動植綵絵」の全体にかかわる題名を付して、宝暦十三年(一七六三)に、その二十四幅と「釈迦三尊像」(三幅対)を相国寺に寄進したということになる(『若冲 広がり続ける宇宙(狩野博幸著・角川文庫)』)。
そして、明和七年(一七七〇)十月、父親の三十三回忌の折りに、自分と父母の戒名と、「動植綵絵」(六幅)を追加し三十幅として、その寄進を完了させ、併せて、永代供養の宿願を刻した位牌を相国寺に寄進したというのが、現存する「釈迦三尊像」「動植綵絵」との顛末ということになる。
ここで、この「釈迦三尊像」「動植綵絵」の三十三幅は、観音菩薩が「三十三応身」として衆生を救うという教えが意識されているということと、これらの「動植綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという「草木国土悉皆成仏」の思想を具現化しているという指摘(『生誕三百年記念 若冲百図(小林忠監修)』所収「伊藤若冲の生涯(小林忠稿)」)は、誰しもが実感するものであろう。
この「動植綵絵」の「綵絵」という語は、単なる彩色を施した絵という意味ではなく、「
仏教的なニュアンスを持っていた(元の仏画で発願者がそれらを綵絵させたと記す用例がある)」という指摘もある(『もっと知りたい伊藤若冲 生涯と作品(佐藤康宏著)』)。
と同時に、これらの「「釈迦三尊像」「動植綵絵」にかかわる一部始終を見て行くと、若冲の作画の意図というのは、この「動植綵絵」(三十幅)の途次(二十四幅)で寄進した、明和二年(一七六五)九月晦日付け相国寺宛て寄進状(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の、次の大意(原文は漢文)に、全て網羅されていることを実感する。
「私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽根の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、以て一家をなしました。また嘗て張思恭(ちょうしきょう)画くところの釈迦文殊普賢像が巧妙無比なのを見て、何とか摹倣(もほう)したいと思い立ち、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具(しょうごんぐ)として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も百年の形骸を終(つい)に斯の地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。」
(『若冲(辻惟雄著・講談社学術文庫)』)