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Eimi企画  それぞれの虹

もう一人のマリアⅠ

2020.10.24 04:13

(2020.10.24公開 (プロローグ)(一)(二)  

                       蘇芳 環




(プロローグ)


 大学の入学式を終えて、通学路の桜並木を抜けたところで発車の合図を知らせるベルの音が聞こえてきた。

 僕は急ぎ足でモノレールへの階段をのぼり、今にも閉まろうとする扉めがけて飛び込んだ。

 途端に安堵して、ふうっと深呼吸をすると身体の力が抜けていった。終点のJR小倉駅までは少し時間が掛かるが、猛烈な桜並木の下で乱舞する花びらの記憶を消すには足りないくらいだ。

 

 桜は嫌いだ。

 特に入学式に舞う桜吹雪が一番嫌いだ。

 抜けるような青空に舞い上がるピンクの花びらは雪のようで、ほんのり温かさの混ざった突風が幾人かの女子学生のスカートを巻き上げ、髪を乱していた。

 何となく春めいた香りが辺り一面に広がり、新しい始まりを享受するようにその甘い香りを胸一杯に吸込んでみると、自身の内側から締め付けられるような音が聞こえてくる。

 錆び付いた金属が擦れ合うような歯切れの悪い不快な音、心が捩(ねじ)れて萎縮していく音だ。

 そうして忘れたいと願う思い出が再び蘇ってくる。

 大切なものを失ったあのころが、多くの思い出とともに胸に浮かび来る。

 思い出してはいけないと、何度自分に言い聞かせただろう。

 引き摺ってはいけない、忘れなければと毎年この桜の季節が訪れるたびに、心に鎧を着けて、鎖で縛って、鍵を掛けてきた。

 それらが、否応なしに背中から襲ってくるようだった。

 

 駅に着くと、僕はモノレールを降りてふらふらと南出口へと向かった。

 本当はJRに乗り直さなければならないが、さっきまでの桜吹雪の記憶を消したくて、雑踏の中に紛れ込んで、しばらく気分転換をしようと決めたのである。

 南口を出たところで、途端に音楽が耳に飛び込んできた。

 見渡すと、駅前ビルを背にして若者三人が、ギターを抱えて演奏している様子が目に入った。

 ストリートシンガーというのか、人混みからすれば、それほど多くない幾人かの人達が聴衆となって足を止めている。

 駅前百貨店二階へと連絡路の広がる改札口前からの雑踏に紛れながらも、物珍しさから僕も野次馬根性で彼らに近づいていった。

 両端の二人の男がギターをかき鳴らし、真ん中の少女がタンバリンを片手にボーカルを取っている。

 少女のジーンズが目に入ると、その脚の長さや腰のラインに胸が掻き乱され、ざわつき始めた。

 脈は速まり響く鼓動が、足を止める人々にも聞こえるのではないかと思ったほどだった。

 長い手足と独特の容姿は、何年経っても変わるものではない。

 近づけば近づくほど疑いは確信に近づこうとしていた。

 

——マリア!


 そう、真理亜だ、真理亜が立っている。

 何度も目を擦り確かめると、次第に心臓が早鐘のように鳴り出した。

 忘れられない、忘れたことなど一日もない悪い女、真理亜。

 何年ぶりだろうか。

 彼女を前にして、ただ茫然と佇(たたず)むだけしかできないのだろうか。

 真理亜だろう少女を前にして、僕は再び桜吹雪の光景が頭の中に広がろうとしているのを感じていた。







                        (一)




 真理亜がうちに来たのは僕が小学校五年生の進級式の日だった。

 日々の空気の中に温かさが溶け込み、萌えるような新緑が目に鮮やかに映り始めるころだった。

 校舎から正門まで続く満開の桜の下、乱舞する花びらを帽子や方に着けたままで家に帰った。

「ただいま。」

 返事はなかった。

 脱いだ靴をきちんと揃えて下駄箱に入れて、二階に上がる前に居間を覗き込んだ。誰もいないと思っていたので、そこに座る少女の姿に驚いた。

 少女は低いクッションソファーの肘掛けにもたれるようにして座っていた。

 部屋の手前側にテレビがある。少女は退屈そうにぼんやりとテレビを眺めていたようだった。僕は彼女と目が合った。とたんに彼女は姿勢を正した。

 邪魔だとばかりに投げ出していた長い脚を揃え、同じく長い腕を膝の上に置いた。そして少し上目使いに僕を見つめて、少し頭を動かしたようだった。

それが真理亜だった。

「あんた、誰ね」

 僕はぶっきらぼうな言い方をした。

彼女の容姿があまりにも普通の少女と違っていたため、動揺してきちんとした言葉が出て来なかったのだ。

「あたし、真理亜」

 真理亜は日本人には見えなかった。肌の黒さや大きな丸い目や少し縮れた髪や、その他のどんな点も、彼女が黒人の特徴を示しているように感じられた。

 痩せ細った手足や目の下のくまや、そして上目使いの表情から、あまりいい生い立ちが想像できず、加えて日本人離れしたその容姿から、僕の日常からは想像することのできない少女だと思い、当時小学生の僕にはその存在をどう扱えばいいのかわからなかった。


 古くて丈の短いワンピースは格好悪いし、黒いゴムで二つに結わえた髪は、縮れて飛んだり拗ねたりして、みっともなかった。

「マリア?あんたが?ふん、マリアって名前は世界一優しくて、きれいな人のものたい。あんたがマリアなわけないっちゃろ。」

 僕はわけのわからないいら立ちを覚え、腹立たしいような悲しいようなよく分からない感情で胸いっぱいになっていた。

 父はずっと教会に通っていて、そのころは母も僕もよく連れ立って日曜礼拝に参加したものだし、聖書の話もよく聞かされたものだった。その影響もあって、当時の僕の頭にはマリアとは聖母マリアのことであって、どんな人をも愛し続ける人類の母だというイメージが強くあった。

 そのマリアという名前が彼女の口から出たことに腹立たしさを感じたのか、あるいはこの少女に差別的な感情を持った自分自身を嫌悪したのか、どちらであっても不愉快な感情がこみ上げたのは事実だった。

 いらいらと、「嘘ばつく女たい」と悪態をつきながら、二階の自分の部屋へと会談を駆け上がり、扉を開けるとベッドの上へランドセルを放り投げた。


 顔が熱くなっている。頬を膨らませ、己の胸の鼓動の速さに気を動転させつつも、熱い血潮の流れる音が頭の中で鳴り響くのを聞いていた。

 少女はどう思っただろう。腹を立てただろうか、初対面なのにとあきれただろうか、いや、とんでもないガキだと嫌悪しただろう。そう思うと、ますます気分が悪かった。

 たぶんそう変わらない年齢のはずだ。そのくらいに見えた。

 親同士が知り合いかもしれないし、近くに引っ越してきたのかも知れない。

 これから近所付き合いが始まる相手だったらどうする。挨拶に来て何の理由もなく悪態をつかれたら相当腹が立つんじゃないだろうか。僕は髪を掻き乱した。


「貴司、降りてこい」

 父の声だった。叱られるな、と舌打ちをして机を叩いた。

 父の説教は長い。聖書の言葉や、例えを引用して、絶対的な力で高圧的にだらだらと繰り返す独特のものだ。何を言っているのかよく分からないことが多いけど、とにかく謝るまで続くのでいつも辟易している。高学年になってからは、ほとんど耳に入れず、とにかく謝るようにしている。

 僕は口の中で謝る準備をしながら「はあい」と気のない返事を返して部屋を出た。


 階段を降りてもう一度居間に入ると、今度は両親の姿があった。

 父は少女の隣に座り、母は二人の後ろの奥のキッチンからコーヒーとソーダを運んでくるところだった。目が合うと父は笑顔を見せた。

「ああ、貴司、おかえり。こっちへおいで、紹介ばするけん」

 にこやかに手招きをする父を怪訝な気持ちで見ていたと思う。

 二人の前のソファーに座ろうとする僕の目に、ちらりと少女の表情が映った。

 大きな瞳を縁取る濃いまつ毛の影が、瞬きとともに何度も動いている。落ち着きのない目の動きは僕の様子をうかがうように、頭からつま先までを観察しているように見えた。

 さっきの悪ガキが小さくおとなしくなっていることに気付いたのか、彼女の目が安堵して定まり、すぐに片頬を上げてみせた。

 だがそれはほんの一瞬のことで、彼女はすぐに再びおどおどした弱者の表情に戻っていた。

 僕の胸に何となく違和感が残った。

 居間は窓からの光を一杯に受けて、明るく清々しく春めいている。

 何故か父も、そしてコーヒーを運んできた母も機嫌良く微笑んでいる。少なくともこのときの 僕にはそう見えた。

「吉田真理亜ちゃん。貴司、今日から一緒に暮らすことになったったい。マリアちゃんは六年生だから、お前のお姉ちゃんだからな。いずれうちの籍に入れるっちゃけん、そしたら寺越真理亜になるけんなあ、仲良くせんといかんよ」

 そう言うと、父は隣の真理亜に向かってにっこりと微笑みかけた。

 真理亜はまるで小鳥のように恥ずかしそうにうなずいて、大きな瞳を父さんに向けた。

 僕は茫然と二人を見ていたと思う。

 父の言葉も様子も異常なら、真理亜の態度も異常に映った。


 変だろう、そんなの。

 何を言っているんだろう、同じ年頃の息子がいるのに、一緒に暮らすとか籍に入れるとか、変に決まってるだろう。

 砂糖壺をテーブルに置いた母が、僕の肩に優しく手を置いて言った。

「あのね、お父さん、ずっとボランティアしよったっちゃろ。真理亜さんの施設、小倉にあるんだけどそこにもずっと訪問しよったったい。それで真理亜さんをとても気に入ってね、両親はいないし、引き取りたいと申し出てきたんよ」

 だからそれが変なんだ。

 心の中で呟いた。

 彼女がまだよく分からない赤ん坊なら、そんな気が起こることはあるかもしれない。あるいは女の子が欲しかったのなら仕方がないかもしれない。だけどそうじゃなくて通っている施設で一人だけを気に入ってうちの子にしようというのだ、僕の存在を無視して。僕に対してよほど不満があるのか、どうしたって普通じゃないだろう。見ず知らずの子どもを引き取って、僕よりも赤の他人を可愛がりたいなんて。

 そうだ、父の口癖は『愛』だ。

「愛たい、貴司、人を愛することが一番大切なことたい。どんな人でも愛があれば生きていけるけんなあ。特に、貧しい人は不幸な人には優しくせんといかん。そして、それができるならもっと進まんといかん、自分の周りだけじゃなく、たとえ敵だと思う相手であっても優しくせんといかん。憎まれている相手に優しくすることは一番大事なことっちゃけん。何故なら神様すべての人を愛しとるっちゃけんなあ」

 いつもそう言ってきた。そう言って最近近くの教会で洗礼まで受けたと聞いた。その言葉を実行するつもりなのか。

 この真理亜は、父のいうところの”優しくしなければならない貧しい不幸な少女”なのか、”敵だと思う相手”なのか。


 真理亜の肌浅黒く、痩せ細った手足はクモみたいに長い。

 施設の中で誰が彼女を庇護しただろう。

 その役を買って出ることで自分に満足しようとしているのか。

 かつては小学校の教師をしていた父は、子どもの精神性の教育のために力を注ぎ、地域のボランティアや多くの後援会などに参加し続けてきたのだ。

 朝は一番遠くの子どもの登校時に合わせて横断歩道の前に立ち、帰りは各登校班の中に順番に入っていって家まで見届けた。研究熱心で地域の広報誌に多くの論文を発表したり、研修会では司会進行役を買って出たりしていた。

 やがてその熱心さが買われて非常勤の講師として地元の大学に迎えられると、ついに小学校を辞めてボランティアと大学通勤と教会通いの毎日になっていた。

 現在、家計を支えているのは、結婚前から同じく小学校教師を続けている母だ。

 二人はかつて同じ職場だった。

 その母は毎日働きづくめだ。

 学校から帰ると夕食の準備や片づけに忙しく、僕が寝てしまった後で学校から持ち帰った仕事を始めている。休日はたまった家事や仕事に一日追われ、休む暇もないほどだ。

 母の目には父はどう映っているのだろう、

 小学生の僕は母の相談相手にもなれず、万事鷹揚で物にこだわらない母は誰に対しても不満も口答えもなく、家の中で父の自由を制止するものは何もない。

「貴司、みんなで頑張っていこうね」

 母は震える手で僕の肩を叩き、そう言ったのだった。





                     (二)




 真理亜が学校に通い始めてからは、毎日が嵐のようだった。

 彼女の目立つ外見のせいで誰もが注目し、何でもすぐに噂になった。初日からそうだった。

 彼女は初日、父の買った黄色いワンピースを着て三つ編みのゴムも髪留めも揃えて黄色いものをつけて登校した。

 

 それは真理亜に本当によく似合った。

 お世辞ではなく、差別ではなく、肌の色によく合い大きな瞳によく映ったし、貧弱な身体つきを隠して明るい印象に変えるものだった。

 だが登校班の待ち合わせ場所である分譲住宅の新しいごみ収集場所の前でみんなを待っていると、まずは擦れ違う近所の人たちの冷ややかな視線が堪(こた)えた。

 彼らは真理亜の頭からつま先までを無遠慮に見つめ、そして僕に冷笑を浴びせていった。

 昔から住んでいる小母ちゃんたちなど堂々と真理亜に話し掛けてくる者も多かった。

「あんた、どこから来たんね」

 頭の上からつま先までを眺め回し、好奇心に満ちた目の光を称えて真理亜を見つめ、見下すような口調で言った。

「どこに越してきんしゃったと。寺越?寺越んとこに住んどらすと」

 そして複雑そうに僕の顔を見つめると、小母ちゃんたちは同じように口元を緩めて、それから見下したような目つきで去っていくのだった。

 その光景は僕を沈鬱な気持ちにさせた。

 普段は気のいい近所の人達が、あまりにも差別的で自分本位な考えであることに気付かされるからだ。

 真理亜を見て笑いを浮かべるのは何故なのか、始めは眉間に皺を寄せてまるで不審な者を見るような目つきで不作法に見つめていたかと思うと、尋問のような質問を矢継ぎ早に問いかけて安心しようというのか。

 

 ずるいだろう、そんなのないだろう。容姿だけでその人間性までが決まってしまうわけではないだろう。

 だが自分もそう変わらない人間であったことは、真理亜との初対面を思い出せば明らかになる。大人だってそうなのだからと、自分に対して言いわけをしてみるが、そう思えば思うほど恥ずかしいような腹立たしいような、気分の悪さに心が苛まれるだけだった。


 だが、登校班の子どもたちはもっと酷かった。みんな初対面の真理亜を見て目を丸くしたし、声まで上げる者もいたが、誰も話しかけることもなく近づく者もなかった。

 歩き出すと、差別的な言葉を含むひそひそ声がそれぞれから聞こえてきた。

 人を傷つける言葉がそれほど多く存在し、他人に対して容赦しない幼さというものの悪を、このとき僕は漠然と感じていた。

「黒○坊」 「ガイコツ」 「天然」 「ゴボウ」 「縮れ」 「ぎょろ目」 「混血」 「クモ女」

 学校に着くまでの間に耳にした言葉は覚えているだけでもそれくらいはあった。

 僕に聞こえるということは、当然真理亜にも聞こえていたはずだったが、彼女は怒ったり泣いたりしなかった。 ほとんど変わらない表情で、何も言わず黙々と歩いていた。むしろその口元は笑みを浮かべているかのようにも見え、胸が痛くなったのを覚えている。

「おはようございます」

 通学路の最後、校門の前には毎朝校長先生が立っている。

 校長先生は生徒一人ひとりに声をかけていた。


 僕たちは校門を入ると、それぞれに駆け出し、同じクラスの子を見つけてはお喋りを始めたりと、みんな思い思いに四散していった。そうして玄関の下駄箱前に来たとき、振り返った僕の目に映ったのは、黒い肌にコントラストの鮮やかな黄色いワンピースを着た真理亜、ただ一人、誰からも見捨てられたような、ぽつんとした真理亜の姿だった。


「お前、寺越か」

 一時限目の休み時間に六年生が三人やってきて、廊下から手招きをするので行ってみると、彼らはにやにや笑って僕を取り囲んだ。

「あの転入生、お前んちに居候しとるっち本当か」

「親戚に外国人がおるんか」

 僕はびっくりして声も出なかった。

「なんで一緒に住んどうとや」

「お前のお父さんが連れてきたっちゃろ」

「お前んとこのお父さん、飲み屋通いしよったっちゃろ。なんで教師辞めたんか」

 三人は畳みかけるように質問して来た。

 答えられずにいると、一番体格のいい奴が顔を寄せてきた。

「うちの親、PTA役員でさ、いろいろ知っとうけんが。お前のお父さんが教師辞めたんは水商売の女と仲良くなったけくさ。表向きは大学の講師とかボランティアとかゆうても、あっちこっち行って遊びよるだけやろうが」

「その水商売の女があいつの親やろ」

 僕がかっとなってそいつの胸ぐらを掴み殴りかかろうとすると、二人が僕たちを引き離しに掛かってきた。

 手が外れると三人は声を上げて笑い出し、合図のように互いに見つめてから駆け出し逃げて行った。

 それぞれの口から「いぼきょうだい」という中傷の言葉が吐き捨てられる。

 それは長い廊下に重なりこだまし、繰り返された。

 頭に血がのぼった。

 父を侮辱するなんて許せない。

 僕の父だ。教会に通い聖書を持ち歩き、ずっと施設を周り続けてボランティアを続けている父だ。

 りっぱな人間なんだ。お前たちに悪く言われる覚えはない。

「このウ○コたれっ!」

 

 長い廊下に、誰よりも大きな僕の叫び声が響き渡った。

 だがそう叫びながら胸の中に父の姿がよぎると、本当は誰よりも苛ついているのは自分であると思い知らされるのだ。

 ーーどうして! 一体どうしてなのか。

 こんな風に言われてまでも真理亜を引き取りたい理由は何なのか。

 どうして真理亜だけを特別に扱おうとするのだ。

 それが父のいつも言う『愛』なのか、こんな嫌な思いを家族に強いらせて、それが本当に『愛』か。

 

 時間とともに、悔しさは募るばかりだった。

 やがて僕たちの騒ぎは噂になり、二時限目以降、僕も真理亜もすっかりそれぞれのクラスの噂話の主人公となってしまったようだった。


「……だから、脚だってすごく長かよ、顔だってくさ、すごくちっちゃかろうが。やっぱ日本人じゃなかよ」

「そうたい。うち、あげな目立つ服はよう着らん。背も高かやろ。小学生には見えんっちゃけん。もしかすると寺越のおじさんとデキとるっちゃない?」

「あんたもそう思う?うちも始めっからそう思うとったったい」

 昼休み後の掃除時間、ごみをダストシュートに持って行く途中、廊下を拭き掃除する六年生の女子のお喋りが耳に入ってきた。

 さすがに女子に言い返すことも出来ず、顔が熱くなって、下を向いて、知らん顔をして通り過ぎた。だがダストシュートの前で視線を感じて振り向くと、すぐ後ろに真理亜が立っていることに気付いた。

 どきりとした。

 彼女はごみ袋を二つ、両手に抱えていた。

 今、そこを通ったなら聞いたはずだ。自分を中傷する同級生の言葉を彼女もまた耳にしたはず、だがやはり真理亜は怒るわけでも泣くわけでもなく、淡々とごみ捨ての順番を待っていた。

 僕はごみを捨てるとくるりと身を翻して真理亜と向かいあった。胸が詰まってどうにもならかった。

 ーーあんなことを言われて平気なのか、何とか言えよ、何か言い返して来いよ。

 だが声は出なかった。

 背の高い真理亜の目を見つめたとき、それまでひょうひょうとしていた彼女が初めて僕を見つめ、視線を返してきたからだった。

 真理亜は大きな瞳で僕を見た。

 睨んだり悔しがったりしている様子はなく、ただ突っ立ったままじっと僕の顔を見ていた、かと思うと、やがて最初の日に見たような笑みが、彼女の顔に浮かんでくるのを確認した。

 ぞっとする。

 何故笑みが浮かぶのだ。

 しかもそれはやはり瞬間だけで、すぐに彼女の表情は変化していった。

 視線を避けて、再び僕など眼中にないような様子を見せ、無表情にごみを捨て始めたのだ。

 僕に言葉は無かった。何も言えない、何も言うことが出来ない、ただ真理亜は痛いだろうと感じ、それを共有したと思い込んだだけだった。


 翌日、真理亜は黒いゴムで髪を括り、地味なスカートを買ってもらって、それを着て学校に行ったのである。

 だが既に噂は学校中に広がっていて、どんな格好をしようと真理亜は注目され後ろ指を差されたし、僕もまたみんなの噂から解放されることはなかった。

 

≪マリアという名前の意味は神様に愛されたという意味です。

 

 マリアがイエスを身ごもったとき、天使ガブリエルがマリアの部屋に入ってきてこう言いました。

「おめでとう、非常に恵まれた方よ。主はあなたとともにおられます。あなたはどの女よりも祝福された方です」

 

 そしてマリアは、早く亡くなった夫ヨセフの代わりに、女手一つでイエスを育てあげました。

 そのイエスは救世主として人々に慕われながらも多くの敵を作り、戦い、そして罪人として十字架にかけられました。

 

 その間、マリアは変わらずイエスを愛し、守り、勇気を持って生き抜いたのです。

 マリアにとって、イエスが救世主であっても罪人であっても、その愛に変わることはなかったのです。

 

 神様に愛されたという意味は、神様を愛したという意味でもあるのです。≫


 

 真理亜が神様に愛されたものであればいい、神様を愛していれば、もっといい。

 祈るような気持ちだった。







(三)(四)(五)は『もう一人のマリアⅡ』へ