ミューレンベルギア・バラ色の世界
スモークツリーと呼ばれるミューレンベルギア ピンクがかった霧のような穂はバラ色の世界を連想させます。
Facebook・津留晃一の世界 投稿記事 無条件の愛
「無条件の愛」この言葉ほど私の魂をふるわせる言葉はありません。神は光であると伝えられました。しかし私にとってそれは単なる説明でしかありませんでした。
そこに感動がなかったからです。
しかし神とは「無条件の愛」であると伝えられたときには、これこそ我が目指すゴールであると感じました。人はこのいただきを目指します。そして恋を体験します。
恋人は人を感情のピークへと誘います。魂の昂揚感を感じ愛の素晴らしさを体感します。
ところが感情のピークは引波のごとく必ず冷めていくという過程をたどります。
愛に終わりがあるとは一体どういうことでしょうか?
愛は永遠であるはずなのに、冷めて行くかに見える愛とは一体なんなのでしょうか。
ときめきを感じなくなった恋人を見て、飽きてしまったのだろうか、これが倦怠期なのだろうかと思います。
このことを悟ることが、今回の私の生の大きなテーマの一つであったように感じます。
「無条件の愛」を感得するための、必ず通らねばならない関門でしょう。
恋人の出現によって感じる愛とは、条件付きの愛だということです。
その愛は恋人がいなくなったら消えるわけですから・・・。
他人に出逢い、愛することにより自分の内面にあった深い愛に初めてふれ、自分の大いなる愛に気付きます。
人を愛するたびに感じる自分の奥深くに眠る大いなる豊かな愛情を、やがては誰がいなくても感じる事が出来るようになってきます。
プレゼントをくれたから好きになるとか、偉い人だから興味があるとか、何かが出来たら
評価が上がるとか、条件付きの愛とはまさに三次元の愛です。
この二極の世界では必ずその反対もあります。
何かを貰って好きになった人は貰えなくなったとき嫌いになります。
上がったり下がったり、揺れ動く二極世界では必ずやがて反対の極を迎え、好きになったり嫌いになったりあなたの感情も揺れ動きます。
誰がいなくとも、あなたはもともと愛そのものです。
「無条件の愛」とは、もともとあなたそのものであり、そのことに恋人は必要ありません。
愛そのもののあなたが、愛を感じるのに他人は必要ないのです。
そのことを思い出させるために、そのことに気付くために他人が存在しているだけです。
他人とは内なる巨大な愛を取り戻すきっかけでしかありません。
このことを思い出すのが人生ゲームです。このことを思い出し、あなたが「無条件の愛」そのものとして生きたとき、あなたにはもはや肉体は必要ないかもしれません・・・。
いや、私にはとてもそんな生き方は出来ないと嘆く必要もありません。
もともとそうであるあなたは、今は単にゲームの途中であり、難解なゲームにチャレンジ中なのですから、高度肉体ゲームをそんなに焦って終わらせる必要もないでしょう。
せっかく入った地球というゲームセンターです。何も急いで出る必要はないでしょう。
子供のように、遊び疲れるまで遊べばいいのです。他人がいて愛に気付きます。
元々内側にあった愛に、他人を反映して気付きます。
冷めてきた愛の昂揚感を再び体験したいと、今度は別の人に新たなときめきを求めます。
この人こそ絶対であると思った人との愛もやがては必ず冷めてきます。
愛はあなたの外側にあるわけではないのですから。
あなたが感じる愛の悦びは、他人が外から運び込むものではなく、あなたの選択によって、あなた自らがその内側から引き出しているのだと気付くまであなたのゲームは続くわけです。
もともと愛そのものであるあなたは、これからも無条件の愛そのものでないときはありません。ただ忘れているだけです。あなたは今そのままで完全です。
倦怠期を、進化のための一つの通過点であると理解していると、そんな時期でさえワクワク感を持って受けとめることができ、次に起こる現象がただ待ちどおしくなってきます。
初めは会っているときだけ嬉しく、離れているときはもう心が寂しく疼きます。
しかしやがてピークを過ぎてくると、彼女がそばにいなければ喜べなかった心が、彼女がどこにいても嬉しいといった広い心へと変わってきます。喜ぶために必要であった条件が消えてくるわけです。すなわち条件のない愛へと進化するわけです。
なのに人は、それを愛が減ってきたと解釈します。
彼はこの頃冷たくなった、他に好きな人が出来たかも知れないと妄想が始まります。
こうして人は自ら与えた意味付けにより、自らを混乱へとおとしいれていきます。
そしてなかなかこのパラドックスに気付けません。
そんな反応がいつしか深く意識下に沈み込み、もはや無意識で無条件に反応しており、
そこに自分の意味付けの選択があったことさえ忘れ去っています。
毎日電話をくれていた彼の電話が三日に一度になったとしても、そのことに意味を与えず、
ただ気付いていればいいのです。
人間の本質は観察する者であり、行為する者ではないのですから・・・。
昨日も、一昨日もかかってきた電話より、突然の電話の方が喜びは大きいはずです。
ただ単に起きてくることに気付いているようにすれば、深い悦びは感情のピークのところにだけあるわけではなく、どこの位置も悦びであったことに気付きます。
そして状況(外界)からの操り人形であった心が、やがて創造者として現実を創る位置へとシフトするのです。
そんなあなたはもはや自由自在です。
ピーク(山や谷)ではなく、ニュートラルなところが悟りの頂きです。
これに気付いた人はもはや心が上がったり下がったりせず、いつも同じ心の位置でいられるようになります。
そこが涅槃の位置です。人は母親の無条件の愛から生まれます。
母親は生まれでる我が子に、条件は付けません。ただどんな子が産まれるか、生まれでることだけを祝福しています。そして生まれた我が子を無条件に受け入れます。
どんなに醜くとも、心からその誕生を喜びます。
しかし、やがて制限された母親の意識が、肉体に限定された知恵を授けます。
無である子供は無条件にその制限された智恵を受け取り、子供の限定意識ができあがります。肉体人間の完成です。
そしてあなたのエゴが、無条件の愛に目覚めるゲームが開始されました。
「無条件の愛」、これほど心地よい響きはありません。
なのに人はどうして愛に条件を付けてしまうのでしょうか?
自分を制限された、限定された存在として認識している人にとって、この無条件の愛という言葉は、ほど遠いものであるかも知れません。
あなたは無限です。このことを信じることがチャレンジです。たしかにやさしいことではありません。
しかし難しいからこそ、この旅が価値に満ちたものとなるのではないでしょうか。
我々の求めるべきものは異性ではありません。真に求めるべきものは我々の源であります。
それに気付くために異性があるようです。
内なる異性を統合し、大いなる我を求める時、無条件の愛を思い出します。
内なる無条件の愛に触れたとき、人は無条件に今ある現実を受け入れるようになります。
今、このままが最もいいことが解ります。
聞くこと、見ること、感じることの全てが、良きことのみであったことに気付きます。
そんなあなたにどんな問題もあろうはずがありません。
リラックスし、起きてくることを起きて来るままに楽しみます。
人や現実を操作しようという気持が起きなくなります。委ねきります。
逆説的のように聞こえますが、この時あなたは進化の最短距離をたどり、
昇り始めます。
Facebook・清水 友邦さん投稿記事
愛を取り戻すには自分の感情に触れる必要があります。
けれども、自分の感情に触れることには恐れがあります。
子供の頃にあるがままの自分が否定されると感情が意識にのぼってくる通路を封鎖して両親の期待に添う偽りの仮面を被るようになります。
固く防護された偽りの自己は、自分を巧みにごまかし、心から湧いてくる感情を素直に表現しません。
感じないようにハートを閉じて心の痛みを抑圧して心の奥底にしまい込んでいます。
外見は大人でも内面は感情を抑圧した子どもの時のままの人が多いのです。
人生で受け入れられない経験をすると不快な感情や重たい気分が心の奥から浮上して巻き込まれます。
そのとき、不快な感情から逃げようと即座に思考が動きます。
思考がハートのエネルギーを奪ってしまうのです。
そして、自己中心的な物語に入り、自己否定して自分を責めるか、他人のせいにして攻撃してしまいます。
自我はあるがままが嫌いなので、内側で起きている感情のプロセスをいつも止めています。
恐れや不安の奥には怒りと悲しみがあります。
そこには愛を受け取れなかった痛みがあります。
分離感があります。
情動という生命エネルギーの流れには愛という源泉があって、そこからあらゆる感情が発生しています。
沈黙して感情の流れを止めずにあるがままにしておくと生命エネルギーは愛という源に帰ります。
自我は分離した世界を見ているので愛を不安や怒りとして感じています。
自分の内側に沸き起こる不快な感情は外の世界に原因があると考えています。
自我は不安を解消しようと外側に投影して行動表現して問題がおきるのです。
否定的な感情から逃げないで気づきと一緒に経験する必要があります。
不安や恐れから逃げずに気づきの中で深く味わい尽くすと、分離していたエネルギーは一つになります。
感情や思い込みの葛藤の中で全体を俯瞰する本当の自分が目覚めると、マインドが心の表層を流れる波に呑み込まれていたことに気がつきます。
感情や思考は常に揺れ動いています。
永遠でないものは常に変化しています。
いつも変わらずに「いまここに」在るものそれが本当の自分です。
空が雲で覆われて雨が降り、風が吹き、嵐がこようと、その背後には常に青空があります。
視野をこころ全体に拡げると、苦悩も喜びも、雲のように過ぎ去る心の大空の一部だということがわかります。
雲(思考・感情)があってもなくても、常に青空(真実の自己)はあります。
苦しみは自我がゆらいでいる状態です。
その時に自我という雲の切間から突然光がさして『はっ』と気がつきます。
自分だと思っていたマインドは自分ではなかったのです。
気づきがおきれば本当の自分は何があっても傷つくことなく、今ここにいつもあることを知るでしょう。