#三浦瑠麗 - #リベラル は #保守 に学ぶべき
「プレジデントオンライン」様より
シェア、掲載。
ありがとうございます。
感謝です。
三浦 瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者
1980年、神奈川県生まれ。神奈川県立湘南高校、東京大学農学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。著書に『21世紀の戦争と平和』(新潮社)、『私の考え』(新潮新書)など。
三浦瑠麗「純粋なリベラルという概念は成立しない」
なんでリベラルはこうじゃないの!
2020/10/16 11:00
プレジデント 2020年10月30日号
テレビや雑誌などさまざまなメディアで発信を続ける国際政治学者の三浦瑠麗氏。なかでも政治や文化について一段深い議論を展開するのがプレジデント社の公式メールマガジン「三浦瑠麗の『自分で考えるための政治の話』」(毎週水曜日配信)だ。同メールマガジンから抜粋・再編集した記事をお届けする。
倉持麟太郎著『リベラルの敵はリベラルにあり』を読む
倉持麟太郎さんの新著『リベラルの敵はリベラルにあり』(筑摩書房)を読んだ。
安保法制に関して日弁連の指名を受け、論点整理に携わることになった倉持さんは、政策づくりに専門家として関与することへの期待に胸を膨らませていた。
憲法解釈を変えたわけだから、筋論から言えば反対派の理屈には筋が通っているところがある。
しかし、安保法制が成立し夢破れたとき、彼は二重に思い込みを裏切られたという。
まず、権力はそんなにピュアではない、ということ。
そしてリベラルがリベラルではなかった、ということ。
リベラルがリベラルでないというのは、一体どういう意味だろうか。
本書は、リベラルが合理的な個人の存在を前提としたことを非現実的だとし、人間はそんなに強いものじゃない、と指摘する。
問題は、理念と現実が異なるときにリベラルが現実のほうを軽視したことだろう。
彼が指摘するように、多くの人がアイデンティティ・リベラリズム、つまり弱者の立場を標榜することによって求心力をつくり出す不毛な方向へと向かった。
リベラルは保守の知恵に学んだほうがいい
倉持さんは本書を通じて、弱い個人を前提とした新たなリベラリズムで人々と関係性を結び、世界を作り直そうと呼びかける。
いわば、リベラルは保守の知恵に学んだほうがいいんじゃないかということだろう。
本書はナショナリズムに短所や潜在的な危険を見つつも、それを否定はしない。
そして、下からの「いきいきしたコミュニティ」が資本の論理やグローバル化によって壊されていった過程を惜しみ、その再興に期待を抱く。
こうしたリベラルに対する問題提起自体は新しいものではない。
冷戦後にはイスラエルの識者からリベラル・ナショナリズムという概念が提示されたし、欧州では移民の増加による社会的影響が感じられだした頃から土着の文化や国民国家性を見直す風潮が生じた。
そもそも、リベラルはすでに久しく「純粋な意味」でのリベラルではない。
そして、せんじ詰めれば、初めから純粋なリベラルなどという概念は成立していないのだ、という問題にぶち当たってしまう。
とはいえ、本書の世界観はリベラル修正主義のひとつの到達点を示しているだろう。
群れるためだけの理念なきリベラルに対する反発。
権力の融通無碍さに対する嫌悪と無力感。
先進国の中産階級が抱くグローバリゼーションへの反感。
しかしそうした総論よりも、本書の面白さは著者自身が現場で感じた「なんでリベラルはこうじゃないの!」という苛立ちにある。
著者世代のようなリベラルが「法律」というツールを活かしつつ、デジタル時代の個人情報の在り方や新たな人権の概念、環境問題などに活動のスコープを広げ、また憲法論議に正面から取り組むことには大いに期待したい。
リベラルがこうした課題を保守よりも先に見つけ、本気で取り組み、成長をもたらす施策と結び付けることができたとき、リベラルにとっての明るい未来がやってくるのではないかと思う。