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あさあけ

【覚書】「御陵衛士 伊東甲子太郎の顕彰活動」@かすみがうら市歴史博物館

2020.12.31 00:30

2020.10.24


突如訪れた新型コロナウイルスと共に生きる暮らし。

感染リスクを少しでも減らすため、博物館へ行くのもしばらく自粛し博物館ロスに陥っていた。

そんなところで、今回の展示の知らせが届いた。


かすみがうら市歴史博物館、「御陵衛士 伊東甲子太郎の顕彰活動」。



「顕彰」という言葉に私はすぐ飛び付いた。

なぜなら、学生時代の卒論テーマの一部だったから。


新選組の慰霊行事などは今も大々的行われているイメージが強かったため、私が調べていたのは天狗党とその関連人物の石碑類、後世に顕彰や慰霊活動を行った人々についてだった(あまり知られていないであろうと思ったのと自分が知りたかったから)。


後世の人々による顕彰や慰霊の活動について、それがあった・あるからこそ、いま私が彼らを知るきっかけになったものだと思っていて……。



さて。


今展示には、伊東さんの生家の位置が判明した史料が初展示。

それを知ったのは、その史料を含めたいくつもの史料を寄贈されている市ノ澤栗園さんのInstagramだった。

中志筑の通りをたまに通るけれど、なんだろう、ああここがあの通りで、大体あの辺だったのかぁと予想できるほど、詳細に描かれていた。


鈴木家は天保8年に移転したため、それ以前のものだろうとのこと。

貴重な史料が状態もよく残っていることに感謝、、


そしてメインの顕彰活動については展示後半、今年11月18日に伊東さんの顕彰碑建立を記念しての今展示ですが、そもそも伊東さんの顕彰はいつから?というところへ。


伊東さんは大正7(1918)年に従五位を贈位されており、贈位に向けても様々な動きがあった。


昭和18年に「伊東摂津顕彰会」というのができ、顕彰碑建立を目指して東京帝国大学の塩谷 温氏が撰文を任され、つくば市北条出身で同じく東京帝国大学の市村 瓚次郎氏が中志筑を案内して理解を深め撰文を作成。

その後顕彰碑は4年かかり昭和22年に完成。

が、盗難に遭ってしまい、計画はなくなったそう。


反対する人でもいたのだろうかと考えるけど、盗まれた理由を知りたい、、



後半部にあった「土浦高等女学校の原稿用紙」が使われていた展示品を見て思い出したのは、以前展示で知った金澤 鎗次郎。


本堂家家臣の家に生まれ、伊東道場で学問と剣術を学んでいたそうで、小川 教が伊東さんの肖像画の上に記した文は金澤さんなどからの情報を基にしたと考えられている……そんな方がいたなあ、と。

顕彰ではないにしろ、遺績を語り継ぎたい思いは色々な人のところにあったのだろうと想像できる。



後世に残していきたいという思いは、身内の人だったり身近に接してきた人だったりから何かしらの行動が起こって。

顕彰活動の多くは、たとえば石碑の建立年で考えると、背景に戦争への奮起や象徴としての国家政策的な顕彰の意図があったりすることが多く、必ずしもそれが「残したい」という理由のもと行われているものではなかったと思うけれど。

初めはそういう理由でも、後々地元の人が郷土の偉人として大切にしているのは、やはり様々な思いがあるからで。


時には観光資源にされたりもするけれど、そこにはたしかに残したい地域の方々の思いが介在するはず。

地域の人々の思いはいつになっても消えていない。



なんてことを考えて結局何が言いたいのかというと、顕彰碑が建立されるという時に自分が

生きているという、喜びとも感動ともなんとも表現できない感情があるんです、ということを言いたかった。


地域の歴史を後世に伝えていくのが難しくなってきている場所もあるこのご時世に、かつてあった顕彰碑建立計画を復活させるとは、これもある意味、偉業ではないだろうか。