【自作小説・中編】ろくでもない話
中学2年間高校3年間社会に出てから4年間、正味9年間。想い続けた彼女から、結婚式の招待状が届いた。
窮屈な靴を玄関に脱ぎ散らかして、ジャケットを放り投げる。いつもならそのまま風呂に向かう所だが、今日は一直線に冷蔵庫に向かった。
思い切り扉を開けて、中段でこちらを見つめる冷えた缶ビールを躊躇いもなく握り、思い切り扉を閉じた。
……夢だろ。
ビールを持った左手が冷えて痛む。自分の左の胸はもっと冷たく痛む。
ふらふらとリビングに足を運んだ。小さめのテレビ、小さな卓、小さな本棚に少々の小説。
質素。簡素。地味。
それに比べて右手に握りしめた彼女はどうだ。華やかで幸せそうで輝いている。
どうして。どうして彼女の隣に自分が居ないのだろう。
途端に身につけているシャツも何もかも煩わしくなって、上下ともにそこいらに脱ぎ捨てた。
その姿のままビールを一気に喉へ流し込む。
こんな夜でも、こいつだけは変わらず美味い。
ここまで話しておいてなんだが、誤解を招いていたら申し訳ない。
『彼女』とは別段恋人を指すのではなく、ただ女性を指す語である。
想い続けた彼女等と言ったもんだから、ひょっとしたら浮気でもされて捨てられたなんて思った人もいるかもしれない。今更ながら謝罪したい。ごめん。
自分はそういう節がある。肝心な事がきちんと伝えられない節。
それは色恋においても同じだった。
中学2年の夏の終わり。
ちょうど秋と夏が混じり合うくらいの、自分が一番好きな時期だった。部活の練習が長引いて、いつもより少しだけ帰りが遅くなった日があった。
その日は空がとても綺麗だった。青空が名残惜しげに少し残っていて、それに馴染みだした茜色がゆっくりと夜に蝕まれていくような空。たまらなく心が踊って、教室から空を見てみようなんてロマンチックなことを思い立った。
誰もいないと踏んでいたから、勢いよくドアを開ける。がらっと、自分でも少し怯むほど大きな音がした。
「……うるさい」
鈴のような、静かで凛とした綺麗な音だった。声の方を見ると、ぱちっと目が合う。その瞳は大きく潤んでいて、声と同じように凛としていた。
声色とは裏腹に、彼女はいたずらっぽく笑っていた。短めのボブが揺れ、空と相まって酷く幻想的に見えた。
「冗談。空、綺麗だよね」
静かな声、だがその時の自分には、さながら落雷のように聞こえた。与えられたのは、恋に落ちるに充分すぎる痺れだった。
彼女は周りの女の子達とはどこか違っていた。何が違ったかと聞かれると、はっきりとは言えないのだけれど。
それでもやはり何か違っていたのだ。寝ても醒めてもあの情景が頭から離れず、果たして今、自分は夢を見ているのか現実を生きているのかも危うく思える程であった。
次に彼女と会ったのも、また夕刻だった。
まるで神か何かがその美しさを世界中に知らしめようとしているかの如く、彼女と出会うのはいつも夕刻だった。そんなクサい事を思う程、彼女には茜さす空が似合っていた。
初めて声を交わした日から、実に3年5ヶ月ほど経っていたテスト期間の事だった。自分は高校に上がり、このままだと留年も有りうるぞと力の限り担任に脅され、身も心もヘトヘトになりながら帰り道を歩いていたのを覚えている。
彼女はブランコに座っていた。その日まで、帰り道にある公園がこんなに絵になるものだとは知らなかった。
彼女はじっと、夕焼けを眺めていた。彼女を深く知っていたわけでは無かったが、その横顔が別人のように見えて足が止まった。
そうだな、例えるなら映画のエンドロールが流れる数秒前のような、そんな感じ。焦燥感と終末感、儚さが漂う独特の香りがあった。
余談だが、自分は映画のエンドロール前の微かな間が堪らなく好きである。終わりを迎える寂しさと、物語の締めを体いっぱいで感じ取る幸福感、あの感覚はたまらないと思うのだが、共感を得られる友人がいない事がとても残念である。
「き、綺麗だね」
今日の夕焼け。つい口をついた言葉は、陳腐でひねりの欠片もない。おまけに緊張で声が震え、頼りない事この上なくなってしまう。顔が火照った。
くるっと、夕陽とは反対側にいた自分を振り返る彼女。細い髪が夕陽に反射して目がチカチカする。彼女を見るといつでも、チカチカと眩しい何かに目が眩んでいる気がした。
「うん、綺麗だよ」
先程までの空気が全て払拭され、元通りになった彼女は笑った。まるで自分が言った「綺麗だね」が、決して夕焼けのみに向けられたものでは無いことを知っているかのような目をしていた。
「隣、いい?」
「もちろん、どうぞ」
短く言葉を交わして自分もブランコに腰をおろした。何故か、幼い頃に友人と競い合ってブランコを漕ぎ、遠く先まで吹っ飛んだ事が頭を掠めてふっと息が漏れた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。ただ少し昔の事を思い出した」
「何でもなくないじゃない、何を思い出したの?」
たじろいだ。まさか、こんなくだらない思い出し笑いに食いつかれると思わなかった。
「……ただ」
幼い頃に友人と競ってブランコから吹っ飛ばされたんだ。気恥しさで早口にそう告げる。
すると彼女はそれはそれは可笑しそうにころころ笑った。
あ、八重歯。口元には少しだけ鋭利な八重歯が覗いている。可愛らしいなぁと思う。
「そんなに笑う?」
「ふふ。ごめん、思ったより面白いこと思い出してたのね」
彼女はゆっくり呼吸を整えていた。今同じ空間で呼吸をしているのだな、と急に実感した。
自分も何か聞きたかった。
どうして此処にいるのか、名前はなんと言うのか、趣味はなんだろう、小説は好きかな? 映画はどうだろう、どんな服が好きだろうか、恋人はいるのかな。
聞きたい事はたくさん溢れて止まらない。どれか1つでも口に出来ればいいやと、投げやりに彼女の方を見つめた。
瞳がぶつかる。息が止まった。今まで見てきたもので、どれ一つとして彼女の瞳に優るものは無いように思えた。まるで深淵に迷い込んでいくような、くらりとする感覚だった。
あれほど自分の喉元に溜まり続けていた言葉達は、何処かへ行ってしまった。何か言おうにも言葉が詰まってしまい、自分はただ彼女の瞳を見つめる事しか出来なかった。
どれくらい経ってしまっただろう。
君が、ふっと優しく微笑んだ。まるで考えていた事、全て読み取ったかのように。
あぁ、今この瞬間に彼女の瞳には世界がどんな風に映っているのだろうか?
気がつけば彼女の頬に手を伸ばしていた。ほんの少し冷えた頬は繊細で、壊してしまわないか不安になった。
夕焼けが自分達を飲み込む。彼女は頬に触れた手に、彼女自身の手を重ねた。心臓が唸りをあげる。
「あったかい」
また微笑んだ。突然触れてしまった後ろめたさなど吹き飛んで、このまま夕焼けに溶けてしまいたいと陳腐な感想だけが頭を巡っていた。
だが彼女はぱっと手を離してしまう。一抹の寂しさを覚えていると、彼女がすっと自分の鞄からスマートフォンを無断で抜き取った。
「これ貴方の?」
「そりゃあね」
「手」
すっと手を握られる。どきりとしていると、彼女は悪びれる様子もなくスマートフォンのロックを解除した。
「ちょっと……」
「しーっ」
幼稚園児を窘める様に、唇に人差し指を当てる。彼女自身のスマートフォンも取り出し何かをし始めた。
数十秒、無言が続いた後に自分のスマートフォンは解放された。彼女は荷物をまとめて立ち上がる。
「またね」
それだけ言うと彼女は去っていった。
手元に残ったスマートフォンを見ると、新しい連絡先の欄に見覚えのない名前があった。アイコンは綺麗な夕焼けだ、考える必要も無い。彼女だ。
『紅月 灯音』
こうづき、あかね
どちらも赤じゃないか。ここで初めて彼女の名前を知った。
薄々気がついているとは思うが、彼女と自分の関わりは極めて希薄だ。
学生時代の思い出は先程話した2回の会話のみだし、交換した連絡先からの連絡1度だけ。
もっと言ってしまえば、彼女との接触は人生で3度しかない。連絡もその時に来たものだ。
だがその3度目が大きいのだ。
滅多に鳴らないスマートフォンが、けたたましく音を上げた。
その日は土曜日で予定もなく昼過ぎまで寝こける予定だったのだが、この音のせいで目を覚ました。時刻は朝7時半。
誰だか知らんが馬鹿なのか。寒さも相まって気分は最悪だ。
眠い目を擦り画面を見ると、見慣れない文字列が並んでいる。
『紅月 灯音』
「こうづき……はぁ!?」
眠気は彼方に飛び去った。何が起きてるか理解する前に応答ボタンを連打する。
「も、もしもし!」
上擦った。それでいて少しざらついた声が出た。しまった、水の1杯でも飲んでから出ればよかった……。今更だけど。
「もしもし?元気にしてた?」
「うん、まぁ、ぼちぼち。そっちは?」
「まぁまぁかな。30分後に会えない?場所は……喫茶紫暮で」
「え?わ、わかった。」
通話の終わりを告げる機械音がしばらくの間、耳元で鳴り響いていた。反射的に分かったと言ったが、分かった事等ひとつもなかった。
あの頃から3年……。思えば、彼女とは何故かいつも3年おきに出会っていた。
突然かかってきた電話、会おうという約束、変わらない彼女の声。会っていない空白の3年間に積もった想いが溢れ出すのは分かった。
今、自分には何も分からない。何故今になって彼女が声をかけてきたのかも、彼女の意図も何もかも。
ただこれだけは言えた。3年という月日が経った今でも、自分はどうしようもなく彼女に魅入られてる。
手早くシャワーを浴び、洗濯機の中から洗いたての黒いシャツと白のスキニーを取り出し身につける。そのまま洗面台の鏡の前で髪をサッと整え身支度を済ませた。久しぶりに想い人に会うのだ、お洒落のひとつでもしようかと思ったがやめた。柄ではないし、何より時間が無い。
机の上で退屈そうに自分を待っていた財布を後ろのポケットに入れ込み、スマートフォンを片手に鍵を取る。履き慣れたスニーカーを半ば引っ掛ける様にして家を飛び出した。鍵はちゃんと閉めた。
「おまたせ」
店内はまだ人も少なく……というか、むしろこの時間に店が空いてる事が驚きなのだが。客の少ない店内で彼女を見つけるのはそう難しくはなかった。
「ごめん、待った?」
「いや、全然」
初冬の寒さを切り裂くように走って、約束の時間のぎりぎりに喫茶店に飛び込んだが、そこに彼女はいなかった。
20分の遅刻を経て、大きなキャリーバッグを片手にした彼女は自分の前に現れた。これだけの荷物だ、遅刻の一つや二つ仕方ないだろう。
あぁ、先程の待った?というのは、彼女の台詞である。
「久しぶり、大人っぽくなったね」
「そっちはあまり変わりないね」
「ふふ、だめでしょ。女の子に久しぶりに会った時は『綺麗になったね』って言わないと」
「嫌だよ、そんなキザ男みたいな事」
嘘だ。変わってないなんて真っ赤な嘘。短いボブだった髪は伸び、肩に触れるほどの長さになっていた。整った顔立ちによく合う赤いリップは目眩を引き起こす。 彼女はあの頃よりも数段、美しくなっていた。変わらないのはよく手入れされた、陽の光に反射してきらきら光る髪だけ。
彼女はロイヤルミルクティーと野菜のたくさん入ったサンドイッチを注文した。自分はブラックコーヒーと卵のサンドイッチにした。
「ここ、美味しいんだよ」
「へぇ、そうなんだ。初めて来たよ」
またも自分は嘘をついた。ここは自分の行きつけの店……というか、彼女が好んでいたのを知って、通うようになった店だ。彼女は高校を出てすぐにこの街を出た。噂では東京へ行った、大阪や京都、果ては海外に留学したなんて話が飛び交っていたが、結局は誰も彼女の本当の行き先は知らなかった。まるで蜃気楼のように彼女は一人、自分の人生を歩みに行ったのだ。
「ところで……一体どうしたの?」
その大きな荷物も、自分に電話をかけてきたことも。そう続けたかったが、ちょうど頃合い悪く店員が注文の品を届けに来た。
コーヒーから漂う香気が鼻腔をくすぐる。慌てて家を出たから自分は今とんでもない薄着だった。店内がいくら暖かいといっても無理がある。落ち着いた高級感のあるカップに唇を寄せると、こわばっていた体が少し柔らかくなった。
ふと彼女を見ると、彼女もまたカップに唇を寄せようとしていた。ふっと優しく水面に息をかけ、熱気を帯びたミルクティーを口に含むとこくりと喉を鳴らす。それからカップのふちについたリップを優しくなでると、紙ナフで指先をぬぐった。
一連の動きが目を見張るほど耽美で、思わず目を逸らした。なぜか見つめるのが憚られる気持ちになったのだ。
「私ね、行くところがないの」
彼女は自分の顔をまっすぐにとらえた。
「……行くところがないの」
もう一度、自分に言い聞かせるように彼女は繰り返した。
「……荷物はそれだけ?」
「うん、これだけ。後は置いてきた」
どこに?と聞く勇気は自分にはなかった。本能が踏み込むなと告げていたから。
「貴方しか頼れる人がいなかったの」
「流石にうちに転がり込むのはまずんじゃないかな?」
「どうして?」
「どうもこうも……」
目の前にいるのは、君のことが好きなやつなんだぞ。
心の中で思った。口には、もちろん出さない。
「他に思いつかなかった、急に連絡したことは本当にごめんなさい」
「別に怒ってるわけじゃないんだよ、ただ少し、驚いただけで」
「貴方は」
彼女は言い淀んだ。
「貴方は?」
「……あなたは、優しいから」
それきり、彼女は黙ってしまった。少し俯いてサンドイッチをほおばっている。リスみたいだなぁと思った。
「……うちは豪邸じゃない」
「どういう事?」
「家政婦はいないし、温水プールもない。風呂は狭いし食事も……お世辞にも上手いとは言えないと思う。自分は火事が苦手だから」
料理に関してはからっきしだ。
「大柄の犬は飼ってないし、豪勢なシャンデリアはない。切れかけの豆電球が数個ならあるけどね。狭めのアパートだ、外見はまぁ……悪くはないかも?」
「悪くはないんだ。」
「もちろん車もない、庭はないしベランダから海は見えない。けど……」
「けど?」
「お姫様《きみ》が来れば、城くらいにはなるかもしれないね。」
頬杖をつき少しにやっとして見せた。それから気恥ずかしくなって誤魔化すようにサンドウィッチを頬張った。何を言ってるんだ。小説・映画好きが災いした。こういう時、急にキザなことを言ってしまうのが自分の悪い癖だ。
すると、彼女はふふっと笑った。
「なんだか、王子様みたい。」
王子様。繰り返した自分の顔は一体どんな表情だっただろう。
「散らかってるけど、どうぞ。」
他人を家に招き入れるのは初めてだった。それがまさか想い人だとも。
「お邪魔します。」
「あぁ、キャリーバッグ貸して。そうだな……部屋はここでいい?」
元々自分の寝室にしていた部屋を指さす。
「ここ、貴方の部屋でしょう?」
「そもそも自分の家だよ。気にしないで。」
「ありがとう」
彼女は微笑んだ。この笑顔を見せられると何でもしてしまうような気がする。
「部屋に置いておくね。それから少しこっちの部屋を片づけるから、ソファにでも座ってて。冷蔵庫の中は好きに漁って貰って大丈夫だから。」
「はーい」
キャリーバックを横向きに置き、さっと適当な布で車輪を拭く。
まぁ、そう綺麗好きでもないから自分は気にはしないのだけど、ここは一先ず彼女の部屋になるわけだから。そう思いつつ立ち上がって部屋を一瞥する。元から物は少ない方だからとっ散らかってはいないが、プライベートな物だけ片づけておくか。
仕事用の資料やパソコン、小説や映画のDVDそれから服だけを手に抱えてリビングの一部に移動した。彼女がいる間は大きめのかごにでも自分の物は入れておこうかな。
彼女はソファにちょこんと座ってスマートフォンをいじっていた。つまらない部屋の一角だけ空気が違う。
「片づけ……ってほどでもないけど、物の移動?終わったよ。」
「ごめんね、ありがとう」
「こっちきて。」
彼女を連れて先ほどの部屋に戻る。
「ここにコンセントがあるから。好きに使って大丈夫。後でリビングの方も教えるけど。」
「うん、わかった」
「それから枕もとの照明はここでオンオフができる。それから畳める小さい机がここにあるから、この部屋で飲み物飲んだりするとき使いたければ自由に出して。天井のライトのスイッチはここね。」
彼女はうんうんと頷いた。
「服とかはある?部屋着とか」
「あるだけは持ってきた」
「まぁ適当なシャツくらいなら貸せはするから、必要になったら言って。扉は鍵はないけど我慢してね、勿論ここはもう閉じっぱなしで大丈夫だから。じゃあ次リビング」
ぶっきらぼうすぎず、馴れ馴れしすぎないように。なるべく丁寧に話すように努めた。彼女を前にすると、どうにも緊張しておかしくなるから。
「リビングのコンセントはこことここ。テレビはリモコンここだから好きにみていいよ。冷蔵庫の中身は好きに食べて飲んでいいし、何か買ってきたら適当に入れて大丈夫。あぁ、食べられたくないものは名前書いといて、ペンはそこの棚の上。こっちがトイレ、こっちは風呂場と洗面所、そこがキッチン。洗濯物はそこの洗濯機で。洗う時声かけてくれれば使い方教える。こんなもんかな?」
「あ、近くにコンビニとかはある?」
「あぁ、あるよ。歩いて3分かからないくらいかな。君の足でも5分くらいでつくよ。行く?」
「ちょっとした小物買いたいな。」
「じゃあ行こうか。」
「ちょっと待ってね」
ぱたぱたと部屋に入っていく。手持ちのバックをもってまたぱたぱたと戻ってきた。
「じゃあ行こうか。」
彼女は風景を見るのが好きらしかった。きょろきょろと周りを見渡しては、あれが綺麗だ面白いとぼうっと眺めていた。猫を見つけてしゃがみこんだり、近所のおばさんが手入れしてるプランターをみて微笑んだり。見ていて飽きないなと思った。
コンビニにつくと彼女は歯ブラシや化粧水なんかを手に取っていた。
「シャンプーとか洗うものは家ので良ければ使っていいよ、買わないでいいから。」
「本当に?助かる」
「飲み物は大きいペットボトルを何本か買っていこうか。何が好き?」
「これと……これがいいな」
麦茶とミルクティーだった。
「お茶好きだね。」
「お茶で一括りにしたら、この子達怒るよ」
そういって彼女は可笑しそうに笑った。彼女はミルクティーが好き。頭の中にメモした。
「タオルとかも借りていいの?」
「もちろん、あるものは全部好きに使っていいよ。」
「じゃあこれだけでいいかな。」
レジに並ぶ。彼女はヒールを履いているから、自分と身長があまり変わらない。ほんの少しだけ自分の方が高いかな、程度。
至近距離に彼女の髪があるわけで、それにぐらりとくるのはこの世の摂理ではないかと思う。だがぐっとこらえる。彼女は今から自分の部屋の住民に……そう、今から一緒に暮らすわけなのだから。
そう改めて思い返すと突然焦りのようなものが生まれた。それもそうだ、冷静に考えてもみろ。ずっと好きだった人が、自分の家に転がり込んできたんだぞ?正気でいられるのだろうか自分は。否、正気を保つんだ。彼女には指一本触れないと心に誓った。
彼女は想い人であると同時に、自分の中で一種の女神のようなものであった。
それからの事は割愛しながら話すことにしよう。どうせ全ては語り切れない。彼女とは実に半年ほど一緒に暮らしたからだ。語るにはあまりに長すぎるし、語彙のない自分はただ惚気ることしかできない。
ただ断言しておこう。彼女には手を出していないし、そもそもそんな勇気はなかった。
極めて平凡に、純粋に、気の許せる友人として過ごしていた。
一度だけ仕事で上司にひどく怒られた日があった。それも取り分け理不尽な理由で。それなりに仕事に対してプライドを持っていたし、はっきり言ってしまえば自分はほぼ完璧に仕事をこなしていた。そう、ほぼ。自分の落ち度といえば一つだけだった。この上司は一癖も二癖もある人だという事実を失念していた事。
きっかけは些細な事だった。上司が作った資料に誤字があったので、本人にこっそり報告をした。面子というものを考慮して、あくまでこっそり。だが上司は部下に指摘されたことそのものが気に食わなかったようで、自分の仕事に難癖をつけ修正を要求。それに従って時間内に修正しきり会議に臨んだ。するとどうだ、その修正箇所に対し先方は難色を見せ順調だった会議はご破綻。部署に戻り上司は自分を叱りつけたわけだ。自分が出した修正だということは、他の人には伏せて。
素直に悔しかった。今までの努力を踏みにじられたような気さえした。自分より仕事のできない人間が、立場に物を言わせ自分を辱めているのがたまらなく腹が立った。
普段、彼女の前では常に努めて明るくいた。もとから明るい方であったが、なおさら暗い部分は出さないようにした。そんな所を見られるのは恥ずかしいし、彼女を困らせたくはなかったから。
だけどその日、彼女がおかえりと自分に微笑んだ瞬間、ぼろぼろと涙を零してしまった。
「どうした、どうした」
珍しくオロオロとする彼女が面白かった。そんな気持ちと裏腹に涙は止まらなかった。
「どうしたの、何かあったの?」
目の前まで小走りでやってきた彼女が少し背伸びして自分の頭をなでる。自分と同じ石鹸の香りがした。
「きょ、う、仕事で」
「うんうん」
途切れ途切れの不明瞭な自分の言葉を、彼女は一つ一つ丁寧に拾い上げてくれた。何が起きたのか、今どう思っているのか、どうしてそう思うのか、自分は頑張ったのにと子供のように話した。気が付くと自分は彼女に導かれてソファに座り、彼女が入れてくれたホットミルクを手にもって尚も話し続けていた。
「そっか、大変だったね」
「ごめん……こんな所、見せて」
「全然、むしろ安心した。貴方もちゃんと人間なんだなぁって」
「何それ」
「だって貴方はいつもきちんとしていて、笑顔で、それから酷く優しいんだもの。」
「褒められてしまった」
「褒めてしまった」
二人してけらけら笑った。それから一緒に映画を見た。彼女はそんなに映画は見ない人だったが、自分と暮らすようになってから洋画にハマったらしい。その日はシザーハンズを見た。二人でボロボロ泣いた。
彼女は慈愛に満ちていた。自分の事を優しいと度々表現したが、自分は彼女こそ優しい人だと思った。彼女は優しくて優しくて、怖くなる。
疲れて帰れば愚痴を聞いて励ましアドバイスをしてくれた。疲れて眠り込んでしまった日も次の日には皿は洗われシャツもアイロンがきいていた。休日はゆっくりと寝かせてくれたし、そうかと思えば自分を外にも連れ出してくれた。どこかに行くときは必ず自分に声をかけ、一緒に行かないかと言ってくれた。
家事をするのは好きだから、私が寂しいだけだから。優しいわけじゃないのと彼女は笑ったが、優しい人は自分のやさしさに気が付かないとは本当なのだなと思った。
彼女をより一層、大切に思わないわけがなかった。
彼女は泣くのだろうか?ここまで笑顔を印象的な彼女は、涙を流すのだろうか。映画に感動したのとは全く別の、彼女自身の感情の変動で涙することはあるのだろうか。
答えはイエスだった。彼女も一度だけ、自分の前で泣いたことがある。
家に帰ると、いつもは返ってくる「おかえり」の声がなかった。変わりに話し声が聞こえた。彼女はスマートフォンを耳に当てて何やら話していた。
自分の方を振り返った彼女ははっとして、すぐに電話を切った。
「ただいま、電話切らなくても良かったのに。」
「ううん、いいの。」
そこまで言うと彼女は押し黙った。自分はあえて何も言わなかった。
「着替えてくるね」
そう言って洗面所に向かおう後ろを向くと、背中を包むような感覚があった。
彼女が後ろから抱き着いていた。
「え、」
変な位置で腕をあげたまま動けなくなった。どうしようどうしようと慌てていると、背後から鼻をすする音が聞こえた。
泣いているのか?
腰あたりに回された彼女の腕を赤子をあやすようにぽんぽんと叩く。ぐすっという音が激しくなった。どうしたら良いのだろう。
「大丈夫?どうしたか聞いていい?」
彼女が首を振る。
「じゃあ何も聞かない。」
彼女が頷く。
「よーし、歩きます。」
抱き着いたままの彼女の手を優しく握りゆっくり歩く。
「むかで競争みたいだね」
くふっと彼女が笑った。自分も釣られて笑った。
「はい、火を使うので動かないように。」
そう言ってホットミルクの準備をした。動くときは全部口に出しながら。
「ゆっくりソファに行きます」
彼女はもう泣き止んでいた。泣き疲れてうとうとしているように思えた。
「座れる?」
彼女は頷いてソファに座った。湯たんぽの無くなった背中が少し寒い。
「熱いから気を付けてね」
「……ありがとう」
彼女の目は腫れぼったかった。思ってた以上に泣いていたんだな、と胸が痛んだ。だけど何も聞かなかった。彼女は聞いてくれる優しさがある。自分は聞かない優しさを持ちたかった。
ホットミルクを飲んで彼女は本格的に眠気に誘われていた。
「ここで寝ちゃってもいいよ、ご飯できたら起こすから。」
彼女は――ひょっとしたら半分寝ていただけなのかもしれないけれど――頷いた。
それから寝言のようにこう言った。
「やっぱり貴方は、優しい。」
自分と彼女はお互いに分かり合っていた。分かり合っていると思っていた。それが全くの勘違いだったと後に思い知らされるわけだが。
彼女が連絡をよこして半年と11日。その日は良く晴れた良い日だった。
扉の音で目が覚めた。彼女がコンビニにでも行ったのだろうと思ったが、何となく寝直す気にもならず起き上がった。
彼女が来てから閉め切られていた、彼女の部屋の扉が開いている。おや、と思って覗くとそこはもぬけの殻だった。
比喩や何かではなく本当に何も無かった。彼女のキャリーバッグも服も化粧道具も、彼女自身も。
彼女の部屋にある小さな折りたたみの机に、白い紙が1枚置いてあった。
『帰ります。今までありがとう、もう迷惑はかけません。』
目の前が真っ暗になるなんて現実にあるんだなぁと思った。
スマートフォンを手に取る。彼女の連絡先は消えていた。部屋には何一つ彼女の欠片は残っていない。
涙をぐっとこらえる。
それきり、彼女は戻ってこなかった。
そして今、彼女の欠片が手元にある。
結婚式の招待状。
隅の方に可愛らしい字で「良かったら式が始まる前に控え室に遊びに来てください」とあった。
招待状を裏返す。相手の男の名前に見覚えがあった。彼女のスマートフォンに電話をかけてきていた男だと気づいた。
ビールの炭酸が目にしみる。
こんな招待状でも、彼女が送ってきてくれたという事実にほんの少し喜びを感じてる自分に腹が立った。
生憎その日は予定もなく、自分は律儀にも出席する事にした。
誰かの結婚式なんて生まれて初めて参加する。着ていくものの調達やご祝儀、マナーの準備に追われた。
結婚式当日まで気持ちは少しも晴れなかった。
コンコン、と控えめにノックをした。
「どうぞ」
彼女の声がして自分はノブを捻る。
「来てくれたんだね」
彼女は眩しいくらいに笑った。真っ白なドレスに身を包んで、まるで女神のように。
「久しぶり」
「久しぶりだね、あの時は急にごめんね。」
「全然、そんな事より本当におめでとう。まさか結婚式に招待してもらえるなんて思わなかったから驚いた。」
「貴方にはとてもお世話になったから、当たり前なのに。」
あぁ、何て幸せそうな顔。
「いいね、そのドレスすごく似合ってるよ。」
「本当に?ありがとう。貴方も似合ってるよ、そのドレス。」
「そんな事ないよ。」
「ううん、とっても綺麗。でも貴方がスカートを履いてるの、初めて見たかも。」
ガチャっと音がして、新郎が入ってきた。すらっとした、俗に言うイケメンと言うやつだった。
「灯音、この方は?」
「この人は私の……」
彼女は自分の顔を一瞥した。瞳が美しい。
「大切な、女友達。」
「そっか。えっと……」
「青城、理桜です」
精一杯の笑顔で自己紹介をする。そう言えば彼女は、1度も自分の事をりさとは呼ばなかったなと思った。
「初めまして、今日はお越しいただきありがとうございます。」
「こちらこそ、お招き頂きありがとうございます。」
「邪魔して悪かったね、それじゃあ灯音また後で。」
そう言って部屋から出ていく。嫌味のない、紳士的な人だった。
「彼、素敵な人ね」
「ふふ、ありがとう。」
「……あの日、何で私に連絡したの?」
ずっと聞きたかったことが今はすんなりと言葉にできた。
「それは……きっと貴方は優しい人だと思ったから。」
「私、そんなに優しい人じゃないんだよ。君の方が優しいと思うよ。」
彼女はふっと微笑んだ。この期に及んで心臓がきゅっとなる。
「本当に貴方には感謝してる。あの時は彼と上手くいかなくて、つい家出をしたけど行くあてもなくて。貴方に拾ってもらって一緒に過ごしてる内に、このままじゃダメだなって気がつけたの。私を貴方が支えてくれたように、私も彼を支えたいって気がつけた。」
「そっか。」
「だから本当にありがとう」
目頭が熱くなって少しだけ彼女から目を逸らした。今の自分にはその白さが痛かった。
「……私、教室から綺麗な夕焼けが見えた日に君と出会えて良かったと思う。」
本心だった。それと同時に出会いたくなかったとも思っていたけれど。
彼女は私の顔をじっと見たあと少し照れながら言った。
「そんな事、あったっけ」
へへ、と笑う彼女に、自分は笑いかける事が出来なかった。いや、覚えていなくて当然だよなと思った。落ち着こうと静かに息を吸った。吐き出すとき、言葉が零れ落ちた。
「私、ずっと君の事が好きだった。」
時間が止まったような気がした。
しまった、そう思った時にはもう遅い。
消えてなくなりたい。言わないつもりだった。彼女の幸せに水を差すような真似をするつもりはなかったのに。ただ友人として祝福したかったのに。
泣きそうになる。
すると彼女はまたいつもの様に、ふっと微笑んだ。
「知ってたよ」
「……え?」
「貴方が私を好きなんじゃないかって、ずっと思ってたよ。」
「い、いつから」
「多分最初から?でも貴方は何も言わないと思ったから、私も黙ってたの。」
「そ、っか、」
「ごめんね、私は女の子とは付き合えないよ。きっと貴方にはもっと素敵な人がいる。」
ぐらりと、地面が揺れるような感覚に襲われた。
女の子だから?もっと素敵な人がいる?
好きな事、知ってたんだ。
「何で、私を此処によんだの?結婚式に、招待したの?」
「……そうすれば、分かってくれると思ったから。私は貴方をこれ以上傷つけたくなかった。」
頭ががんがんする、目眩が止まない。何だか喉が渇いたな、なんて呑気な事が頭に浮かんだ。
「そっか。」
「本当にごめんなさい。でも貴方の事は大切な友人だと思ってる。これからも仲良くしてね。」
「勿論、ありがとう。ちゃんと答えてくれて」
ふっと微笑んだ。その顔がどんな顔になったかは、自分では分からなかった。
「じゃあ、お邪魔しました。式、楽しみにしてる」
「うん、ありがとう」
「また後で」
扉をぐっと押し開けて、外に出る。扉を閉じる瞬間、彼女の顔が見えた。
美しく着飾った彼女の顔は慈愛に、いや、自愛に満ちていた。
そんなに、飾らないで。
扉の閉まる音で、潤んだ声はかき消された。
1人披露宴会場への廊下をふらふらと歩く。
招待客の中に知り合いは1人も居ない、正真正銘の孤独参加。
……彼女は私の気持ちを知っていたんだ。
どうして、どうしてそれを私に伝えてしまったんだろう。彼女の唯一の落ち度はそこだった。
待ち合わせに遅刻しても謝らない所、何も言わずに私を頼り居なくなったこと、私に優しく微笑みかけてるあの顔。見ないフリをしていた事実が頭を掠める。
彼女は、私の好意を利用していた。
ずっと前から分かっていた、少し都合よく使われていることは。でも好きだったから、優しい人だと思っていたから。気の所為だと思うようにしていたのに、今日すべて分かってしまった。
彼女は私の好意を知っていて、彼と上手くいかなくなった途端逃げ道に使った。彼の気を引くためだったかも知れない。不自由無い衣食住を手に入れて、自分を満たす為に私に優しく振舞った。彼が仲直りを求めてくると、さっと掌を返して去っていった。彼と結婚する為の踏み台にまでしたのだろう。
そして結婚が決まれば、私の好意は邪魔になる。そもそも、きっと女に好かれるなんて嫌だったのかも知れない。それは知らないけれど。
だからこうして、見せつけて、諦めさせる。
「傷つけたくなくて、か」
きっとそれは本心だろう。彼女は打算的に私を利用してる訳ではないと思う。きっと、無意識。無自覚。
フラれたことが苦しいんじゃない。
そんなの、自分が女だった時点で分かってはいた。
ただ、気がついてしまったんだ。
彼女は女神でもなんでもない。
優しい人だった。自分を満たす為に、優しさを持った人。
優しい、自愛に満ちた、ただの人間だった。
今の私は、笑えるくらい惨めだ。
式は素晴らしいものだった。ドレスはよく似合っていたし彼女は綺麗だったし。料理も美味しかった。
自分は一滴もアルコールを飲まなかった。酔えるような気分ではなかった。早く帰って冷蔵庫で冷やしたビールを呑みたいなぁとぼんやり考えていた。
式が終わったらそそくさと帰ろうと思っていたのだが、花嫁からのブーケトスがあると会場の人に引き留められてしまった。
10数人の女性客がポジション争いをしていた。自分は端の方で邪魔にならないように努めていた。皆そんなに幸せになりたいのだろうか、いやなりたいに決まっているよなぁ。
「いきまーす!」
彼女が笑顔で後ろを向き、ぽーんとブーケを空に放った。
綺麗な弧を描いてブーケは落下していく。綺麗なものだ。
ふっと、手元に重みがかかった。何が起きたか、ブーケは自分の手の中に上手いこと収まっていた。
「おめでとう!」
「おめでとー!」
周りの知らない人達から祝福の声があがる。
ブーケは、かすみ草と薄桃色のガーベラ、それから青いバラで作られていた。小さくて儚げでとても綺麗で。いつかの彼女のようだった。
彼女のいる方を見る。彼女は女神のような顔で微笑んでいた。
1歩、踏み出す。
慣れない高めのヒールがかつんとなる。それが心地よかった。
ブーケを両手に持ったまま彼女に近寄っていく。1歩ずつ、大切な日々を思い出すかのように。
大切な日々が零れないように、そして、今の気持ちが何年後も色褪せないよう、慎重に。
彼女は微笑みの中に少しだけキョトンとした顔をした。何か祝福の言葉をかけられるかもと思っているかもしれない。
かすみ草の花言葉は何だっけ?……そうだ、「清らかな心、無邪気」だったかな。薄桃色のガーベラは「崇高美」。そして青いバラは……
「奇跡、不可能。」
「ん?」
彼女の前に立ち微笑む。
「青いバラの花言葉。」
そう言って、彼女に口寄せた。
「幸せに」
彼女の唇からは、赤いリップが少しだけ取れていた。きっと自分の唇にうつったのだろう。
彼女も新郎もぽかんとしたまま何も言わなかった。招待客だけが沸き立っていた。
新郎さん、ごめんね。
「いきまーす!!!!」
ざわめく客人へ高らかに宣言して、私はブーケを高く高く投げた。
わっと一瞬なった後、その中の1人がブーケを受け取る。キラキラした目でブーケを見つめていた。
「おめでとう。」
小さく呟いた。
彼女の前から離れ会場を出るための階段を降りる。手にはブーケから抜き取った青いバラを1本だけ持って。
「りさ!」
遠く後ろから彼女の声が聞こえた。涙声に聞こえたのは気の所為だと思う事にした。振り返らずに、片手だけあげて答える。
空が青い、今日が過ぎていく。同じようだけど、昨日とはきっと違う今日が。
かくっと、体が浮いた。しまった、慣れないヒールで階段を降りるのに空なんて見る馬鹿があるか。
最後までダサいのかなぁ私は。そんな風に思って、襲い来るであろう衝撃に備え目を瞑る。
と、衝撃はいつまで経っても来なかった。
「大丈夫ですか?」
そろりと目を開けると、ヒールを履いた自分よりも背の高い男性に軽く抱きかかえられていた。
「怪我、してませんか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」
「良かった、せっかく綺麗な格好なんですから、お気をつけて。」
笑顔でそう言う男性。
私はふっと微笑んだ。徐々に微笑みは、ふふふっという笑いに変わる。
片手に持っていた青いバラを男性の胸ポケットに差し込んだ。
「ふふふ、ありがとうございました!」
少しだけ元気にそう言って階段を駆け下りた。
こんな所から恋は始まらない。私の9年は戻ってこない。彼女への失望は消えない。彼女が女神に戻る事はもうない。
そんなもんだろう、ここはドラマじゃないんだから。
明日からも変わらずに朝が来て、仕事へ行って、怒られて。疲れて帰って。何も上手くは行かない。誰にも愛してもらえない。認めてもらえない。居場所なんか分からない。毎日毎日だめだなぁ死にたいなぁなんて思うよ。
けれどたまに、本当にたまにだけど。
ビールが美味くて堪らなくて。大好きな映画や小説に沈みこんで。誰かに頑張ってるね、貴方は素敵だなんて言われて。生きるしかねぇなって。
今日で惨めな王子様は終わり。
明日からはただの自分に戻るんだ。
きっと、人生で1番辛いことは、好きだった人を嫌いになる事だと思う。大嫌いになんてなりたくない。失望なんてしたくない。大好きなあの人を大好きなままにしておきたくても、人生そうもいかないけどさ。
だって、好きだったんだよ。
苦しくても、大好きだった。
それを抱えて、私は明日も明後日も、1人で歩いてく。
零さないよう1歩ずつ。
惨めでも、何故かそうしたくなってしまう。
ほんのたまにだけ、この世界は私に優しいから。
まるで、自分勝手な、愛しい人のように。
今日は少しだけ、もう少しだけ泣こう。
それでまた平気なフリをして1人で生きていこう。
あぁ、本当に
ろくでもない話だよ。
2018.10執筆