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高天原の侵略 神々の降臨 ①

2020.10.26 07:33

http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html  【高天原の侵略 神々の降臨】 より

日本人はどこから来てどこへ行ったのか?原住民族のアイヌは沖縄と北海道に分かれたという。アマテラスは本当に皇室の祖先であったのか?古代氏族の多くは、朝鮮半島からの渡来の痕跡を残している。中国からの渡来氏族は南方系が多かったのか?高天原とは、古に実在した何処かの地名であったのか

神々の誕生・創世神話

古代の人々にとって神様は身近な存在であり、毎日の生活の中に神様が介在し共に暮らしていたといえる。古代に科学はなく分らない事は神様の行為として、困った事も神様に聞いていた。

地には地神水には水神、山には山神、海には海神、風には風の神様火にも火神鏡には神様が宿りありとあらゆる物に神様の概念が籠められていた。

現代では一笑に付される怪異現象もそのまま信じられ受け入れられていた。近くでは辺何時代の京都でさえ、人々は霊魂と一緒に暮らしていた。鬼が住み、菅原道真の怨霊が祟りをなしていた。

このため時の為政者は怨霊から護るため、寝ずの警護番士を立て一晩中かがり火を燃やして警戒していた。森羅万象には節理があり全ての物質には創造主がいると考えられていた。

宇宙の元となるその根源の神は即ち「天之御中主神」に寄託されている。 

 日本人のルーツ

日本の歴史はいつから始まったのか…アマテラス大神が生まれたときか?ニニギノミコトが降臨して来たときなのか、それとも地球がまだ混沌としていたときに生まれたアメノミナカヌシノミコトが現れたときなのか、はたまた神武天皇が東征に成功したときなのか…。

いまこの問いに答えられる人は居ないのではないか。宮内庁の陵墓要覧には、ニニギノミコトの墓は鹿児島にありと記されている。ではニニギノミコトの祖母であるアマテラスの墓は何所にあるか?

陵墓要覧には記載されていない。同様にアマテラスの子のアメノオシホミミノミコトの墓の記載もない。地上界に降臨したとされるニニギノミコトの墓が、一番最初に記されていて次に后・子の墓と、ニニギノミコトから歴代の天皇陵が連綿と記載されている。ニニギノミコト以前の祖先は、天上界に居る事になっているから記載できないのだろう。

「古事記」に天上界の唯一の地名として現れる「高天原」も、その説明は一切なされていない。おそらく天上界にある概念の世界なのだろう。或いは朝鮮などの海外にあるため、記載を憚ったのだろうか。

日本の最古の歴史書は「古事記」と「日本書紀」の二つしかない。古事記は上程された後、焚書扱いされていたのか、史上から姿を消していた。再び姿を現したのは200年ほども経ってからだ。

このため後世の作であるとか偽書扱いもされ、その序文は後から付加されたものであるとか、いや序文だけは信憑性があるとかの議論も闘わされた。しかし近世この偽書説はすっかり影を潜めている。

古事記の編纂に関わり、その序文を上梓した太安万侶の墓とおぼしき遺跡が見つかり、安麻呂の名前入りの墓誌が発掘された事も影響を与えたのだろう。

古事記・書紀に書かれている神話・出来事は、現代世界ではあり得ない出来事も多く記されている。これらの伝承・説話は一体何を物語っているのか。只の伝説なのか荒唐無稽の話を参考までに紹介したのだろうか。

それとも何らかの真実があり、それを元にして編集・脚色したものなのか。そうであれば数ある説話の中から僅かの真実・史実を知りたい欲求に駆られる。

日本各地の古い神社には多くの古文書が伝わっている。これ等は多いに参考になるものだが、その縁起書などの多くは古事記或いは日本書紀の記述を踏襲したり抜粋したりして作成されているようだ。

即ち記・紀以前の記録はないかの如くだ。

アマテラスは実在したのか。別の名前はあったのか。男だったのか女だったのか。タカミムスビノミコトとの関係は。高天原は何所か。出雲の国譲りはあったのか。ヤマタノオロチとは何なのか。大国主命はスサノオノミコトの子供だったのか。神武東征はあったのか。邪馬台国は何所か。

これ等の答えを探し続けて、今は二十有余年の歳月が流れ去った。様々な書籍を読み漁り、学者の論文、関係資料を渉猟した。一冊の本を読むとその関連資料のタイトルが載っている、または巻末に参考文献が載っている。これ等を目に付く限り収集して読み尽くした、否これ等の文献・資料には文字通り際限がない。事ここに至っては一区切りつける時が来たと思える。そして集大成として、この思いを著すべくペンを執る日がやって来たようだ。

日本の起源と記・紀

古事記・日本書紀に語られる日本の起源を示す説話の多くは不可思議な内容に満ちている。一体日本の古からの歴史が、ありもしないようなおとぎ話のような形で語られたままで良いのだろうか。

日本の歴史はどこから、そしていつ始まったのか。日本の民俗、統率者は誰であったのか、そしてどこからやってきたのか。いまだに百家争鳴で、だれがどんな説を唱えても、それはそれでありうるかもしれないこととして通ってしまう。即ち、その新説を完全には否定できないからである。

否定する材料が限りなく少ないのである。アマテラスなる女神が本当に天皇家の祖先であるのか。神武天皇は実在の人物であるか。邪馬台国はどこにあったのか。大国主の説話はどこまで信じられるのか。

世界一ともいわれる仁徳天皇陵(大山古墳)の、巨大な古墳に祀られているのはいったい誰なのか。二十一世紀になっても分からないことだらけである。

今日では日本書紀は藤原不比等が中心になって編纂されたという説が有力なものになっている。

日本の歴史書は「日本書紀」とされているが、実は古の公文書には「日本書紀」という書名は現われていない。他の国史史料や「続日本紀」にも「日本紀」と記されている。この「日本紀」なる書は今に伝わっていない。現在「日本書紀」と「日本紀」は同じものとされているが、この見解は完全に定着したものではなく異論や所説が提起されている。

初めて「日本書紀」の名前が現われるのは、738年成立の公式令集解の古記である。「日本書紀」は720年の完成とされているが、その後のかなり後世の記事も幾つか掲載されている。

歴代天皇の諡を選定したとされる淡海御船は、721年生まれであり紀が成立した翌年の生まれである事も大きな謎になっている。

天武天皇が681年に国史撰修の詔勅を出し、これにより川島皇子や中臣の連大島、平群臣子首などによって「帝紀」「上古諸事」が成立した。日本書紀の原資料となったのは他に、各氏族の墓記、寺院の縁起、芸文類聚、百済記、百済新撰、百済本記などである。

日本書紀には系図一巻が付属していたが、いつの間にかその貴重な史料は失われてしまった。薗田香融は日本書紀には系譜の説明が全くない人物が、4人いるがそれは添付の系図を見れば明らかなので本文上では説明しなかったとみている。またその4人・葛城高額姫などの人物は古事記に系譜が記されており、分からなかったのではなく説明する必要がなかったと受け取れるとしている。

平安時代に「新撰姓氏録」が成立したことにより、一巻の系図が自氏にとって不都合なものとなった、藤原氏によって焚書が行われたと想定できると示唆している。

日本書紀は漢文体で書かれている為に、どこに返り点をつけるかで意味が違ってくる上に、当て字が多く別の意味に捉えられている部分があるかもしれない。これに対して古事記は、一音一文字で書かれていてカナや読み方の記載があり、当時の言葉の発音がはっきり分かる利便性がある。

日本書紀は古事記にしか見られない歌謡を、引用しているところから古事記をも参考にしたとみられる。梅原猛は古事記・日本書紀とも宗教書であり、思想書であるとする。古事記も不比等が中心となって作られたと推定している。

日本書紀の資料になった古書の一つに「日本世紀」がある。同書の著者は高句麗の僧・道顕であり、日本の対外関係の記事を収録していたとみられるが、完本は残されていない。同書の成立は七世紀後半と見られる。

古事記について三谷栄一は持統から元明へ、女帝から女帝へと受け継がれたものといっている。古事記は712年の成立であるが、原本は伝わっておらず最も古い写本は14世紀の後半とされている。

古事記は天皇家に伝わる物語を、記録しておく私的な物語集であった、と言うのは武光誠である。

その為、なるべく多くの神々の話を取り上げている。日本書紀は天皇家中心の朝廷の、公式の歴史として作られたとも述べている。

また古事記は百済系の新撰姓氏録に対して、多人長が反発して812年頃に書いたとする説もある。(近江雅和)紀・記を編纂するにあたっての、原資料となった「帝紀」や「旧辞」「墓記」などの元資料が紀・紀の完成とともに姿を消していることも不審な事である。

 そもそも紀が日本の紀年を120年繰り上げたり、脚色をしたり、事実とは違う記事を載せていることが疑念を挟む元になったのではないか。後年の史家や研究者には分からないだろうと思ってしたことなのか。

 だとしたら、それはあまりにも浅はかでお粗末としか言いようがない。「神」と書いてあるところは「人」に置き換えて読めば済む。記の語る天皇の長大な年齢は、1年を春と秋で区切り、2年と数える二倍年齢とみればこれも収まる。

 記の歴代天皇の崩年干支表を見ると全てが月の前半になっている。後半に亡くなった天皇はいないのである。このことは、一か月は15日で形成されていたことを窺わせる。

 古田武彦はパラオやインドネシアには、1年を2年として生活する習俗があるという。会計年度の上期、下期や、盆と正月の長期休暇、夏冬に出す葉書は二倍年暦の痕跡で、明確な証拠は6月と12月に行われる大祓の祝詞に現れていると述べている。

 伊藤真二の「天皇崩年干支の謎」は、「周易」や「陰陽五行」「九星原理」などを詳細に論述している恐ろしく難解な論文である。記の序文には周易でしか使わない言葉がある他、易経や陰陽五行の字句が色濃く反映されている。

伊藤はこの論文で記の天皇の崩年干支は、陰陽によって割り出された数字であるとしている。ちなみに伊藤は記と紀の死亡年月日が違っている事から、両書はそれぞれ別の原資料によって編纂されたと言っている。(東アジアの古代文化)

 出てくるたびに名前の変わり、表記文字までもが変わる神々。そして何世代も超えて再び現れる神は、どう解釈したらよいのか。

 歴代の天皇は持統天皇と明治天皇のほかには伊勢神宮に参拝していない。(神皇正統記では聖武天皇が伊勢に行幸している。)持統の場合は前代の天智が伊勢の斎王を決めたり、国史の編纂を指示したことによるものであろう。

 明治天皇は時の政府方針で天皇は現人神で絶対犯すべからず神聖なものとして思想教育されたことで参拝の必要に迫られたのであろう。してみると125人もの歴代の天皇は伊勢神宮に参拝していない。

 この事実は必然的にアマテラスを祖先として仰いでいないということになる。大嘗祭の主神は高御産巣日神である。

 国宝の「海部氏系図」を擁し有名になった、籠神社の先代宮司が著した「神台並上代系譜略図記」には、「アマテラス大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とある。アマテラスは人格神ではなく、アラハバキ神であると断定している。(記紀解体)あるいはそうかもしれないが、だとしたらロマンのないことこの上もない。アマテラスは夫もなく神秘的な影が漂っている。処女で懐胎したイエスの母マリアのイメージも付きまとう。

 シャーマンであったが、侵略の指示を出したりもする。そして天下りの頃を境に方針を出すのは、パートナーと見られる高木の神に変わってくる。こうした論理が一貫していないところが、また神話たる所以でもありこれがために却って真実味を持たせる効果を生んでいる。

 アマテラスを祀る神社が少ないことも、また大きな謎を秘めている。全国著名神社151社中、アマテラスを祭神とするのは8社だけで伊邪那岐の9社よりも少ない。ちなみに大巳貴・大国主を祀る神社は17社に上る。

 古事記偽書説では記に出てくる国名が後世の造作とされていたが、藤原宮跡より多数の木簡が発見され、これにより対比するとそのほとんどが大宝前後の古い表記であることが証明された。

 紀のそれよりも一段階古い形を存していることが明らかになり偽書説の成立し難い一論拠となる。記と紀の関係をみるに神功皇后の段などを対比すると、両書は親子関係ではなく、兄弟或いは従兄弟の関係のように、並列の関係で結ばれている。

九州地方の古風土記には表記などから甲類、乙類とその他の第三類があるとされている。

この三文献はそれぞれ成立時期が少しずれている。古い乙類風土記は紀の編纂の際に参照されたとする説がある。

しかし乙類は甲類より古い物の紀以前の成立の証拠はなく、いずれが何れに拠ったという性質のものではない。国家的見地と地方所伝の立場から編纂目的と態度を異にしており、両者に直接の交渉はない。(田中卓・古典籍と史料)

また古田武彦は古事記の内容は原初的、本来的真実性を持つことが数々の面から裏書きされているという。更に国語学上の甲類乙類の表音表記が、七・八世紀以前の特徴を十二分に備えていると述べている。

記・紀編纂の主な原資料となったのは「帝紀」と「旧事」である。帝紀には歴代天皇の名前、皇居、妃、子供の名前とその御代の重大事件が記されていたとされる。旧事には、神話や天皇の言動に関わる物語が記されていたとみられる。

言語と習俗から辿る日本人の故郷

 言語学者の大野晋は日本人の祖先はインド南部のドラヴィダ語族タミル人が、南シナ海から対馬海流に乗り、北九州と南朝鮮にやってきたと推測している。

ドラヴィダ語の文法は日本語と同じ構造で、日本語とそっくりの単語がいっぱいある。米に関してだけでも糠、粥、餅などの対応語があり、長歌や短歌の形式もある。1月15日には赤い米を炊いてそのお粥を食べる風習は日本と同じで、小正月の行事や冠婚葬祭なども日本とそっくりという。

 日本語は母音終わりでハワイ語やポリネシア語と同じ、縄文期にまずこの言葉が入って来て、後にタミル語が到来しヤマト言葉が生まれたとしている。このタミル人は稲作と鉄・機織りを持ってきた。

 ユダヤの失われた十支族が中央アジア・ビルマなどを経て、日本にやってきたと説く論者もいる。ユダヤの菊の紋章は皇室と同じという。更に、日本にはヘブライ語を語源とする言葉が千二百語以上あるとも言う。中には日本語の発音そのままの地名や人名もあるとしている。(天皇家とユダヤ人)

 宇野正美は騎馬民族の「スキタイ」が古代ユダヤ人を連れて来たと言っている。王朝の始祖ダビデの孫の時にイスラエルは分裂し、十部族の北朝・イスラエルと二部族の南朝・ユダの二国になった。後にイスラエルはスキタイに滅ぼされ、十部族は日本の東北地方に導かれた。東北には今もスキタイの遺跡・環状列石が多く残っていると論じている。

 従来日本語はアルタイ語系とされてきたが、文法構造が似ているだけで対応語がないが、タミル語はこの条件を満たした、とも言っている。長田夏樹は日朝両語は同系列であり、共にアルタイ語に属していると説く。主語と述語、修飾語と被修飾語の語順が一致している他、「てにをは」から派生した名詞・動詞が類似している。日朝両語には母音調和が見られ、基礎語彙に同源語が多いと述べている。更に詳しい日朝語の対応表なども示しているが、門外漢から見ると同じ発音のものはないように思われる。

 日本語について、幾つもの著書を持っている金田一春彦は上代には八つの母音があった。日本語アルタイ語同源説は、母音調和が見出されないのが弱点とされていると述べている。そして日本語は琉球語を除いて、他に全然類似の言語を持たない孤立した言語であるという。日本語と同じ語順を持つのは朝鮮語、満州語、現代蒙古語、アイヌ語であり、アルタイ諸語は連体詞の使い方が違うと言っている。

森博達は漢音と呉音では呉音の方が日本語によく溶け込んでいるという。

 古事記や万葉集は呉音系で日本書紀だけは漢音である。また呉音より古い古韓音も残っていて、埼玉稲荷山の鉄剣銘の仮名がそれであると論じている。このほか森は文武・元明朝での国史撰述の担当者を挙げるなら、山田史御方が随一の候補であるという。日本書紀の巻十四からの述作は続守言が担当し、巻二十四からは薩弘恪が担当し、巻三十の撰述は紀清人が担当したとしている。

 森は三宅臣藤麻呂が全巻にわたって、漢籍による潤色を加え若干の記事を加筆したと述べている。

 三品彰英は神話は直線的に歴史を語るものではないと言い、日本列島の原住民は南方系の民俗が主体であったと想定している。松本清張もこれに賛同し、この民族を制圧して占拠したのが朝鮮系移住民である。

次にこの朝鮮系移住民を居住地帯・土地勢力を分断して大和を占領したのが、後来の北方系朝鮮氏族(夫余族)であると述べている。

 前二世紀頃に満洲の中央付近にあった「夫余国」の習俗は、人が死ぬと連日宴会を催したり、兄が死ぬと弟が兄嫁と結婚するなど日本と非常によく似ている。この夫余から一派が高句麗へ入り、始祖王の朱蒙となった。

 朱蒙が夫余を去る時に母は五穀の種を与えたが、朱蒙が麦の種を忘れたために母は鳩となって届けたという。これは母のアマテラスが押穂耳に、斎庭の穂を与えた話と同じである。

 高句麗の王氏高麗の八関祭は十月に盛大に行われる、収穫祭であり王が封冊を受けた時に大祭を行う王の即位と結びついた際儀である。このような日本の大嘗祭と同じく、収穫祭が王の即位式でもあるというのは日本と高句麗だけである。また八関祭は死者の霊祭りでもあり、朱蒙は穀物起源神話を持っている。(日本人とは何か)

 ここまで似ていると「夫余国」や高句麗が、日本の神話・伝承や文化に影響をもたらしている事は否定できない。

 魏志によると「夫余国」と倭人の習俗は似ているが、高句麗と倭人はあまり似ていないという。だがその王権文化は多くの共通点を持っている。「夫余国」を母国とする人たちが日本へも来ていたのだろう。

 「魏書」に「百済国はその先、夫余より出ず。」とあり、百済王は夫余国の王子とされている。夫余の東明王の神話は、百済の神話とその内容において殆ど同じものである。高句麗の朱蒙の神話は詳しく物語風になっているが、大筋では夫余と百済のものと同じである。

 中国の雲南州の人々の顔立ちは、日本人とそっくりと言われその風俗もまた似ているという。村の入り口には木造りの門を建てる。アカ族は門に注連縄をはり、拉祜族は道の両側に立つ木に鬼の目を付けた注連縄をかけ渡す。

 この鬼の目を付けた注連縄を張る習慣は奈良・滋賀・三重に多く見られる。また韓国でも陰暦正月には、村の入り口に注連縄が張り渡される。この注連縄の習俗は北緯三十八度線の北側には見られない。(古代朝鮮と倭族)

 考古学の成果からは、中国の東北部に現れた支石墓が南下して朝鮮に伝わり、対馬に伝わり北九州にも弥生期に伝わったとされる。

神々の誕生・創世神話

 古代の人々にとって神様は身近な存在であり、毎日の生活の中に神様が介在し共に暮らしていたといえる。古代に科学はなく分らない事は神様の行為として、困った事も神様に聞いていた。

 地には地神、水には水神、山には山神、海には海神、風には風の神様、火にも火神、鏡にも神様が宿り、ありとあらゆる物に神様の概念が籠められていた。

 現代では一笑に付される怪異現象もそのまま信じられ受け入れられていた。近くでは平安時代の京都でさえ、人々は霊魂と一緒に暮らしていた。鬼が住み、菅原道真の怨霊が祟りをなしていた。

 このため時の為政者は怨霊から護るため、寝ずの警護番士を立てて一晩中かがり火を燃やして警戒していた。森羅万象には節理があり全ての物質には創造主がいると考えられていた。宇宙の元となるその根源の神は即ち「天之御中主神」に寄託されている。

 神道教理にあっては天之御中主神と国常立神、御食津神(ウカノミタマ)は、いずれも豊受大神の別名・同神とされている。

更に天之御中主神と国常立神は大元尊神と同一であるという。大元尊神とはアラハバキ神を指しているらしい。「高天原」という言葉は記・紀編纂者が勝手に作ったのではない。

天日明系、富氏系、宇佐氏系とそれぞれに出所を異にする伝承が、一様に高天原を伝えているのはその言葉が初めからあったからである。高天原とはアラビア語でタカマアハラアで、聖地の上空にある神の家という意味である。(記紀解体)

高天原を大和の葛城山、金剛山の一帯という人もいる。これらの山を高天山と呼び、山麓には葛城族が住んでいた。奈良市には今も高天町の地名がある。

 宇佐家の伝承では、高御産巣日神系が原日本民族の北方系で、神産巣日神系が南方系であるとしている。

 天之御中主神を祀っている神社がない事から、武光誠は内陸アジア系の人々が日本に移住した比較的新しい時期に、天之御中主神の観念が持ち込まれたと考えられると述べている。

  新編古事記

 天と地が分れ生成された時、天上界・高天原に初めて神が生まれた。世界の根源を創造した概念の神様でその名を天之御中主神と呼ばれた。

 次に姿を現したのは生産の神様、高御産巣日神と神産巣日神である。この二神は天神系出雲系とも言われる。

 この三神は独り神で何時の間にか姿を消し、その系譜は伝わっていない。

 国土は固まらず、さながら油が浮いてクラゲが漂っている如き時代に、葦の芽が出るように誕生したのは、カビの化身・宇摩志阿斯可備比古遅神である。(初めての生物誕生を思わせる。)

 次に永遠の拠り所を包含した天之常立神が現れ、いつしか姿を消し足跡は残していない。

 神世七代 神皇正統記

 多くの神様はペアで語られている。中国のあらゆる世界の二物は陰と陽から成り立っているという思想・中国の陰陽道の影響を垣間見ることが出来る。天之御中主神は世界の中心であるとされ、高御産巣日神と神産巣日神はさながら山と海の生産を象徴としているのか。

宇摩志阿斯可備比古遅神と豊雲野神は地と空の神。天之常立神と国之常立神が天上地上の神、宇比地邇神と須比智邇神は土と石を表しているか。角杙神と活杙神は稲作に必要となる水路を作る様々な杭のようでもある。

意富斗能地神と大斗乃弁神は大地の男女神。於母陀流神と阿夜可志古泥神は湿地帯が生産に適した耕作地へと変化していく状況を表しているようだ。伊邪那岐神は伊邪那美神はアダムとイヴ、人類の始祖そして自然の創造主として語られている。これらの思想の下敷きには陰陽五行説が垣間見えている。

 井上光貞は古事記と日本書紀は皇室の系図「帝紀」と昔物語「旧辞」とを典拠として作られたとする。津田左右吉は帝紀と旧辞は、六世紀半ばの継体天皇の頃に作られたとする。帝紀と旧辞は残念ながら原本はおろか写本も今に伝わっていない。両書が現在に伝わっていたなら、現在様々に論じられている神話・歴史ストーリーがかなり変っていたと思われる。

神皇正統記は後醍醐天皇に仕え、大納言をも務めた公卿の北畠親房の著述である。神代からの歴史を解きあかし後村上天皇までを記述している。従って14世紀中頃の成立となろうか。著者は折に触れて中国の歴史を織りまぜて、豊富なボキャブラリーで文章を構成している。時には神道や仏教を取り上げると共に、人の道の在るべき姿をも説いている。

一見すると名文を弄しているように見受けるが、その状況説明においてナレーションのような口ぶりからは、平家物語を彷彿とさせるものがある。その立場からか北朝の天皇は歴代天皇の中に入れていない。一番多くのページを割いているのは後醍醐天皇である。記・紀や旧事本記、古語拾遺の記事にも少し触れているが、多くは独自の資料によっているとみられる。

神皇正統記は国之常立神の次に現れた五神は木・火・土・金・水の五行の徳を表したものであるから、全て国之常立神の事であるという。国之常立神のまたの名は天の御中主で、その子が高皇産霊、神皇産霊、津速産霊であるとしている

  新編古事記 

 次に国を作る国之常立神、空を形成する豊雲野神が誕生した。この二神は独り神で足跡は不明のままやがて消えていった。

(独り神はここまでで次からはペアの神の誕生が続く。)

次に地上を形成する土の神、宇比地邇神とその妹須比智邇神が誕生した。

 更に水路を形づくる角杙神、その妹活杙神が生まれた。次に住居の守り神、意富斗能地神その妹大斗乃弁神が生まれた。

 次に於母陀流神その妹阿夜可志古泥神が生まれ、次に国産みの神が誕生する。すなわち伊邪那岐神その妹伊邪那美神が生まれた。

以上の神を神世七代という

   国之常立神、

   豊雲野神

宇比地邇神  須比智邇神 

   角杙神    活杙神  

   意富斗能地神 大斗乃弁神 

   於母陀流神  阿夜可志古泥神

   伊邪那岐神  伊邪那美神 

 (以上の神を神世七代といい、これ等十二神で神の世界を構成する。その前の創世神話に登場する五神は神の世界から外れている。従って自然現象を写した自然神であったのだろう。)

  国生み神話

 伊邪那岐は鉾を持っていた。この事から伊邪那岐が比較的新しい神様だったと理解できる。この矛は恐らく銅矛を想定していると思われるが、鉄の矛であればさらに時代はくだって弥生後期くらいを推定する事が可能になってくる。

田中卓はこの国生み神話を、禊祓いの行われる難波の八十嶋祭と関係づけて考えている。仁徳天皇が磐之姫が亡くなった時に難波の津で禊祓いした形跡があり、淀川の河口には八十嶋と呼ばれる大小の島々がある。

更に仁徳天皇の歌に於能碁呂島の名がみえることから推敲している。古は海水が凝り固まって塩ができ、島もそのようにして出来たと想像していたのだろうか。少なくとも関連付けを意図しているように受取れる。

 常識的に考えると一番最初に覇権を確立した島、或いは支配者の出身地を最初に生んだとするのが順当であるがここではそうはなっていない。宮を建てて住んだとあれば尚更である。

しかし一番最初に出来たとされる於能碁呂島は重要な島である。何故最初に出来たのが於能碁呂島なのか場所は何所なのか。その所在地は今瀬戸内海説と北九州説がある。瀬戸内海説には淡路島の東南の友ヶ島とする説があり、この場合重要な島になってくるのが淡路島である。

ここの神話は淡路島に伝わっていた神話・伝承から採用したとみられるが、祭祀跡や遺跡などの裏付けが必要になってくるであろう。伊邪那岐の墓(祀られている所)は紀では淡路島とあり、記では「淡海」(路)とあるがこれも淡路島であろう。淡路島には近世創建のおのごろ島神社があり、そこには天の浮橋と伝えられる黒い岩がある。

於能碁呂島の表記を「自凝島」ととるか「御能碁呂島」と解釈するかによっても、その比定の位置が変わってくるようだ。「自凝島」とすると意味が通り過ぎて後世の付会のように見えてくる。

地名は固有名詞であり、意味のわからない、当て字のようなものが多いことから「御能碁呂島」の方が古い伝承を伝えているようだ。

古田武彦は於能碁呂島を博多湾内の能古島に比定している。伊邪那岐が途中経過を言わずに天下っていることから、天国(実は海人国)の領域外でしかも近接している場所であることは明らかである。於能碁呂島の於「お」は接頭語で呂は地名接尾語であるから、固有の地名は「のこのしま」であると説明している。

また淡島は淡路島ではなく、瀬戸内海の小島であるとするのが一般的な解釈である。その理由は四国を産む前に産んだという、淡路之穂之狭別島を現在の淡路島と考えるからである。もしその通りとするならばこの段の神話は瀬戸内海・淡路島の神話を挿入したといえるかもしれない。

淡路島には伊佐奈岐神社があり、今も阿万(アマ)という地名がある。日本神話にはすべからく天の浮橋、天の沼矛、天の御柱、天神など天の○○という言葉が往々にして出てくる。「天の…」は地名や部族名を表しているようだ。

「天の安河」「天の浮橋」という言葉をみると明らかに「あま」という地名のことをさしている。「高天原」という地名は「天の台地(原)」に、尊称としての「高」を冠したのであろう。

ちなみに古田武彦は、高天原を対馬海流圏の島々と見なして「天国」として中心地を対馬に比定し、同島をアマテ伊邪那岐ラスの誕生地としている。

「天の沼矛」は「天(あま)」に住む大氏族が、使っている特殊の矛・沼矛という意味にとれる。天の宇受売命や天の手力男命の「あま」は地名と同化しているものであろう。

西方から中央に進出してきた「海人族」の「あま」が源になっていると推考される。高天原はどこかに実在した地名・土地を指しているのではなく、イメージを具現化したものと思われる。田中卓は天孫降臨と、天の岩戸隠れの神話には丹波が深く関係していると論じている。

 丹波には比冶の真名井や藤神社があり、その地の御食津神、等由気太神が外宮に祀られた。峰山町の足占山の山頂の池が麻奈井と思われ、そこからは天の橋立てや久美浜までが一望できる。

 天の石戸別神を祀る大社の櫛石窓神社も、丹波国多紀郡にあり大宮売神(古語拾遺)を祀る大社の大宮売神社も丹波国丹波郡にある。仮に高天原が丹波ならば、天の香具山から殖土を取ってくることもさほど難しくはなかった筈である。比冶の真名井からは、天の真名井を連想させられるが天の真名井は北九州にもある。

 

 新編古事記

 高天原を支配していた神々(権力者)たちは、伊邪那岐神・伊邪那美神両神に、小勢力の混在で不安定な近隣国を配下に治めよと指示をくだした。

 これにより両神は天の浮橋の近くに陣取り、鉾の威力に物を言わせて諸勢力を配下に組み入れた。

 これを於能碁呂島と名づけ、そこに太い柱を使い広い住いを建て拠点とした。

 聖婚説話

 イザナギとイザナミの結婚は、古くは兄弟婚や肉親間での婚姻もあったので、さして奇異なことではない。このアダムとイヴ系の神話は日本のみならず、インドネシアやインド、東南アジアなどによく似た神話が伝わっている。

茂在寅男は古代ポリネシア語に、「イサナギ」「イサナミ」という言葉があるとしている。

 古代人の主流をなす種族は、縄文時代に江南や東南アジア等からの南方から、稲作技術を持って日本に渡ってきたと考えるのが自然の成り行きというものであろうか。

水蛭子は不具者説のほかに、日女(ひるめ)に対する日子(ひるこ)であるとする論者がいる。

 大倭氏の伝承を物語る大倭神社註進状には、椎根津彦が難波で釣りをしていると磐樟舟が流れてきたので、これを迎え蛭子のご神体として奉祭したとある。即ち広田西宮良殿がそれである。

 難波の海は淡路島の付近と考えられ、古事記の所説と大倭氏の家伝は一致する。椎根津彦は畿内に原住するオオナムチ系の氏族で、西宮付近を中心に大阪湾から明石海峡に勢力を張っていた海部の首長であったと考える。

後代のニギハヤヒノミコトが天下ったのは河内とされている事も考えると、ニギハヤヒノミコトのことをここで蛭子と言っているのだろう。蛭子が流されたのはニニギノミコトの、天孫降臨の前であると記・紀ともに記しているところである。ニギとハヤは美称で「ヒ」(ヒル)が名前であろう。

蛭子を「御子」の数に入れなかったのは、数に入れると天孫系の主流が物部氏に移ってしまうからではなかったか。(田中卓・神話と史実)

 似たような話が「名八幡宇佐神宮託宣集」に載っている。次に要点を紹介する。

    大隅宮縁起中に云う、陳大王の娘大比留女七歳にして懐妊、九か月を経て子を産む、天子・王臣が怪しみ問い正すと交接はなく夢を見ただけという、生まれた子が二歳の時に誰かと問うと、我が名は八幡と答えたという。

    三四年後に親子ともに空舟に乗せて流した。この舟は大隅の磯岸に着いた。そこを八幡崎という。

    武光誠は「日本神話と神々の謎」の中で沖縄の「オトジチョ」という悪神を流す話を紹介している。日神の子にやくざ者がいて、田畑を荒らすので根の国に送ったという。

 蛭子は全く抹殺された訳ではなく、今も徳島県の蛭子神社や福岡県の麻氏良布神社に祭られている。また蛭子すなわちスサノオであるとする説は、泉谷康夫などに見られる。

 

 新編古事記

 伊邪那岐神は妹の伊邪那美神に聞く。あなたの体はどうなっている。伊邪那美は答えて体は成長してきたが一箇所なりあわない所がある。

 伊邪那岐は自分の体は成長を遂げ、なりあまる所が一箇所ある、そのあまりたる所をそなたのなりあわぬ所に塞いで国を生みたいと思うと言った。

 伊邪那美も承知し、天の御柱を回り、出会った所で交接する事を約束した。伊邪那岐は右から回り伊邪那美は左から回り始めた。出合ったところで伊邪那美は「まあ何と素敵な人」と言った

 伊邪那岐は「やあ素敵な人」と言った。次に伊邪那岐は女人から先に物言うのは良くないと言った。そして交わい、生まれた子、水蛭子は葦船に入れて流して捨てた。次に淡島を生んだがこれも子の数には入れなかった。

 (流産したものか或いは奇形児だったのだろうか、どちらにしてもありがちなことではある。水蛭子(敵)と淡島の攻略には失敗した事を物語っているのだろうか。)

 大八島生成

 出雲風土記では、八束水臣津野命が国引きによって出雲の国を整えたとある。この国つくりをした重要な人物八束水臣津野命は古事記には登場しない。代わりに於美豆奴神の記載があるが同一人物であろう。

 於美豆奴神はスサノオの四世の孫であり、大国主の祖父に当る人物である。耳で聞いた音は漢字に置き換えるときに、人によって選択する文字が微妙に変わる故である。 

 井上光貞はこの国産み神話を、政治的な国土とそれを支配する大和朝廷の祖神を生む物語であり、政治的な意味を持つものとしている。

 更に西部の本の古代文化が北方よりも、太平洋諸島や東南アジアの文化に多くの共通点を持っている他、習俗や考古学上の事実からも同じことがいえると論じている。

 森浩一は二神が生み出したこれら島々は全て海上交通の要衛であるという。

 これらの島々は日本地図からみた場合、小さな島が含まれているなど、実態に即していない多少いびつなものであるが、海部族のルート確保と考えると合点がいく。

国生み神話の原点は天之沼矛にあり、その国々の分布は筑紫を中心とする細形銅矛・細形銅戈・細形銅剣の分布と大筋において一致している。(古代史を疑う)

 新編古事記

 

淡島の攻略に失敗したイザナギとイザナミは、大本営である高天原に報告し指示を仰いだ。

 高天原の天神は太占で占って指示を出した。姦計を仕掛けるべく先に女人を出したのが良くなかった、勇猛な男子の武将に先乗りさせるべし。

 そして今度はイザナギが自から指揮して攻略を開始した。その結果、攻略した所は

淡路之穂之狭別島、次に伊予の二名島、この島には四国あり。

 それぞれ頭領あり。伊予の国の頭領を愛比売といい、讃岐国の頭領を飯依比古という。粟国の頭領を大気都比売、土佐国の頭領を建依別といった。

 次に隠岐の三つ子の島、頭領の名をアメノオシコロワケという。次に筑紫島にも進出した。この島にも四国あり。国ごとに頭領あり。

 筑紫国の頭領を白日別、豊国の頭領を豊日別、肥野国の頭領を建日向日豊久土比泥別、熊襲の国の頭領を建日別という。

 次に壱岐の島の頭領のアメヒトツハシラ、次に対馬の頭領のアメノサデトリヒメにも影響力を及ぼした。

 次に佐渡島を知り、次に大倭豊秋津島の頭領のアマツミソラトヨアキツネワケを知った。ここにおいて八島の地理を理解し大八島国と呼んだ。大国だけに権威のある名前を冠した。

 最後に吉備の小島、又の名を建日方別と小豆島の頭領オオノデ姫にも影響力を及ぼした。

 次に大嶋又の名をオオタマルワケ、次に姫島又の名をアメヒトツネ、次に知珂の島又の名をアメノオシオ、次に両児島又の名をアメフタヤを支配下に収めた。

 イザナギとイザナミの本貫地

 島の次に神々を生むくだりが展開されるが、勿論その通りの順番ではなく、島々を攻略(或いは地理を知る)しながら子孫を増やしていった状況の描写が投影されているのだろう。古事記を素直に読めば於能碁呂島は瀬戸内海に比定できる。

 イザナギとイザナミは多くの神々を誕生させる。その舞台は主に出雲である。イザナミを葬った比婆山は出雲と伯耆の国境であり「黄泉の国」は出雲とみられている。「黄泉の平坂」も一般に出雲とされている。

 「佐田大社之記」をみると、「イザナギは淡海国日少宮に隠れ、イザナミは比国に崩御し垂日山に葬る」「比婆山は蓋しここなるか」と記載している。

記には「伊邪那伎大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、今の多賀大社にはイザナギが祀られている。

淡路島の伊佐奈岐大社は朝廷から一品という神格を与えられている。イザナギ、イザナミの伝説は淡路島を中心に分布している。

この事からこの両神は元は淡路島の航海民が祀った神で後に記紀に採り入れられたのであろう。(日本神話と神々の謎)寶歴14年(ママ)の「熊野村神社萬指出帳」には次の記事が載せられている。

「熊野大社は天神イザナミ尊の神廟なり、山陵を比婆山と号す、或一名天宮山ともいう、或いはアマテラス大神始めて青垣の宮を造りし故、元宮山とも青垣山ともいう」

(神道大系)

 またイザナミの神陵は出雲に7か所、広島、鳥取、和歌山にそれぞれ1か所ある。(謎の出雲帝国)

 イザナギはカグツチを十握の剣で斬っている。この剣は十握であるから十握りの長さの剣であったと思われ、剣を持っていたことから弥生時代の伝承を彷彿とさせるものがある。

 古伝「上記うえつふみ」にはイザナギとイザナミの前に沫凪と沫波の名前が記されて、イザナギとイザナミは威清凪・威清波と表記されている。この字を充ててみると両神は海洋神であった事が窺われる。水に深い関わりがあり、航海の際に信奉された神であったのだろうか。

 新編古事記

 

イザナギとイザナミは次の自然神を創造した。

オオコトオシオの神、イワツチビコの神、イワスヒメの神、オオトヒワケの神、アメノフキオの神、オオヤビコの神、カザモツワケノオシオの神、海の神・オオワタツミの神、水戸神・ハヤアキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの神。

 アキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの二神は、アワナギの神、アワナミの神、ツラナギの神、ツラナミの神、アメノミクマリの神、クニノミクマリの神、アメノクヒギモチの神、クニノクヒギモチの神を生む。

 イザナミは次に風の神・シナツヒコの神、木の神・ククノチの神、山の神・大山ツミの神、野の神・カヤノヒメの神又の名をノズチの神を生む。

 大山ツミの神、ノズチの神は、アメノサズチの神、クニノサズチの神、アメノサギリの神、クニノサギリの神、アメノクラトの神、クニノクラトの神、オオトマトヒコの神、オオトマト姫の神を生む。

 イザナミは次に鳥のイワクス舟の神・天の鳥船、オオゲツメの神、ヒノヤギハヤオの神・ヒノカガビコの神・ヒノカグツチの神を生む。

 ヒノカグツチの神を産んだことにより、イザナミはホトを焼かれ病んで臥せた。嘔吐物から金山彦の神、金山姫の神が生まれ、糞からはハニヤスビコの神、ハニヤスヒメの神が生まれた。

 尿からはミツハノメの神、ワクムスビの神・トヨウケビメの神が生まれた。イザナミは火之神を産んだ事で死亡した。

 以上の十四島、三十五神を創造した。能碁呂島とヒルコと淡島は数のうちに入れない。

 火之迦具土神(カグツチ)

 田中卓は神代史の主要な説話は、後世の著名重大な史実を原核として成立したものであり、史実が反映されているらしいとしている。(神話と史実)豊受大神は保食神、大気都姫、豊受賀能売命と同神と言われている。

 記の次のくだりでは生まれた神(人)の名前からその由来を関連付けて説明している。神々の系譜の説明をここで一挙に展開している。

 新編古事記

 イザナギはイザナミの枕辺で泣いた。その涙からナキサワメの神が生まれ、今は香具山の麓の丘の上に居る。

 イザナミは出雲と伯伎国の境の比婆の山に葬られた。イザナミは十握剣を抜いてカグツチを斬った。

 剣先に付いた血からイワサクの神、次にネサクの神、イワツツノオの神が生まれた。剣の根元の血からはミカハヤヒの神、ヒハヤヒの神、タケミカズチノオの神・タケフツの神・トヨフツの神が生まれた。

 

 柄に溜まった血からは、クラオカミの神、クラミツハヤの神が生まれた。

カグツチの頭からは、マサカヤマツミの神、胸からはオドヤマツミの神、ホトからはクラヤマツミの神が生まれた。

 左手からは、シギヤマツミの神、右の手からは、ハヤマツミの神、左足からはハラヤマツミの神、右足からは、トヤマツミの神が生まれた。その剣の名は天のオハバリ又の名をイツノオハバリという。

 黄泉の国は魔界

 「黄泉の国」は出雲をイメージして説話の文章構成が組まれたようだ。だがこの黄泉の国の一節は、日本書紀本文には記載されていない。このことはどう考えたらよいのだろうか。黄泉の国の物語は元々出雲の伝承であったものを、中央で天皇家の神話として取り入れたのだろうか。

または、日本書紀の一書のうちの幾つかには記載のあることから、古事記以前の書「旧事」に記されていたということもできる。イザナミの墓の描写からは、古墳と石室の印象が彷彿として伝わってくる。

今、島根の東出雲町に揖夜神社がある。根の国は島根の「根」であろうと思われる。田中卓は黄泉の国訪問説話は六・七世紀の成立としても、所伝の基本的な内容は更に遡る時代に求めることも可能であろうとしている。

 そして神話と神代史の関係に対応するもの、なんらかの史実の反映と考える田中卓は仁徳天皇と磐之媛との関係を想定する。磐之媛は嫉妬に駆られ天皇の意に背いて、山城国に行ってしまい天皇が迎えに行ったが磐之媛は逢わなかった。暫くして磐之媛は亡くなり山城国に葬られた。

 確かによく似たストーリーになっている。

 桃が魔物や邪気を払う話は「山海経」や「淮南子」にあり、古代の中国では桃は清浄な果物と考えられていた。妻から逃げる話は「五代史」に記事があり、黄泉の国の神話は南太平洋の神話に非常によく似ている。(井上光貞・日本の歴史)

 岡政雄は、北方神話のタカミムスビとイザナギ・イザナミの南方神話、そして古来からの太陽信仰のアマテラスが混在して構成しているという。(紀記解体)

 島根県の八束郡鹿島町にある佐太神社は、上古には出雲四大神とされていた。祭神は佐太大神であるが、「佐陀社内證記」によると、佐陀大明神とはイザナギ、イザナミの尊なりとある。

 熊野三山の古伝にはイザナギとイザナミの記事が多く出ていて、この地域と両神の縁が深かった事が窺える。「御鎮座祭文」には、崇神65年にイザナミが有馬村より熊野邑高倉下に移り、高倉下の子孫及び国造八門の神主に命じて祀らしたとある。イザナミの御神体は白銅鏡であると記されている。

 新編古事記

 イザナギは妻のイザナミに会いたくなり黄泉の国へと訪ねて行く。墓の前でイザナギは語りかける。愛しい妻よ、汝と作りつつある国はまだ完成していない、帰ってきて手伝ってくれないか。

 イザナミは地下から答える。あなたが早く来てくれなかった事が口惜しい、私は既に黄泉の国の洗礼を受けて帰れない体になってしまった、見ないで欲しい。

 諦めきれないイザナギは髪に差していた櫛に火をともして墓の中をのぞいた。

 イザナミの体は腐って蛆がたかっていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、ホトには析雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷あわせて八種の雷神がたかっていた。

 醜いところを見られたイザナミは恥をかかせたなといい、ヨモツシコメにイザナギを追わせた。イザナギは黒の髪飾りを取って投げた。

 髪飾りは山葡萄となり、ヨモツシコメがこれを食べている隙に逃げる。また右の髪に差していた櫛を投げるとそれは筍となった。ヨモツシコメが食べる間に更に逃げる。

 イザナミは八種の雷神に千五百の軍勢をつけて追わせる。

 イザナギは十握の剣を抜いて後ろ手に振りながら逃げた。黄泉比良坂の阪本に来た時、そこにあった桃の実を三つ投げた。

 軍勢はこれにより退散した。イザナギは桃に告げて、吾を助けた如く葦原中津国の人が苦しむ時には助けてあげよと言った。桃にオオカムズミニミコトと名前を与えた。

 

 ついにはイザナミが自ら追って来たので、イザナギは大きな岩で坂を塞いだ。ことどを渡して、イザナミはこの仕打ちに対して汝の国の人を一日に千人殺してやろうと言った。

 イザナギはそれなら一日に千五百人の人を生もうと答えた。そしてイザナミを黄泉津大神と名づけた。または道敷大神という。大岩は道返大神と名付けた。又は、ヨミドニイマス大神という。この坂は今の出雲の伊賦夜坂だという。

 

 

海神・アマテラスの誕生

 神話の舞台は黄泉の国出雲から一転、九州へと移っていく。イザナギは筑紫の日向に行き禊祓いをする、この橘の小戸の所在には諸説はあるが素直に読めば宮崎県になる。田中卓は綿津見の神と筒男命出現の所伝は架空の場所ではなく、現実に存在するある地点を中心に伝えられていたらしいと述べている。

宮崎県には信憑性はともかく、神話をそのままになぞる伝説地が全て完備されている。今も「橘」や「小戸」「阿波岐原」の地名が存在している。

梅原猛は宮崎市の橘や小戸の名前は古い地名であり、小戸は薩摩にあったとみられる綿津見の神の国との貿易港であったとみている。小戸神社はイザナギ・イザナミを祀っている古い由緒のある神社である。江田町にはやはりイザナギ・イザナミを祀る江田神社がある。

阿波岐原のあおき遺跡は日向でも突出して古く、出土物から弥生前期中期の遺跡であるとされる。このような状況からも、イザナギが禊祓いをし、三貴神が生まれた橘の小門は日向の宮崎市になろう。(天皇家のふるさと日向を行く)

江田神社の北に位置するところに、塩路の地名があり塩土の神との関連を窺わせる。さらにその北には住吉神社が鎮座している。

 

田中卓は禊祓いで生まれた綿津見神が、祀られている志賀海神社が筑前にあり、しかも社家は綿津見の神の後裔の安住氏であること。

更に住吉神社やヤソマガツヒの神、カムナオビの神、オホナオビの神が祭られている警固神社の存在などから博多・那珂川付近に求めている。安曇氏の本貫は筑前粕谷郡安曇郷であり、応神天皇の頃に畿内に進出した。禊祓いで生まれた綿津見の神と筒男命は共に神功皇后の新羅征討に加わっている。

この新羅征討の際に神功皇后は、博多湾で髪を洗い禊をしているが、イザナギが禊祓いした橘の小戸も北九州に比定できる。

 皇后の新羅征討に参加した綿津見の神と筒男命の史実が、イザナギの禊祓いと両親の誕生に投影されている。(神話と史実))

 田中卓はこの他にも幾重にも傍証を取り上げて、思わず納得してしまう見事な論理を展開している。

神皇正統記ではイザナギが禊をしたのは、日向の小戸の河●・檍が原としている。福岡市の姪の浜に小戸神社がある、古田武彦はこの地をイザナギが禊をした地でありアマテラス誕生の地と論証している。

記・紀の記述からイザナギが禊祓いをして、三貴神が生まれた場所を探して特定する考証は楽しくもあるが、「筑紫日向」の日向は一定の場所ではなく、九州や日向などのどこかという意味に解する向きもある。

つまり日向の神話であるから名辞的な表現で「日向」とした、或いは日に向かう良い場所などの意で用いた表現とみる説である。同説に立てば現実の場所を探し求めることは無駄な事となる。

しかし様々な角度からその場所について考証を重ねることは、日向神話の根本を考えることであり、神話や古文献の理解を深めることにも繋がり意義のあることと思われる。

 天照大神はアマテラスオオミカミと読まれているが、果たしてそう読んで正解なのだろうか。「アマテル」と読めば天が照り輝くという意味になる。天が照るに大神を繋いでいる。

この場合個人としての神を特定する固有名詞がなくなり、神名の中身が薄くなり、一般的な広い意味の太陽神・日神の意味で用いられていることになる。

 現にアマテルと読む天照神社はいくつか現存している。弥生時代は文字通り太陽と共に生活していたのであろう。明るくなれば起きて活動を始めて、日が沈み暗くなれば家の中に入りやがて眠りについた。

 日照時間により作物の出来不出来も決まり、猛獣からも守ってくれる太陽は自然と信仰の対象となったのであろう。太陽を神格化し神の名前として、皇祖神と一体のものに仕立てたと考えられなくはないか。

 こうした太陽崇拝はインドネシアに広くみられるように、農耕民族により多く崇拝されていた。

また天照大神は「オオヒルメノムチ」とも呼ばれたと言われているが、オオは大きなという意味でムチは貴人という意味を持っている。そして残されたヒルメは「日の女」即ち巫女のことと解釈される。してみるとこの名前も「日を祀る偉大な巫女」という意味になり、個人名ではなくなってしまう。

オオヒルメノムチが一人しか居なかったという保証はなく、年月を隔ててオオヒルメノムチと呼ばれた人が他にも居た可能性が浮かび上がってくる。

播磨国風土記には、アマテラスが乗っている船に猪を献じる説話が乗っている。天神は天の磐船にのって天下って来たと古文献に散見され、このことは宇宙船でない限り海を渡って来た事を想定させるのである。

従って天あまとは空のことではなく、海の事と考えるのは必然の帰結であろう。アマテラス」もまた空を照らすのではなく、暗い海を照らすという意味に受け取れる。沿岸航法でも日が暮れた海を航海するのには危険が伴う。

当然照明が必要であり、そんな暗闇を照らす灯台のような効果を生む方法があれば神の助けとも思えたであろう。

そこで「海あま照らす大御神」となったかもしれない。古代氏族の多くが海部あま族の出自であることも何らかの関連性を持っているのだろう。アマテラスには太陽神のイメージが定着していることから、「天照す」といえば空が照っているかの如くの現象として捉えがちであった。

しかしアマテラスとは「晴れてる」という意味ではない。明らかに「天」を照らすということであろう。よく考えると空を照らすことなど出来はしない。東京タワーのライトアップでも、空のほんの一部しか光が当たっていない。

広大な空を広い範囲で照らし出すことは無理な事である。天上界から下界を照らすという意味だとしたら、表現は「天ヶ下(を)照らす・大神」とならなければおかしいのである。

上の数行を書いた数日後に似たような論説を目にすることになった。「日本神話と神々の謎」の中の一項目がそれである。この本は買っておいた物で、まだ目を通していないままだった。

この本ではアマテラスは元は海神であったとしている。やはり天照すの意味は元々は天を照らすためのものではなく、海を照らすものであったと述べている。そしてアマテラスという言葉自体は太陽神をあらわすものではないと言っている。

イザナギとイザナミは重要な神であるが、宮廷祭祀の中には現れず天皇家は両神を祀った形跡がない。朝廷は四、五世紀には三輪山の大物主を祀り、六世紀以降にはアマテラスを重んじていた。(武光誠)

 言語学の立場から神名を考証している川崎真治は、対馬の「阿麻氐留神社」の名前を「アマテ」と助詞の「ル」であるとして、「ル」は「ノ」と同じと解釈できるという。この場合の「テ」は方角のテではなく、「先手」の手で広義には部族を指すと捉えている。

 「アマ」は海人族となるとしている。この考証方式をアマテラスに当て嵌めることができるだろうか。やや強引に当て嵌めてみると「海人族のテラス」ということになろうか。テラスという名前は奇異にみえるが、それをさておくとアマテラスは海人族の支配者層であったことが想像できるのである。海あまを照らすように航路が読める、航路を知っている海人の代表、それがアマテラスだった。これは案外、当たらずとも遠からずの説となり得る。

 三貴子の中の月読命は三神の中では一番影が薄い。月読命のエピソードは取ってつけたかのように一回しか語られていない。早くに亡くなってしまいこれといった事績がなかった為なのか。

それとも太陽と月として陰・陽を顕す必要から設定されたものなのか。ツクヨミとは月齢を読んだり、暦を数える事と言われている。山城国葛野郡の月読命は壱岐から勧請された神である。

 この辺一帯は帰化人、秦氏の根拠地である。松前健は月読命は渡来人がもたらした亀卜の神だったようで、大陸的色彩が強い神であると論じている。

月読神社は壱岐や山城や伊勢などに存在している。松本清張はこのアマテラスと月読命の誕生話は、中国の「五運歴年記」の盤古の説話からとられたことは明らかであるという。

そこには「左眼は日となり、右眼は月となる」と記されている。月読命は月を読む神ではなく月そのものであるとしている。しかし同時に生まれたアマテラスは巫女をモデルにしているという。太陽(神)であるならば天地開闢の項に生まれていた筈であるとする。

 ではなぜ、月である月読命は天地開闢の項で生まれていないのであろうか。松本はこの矛盾については何も語っていない。スサノオと月読命は同神であったとする説もある。紀の異伝には海原を治めるのは、スサノオとする伝と月読命とする伝の二つがある。

 また記ではスサノオが大気都比売を殺しているが、紀では月読命が大気都比売と同神とみられる保食神を殺している。以上の二項目と先に述べた月読命の事績が殆どないことを考え合わせると、スサノオと月読命は同一人物であった可能性が高まってくる。

 更に近江雅和はスサノオと月読命の、モデルであったらしい二神の話が「契丹古伝」の中に出ている事を紹介している。(逆説としての記・紀神話)

 出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」によると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 新編古事記

 イザナギは吾は汚い国に行ってしまったので、禊をすると言い筑紫の日向の橘の小門に阿波岐原に至り禊をした。杖を投げるとツキタツフナトの神になり、帯を投げるとミチノナガチワの神となり、袋を投げるとトキハカシの神が生まれた。

 衣を投げるとワズライノウシの神となり、褌を投げると道俣神となり、冠を投げるとアキグイノウシの神となり、左の腕飾りを投げるとオキザカルの神、オキツナギサビコの神、オキツカイベラの神がうまれた。

 

 右の腕飾りを投げるとヘザカルの神、ヘツナギサビコの神、ヘツカイベラの神が生まれ、ここに十二神の誕生となった。

 体を洗うと穢れから、ヤソマガツヒの神、オオマガツヒの神が生まれ、次にカムナオビの神、オオナオビの神、イズノメの三神が生まれた。

 水底からはソコツワタツミの神、ソコツツノオの命、中ほどからナカツワタツミの神、ナカツツノオの命が生まれた。

 水の上からはウワツワタツミの神、ウワツツノオの命が生まれた。この三柱のワタツミの神は安曇の連の祖先である。

 三柱の男神は住吉神社の三座の大神である。次に左の目を洗った時に天照大神。次に右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時にタケハヤスサノオノミコトが生まれた。

 イザナギは天照大御神に汝は高天の原を統治せよといい、月読命に夜の食国を治めよ、スサノオに海原を治めよと指示した。

 

住吉大社神代記

 ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、気息帯長足姫の、四神を祭神とする住吉大社が伝える住吉大社神代記は記・紀とならび重要な資料である。ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、三柱の神名は海の深さを象徴するような奇妙な名前の不思議な神である。

 「ツツノオ」は津の男を言うとする説がある。三神が誕生したとき、それぞれの神とセット・ペアで生まれた綿津見三神は安曇氏の祖先とされ、住吉三神は住吉に祀られ子孫はいなかったことになっている。後に住吉三神は、神功皇后の新羅征討の際に託宣を下している。

 綿津見の神三神は武光誠によると、奴国の航海民が祀っていたという。この三神は志賀島の志賀海神社に祀られている。同時にペアで双子のように生まれた六神のうち、三神が住吉大社に祀られ、三神は志賀海神社に祀られた訳である。なぜ引き裂かれて西と東に分かれることになったのかは謎である。

 武光は綿津見三神と住吉三神は元々無関係であったが、安住氏が大阪湾の安曇に本拠地を移したことにより、兄弟とされるようになったとしている。住吉三神を祀る津守氏は長門から摂津に移り安曇氏の監督を受けた。

 大和朝廷は四世紀の初頭に九州を制圧した。志賀島を本拠地とする航海民は大和側に従って安曇氏と呼ばれるようになった。安曇は「あまつみ」が訛ったものである。綿津見三神は元は一柱であったが三柱に変えられた。(日本神話と神々の謎)

神代記はそれまでに、大社に伝わっていた二つの書物を一つにまとめたものであるという。神代記は神代の誕生から筆を起こし、大筋では紀と軌を一にしているが、祭神の神宮皇后の記事に多くを割いている。

編纂したのは大社宮司家の津守氏であり、天平三年(731年)に奉られている。

 したがって成立年度は更に遡り、大宝二年に原撰、養老三年勘注したものとされる。だが田中卓はその末文などから、更に古い斉明五年・659年にはある程度の形(旧記)が出来ていて、天平3年に言上されたと推考している。

これならば記・紀よりも古く最古の歴史書になってしまう。神代記には紀を参照し引用したと見られる個所もあることから、原資料はともかく編纂が終了したのは紀・紀の成立後まもなくのことであろう。

神代記の内容について、田中卓は紀にはない記事や表記が見られることから、津守家の独自の古伝が多く取り入れられたとみている。そして紀の方が神代記の原資料を参照したのではないかという。

神代記と記との関係では、記の文章は取り入れ、または引用されていない、記と一致しない内容もあり、構文・用字の点からも、両書の間に直接の史料的親子関係は全くないと断じている。しかしながら、紀と説を異にし、もしくは欠けている内容に関して、記と説を同じくする事例が少なからず存する、と分析している。(住吉大社神代記の研究)