高天原の侵略 神々の降臨 ②
http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html 【高天原の侵略 神々の降臨】 より
最古の英雄スサノオ
「神皇紀」にはスサノオの元の名は「多加王」であったと記され、タカミムスビの曾孫となっているが父名の記載はない。豊阿始原を占領するべく、大陸から千三百人余を率いて高天原へ攻め込んだという。この時に大巳貴命は八千人の軍勢を編成してスサノオ軍を皆殺しにしたとしている。
アマテラスは多加王を出雲に追放し、スサノオは出雲を平定した。スサノオは作らせた剣、鏡、置物を持って各地に巡行し、平定した後に剣をアマテラスに奉じた。アマテラスは多加王に「スサノオ」の名前を与えた。(古代文書の謎)
三輪高宮家系譜によるとスサノオは、紀伊国牟婁郡熊野大神なりとして、またの名を八束水臣津野神としている。八束水臣津野神は記紀には表れないが、風土記において出雲の国引きをした神として有名である。
記・紀では同神の功績などをスサノオに転化したものなのか。同系譜では更にスサノオの別名を、遊美豆奴神、熊野加夫呂神、熊野加夫呂神櫛御気野神、気都御子神と伝えている。「出雲国造神賀詞」では熊野大神(櫛御気野神)を「いざなきの日まな子」と呼んでおり、イザナギの子スサノオと同神と分かる。
記ではスサノオノミコトは出雲勢力の代表・首長として描かれている。「須佐」の地名は今も島根県に存在する他、スサノオノミコトを祀る「須佐神社」は同地に数多くある。「須佐の男」にミコトをつけ名前としているのは、明らかに天孫族の対抗勢力と解るように設定したかのようでもある。
スサノオが渡来神であったかどうかはともかくとして、出雲国風土記には同神の伝承が豊富に語られている他、記紀に現れない同神の子の名前が幾つも記されている。
このことはスサノオが出雲の地方神、或いは出雲に先着した神であったことを窺わせる。
スサノオの影響力下にあったのは出雲を始めとして、大和や北九州に亘る広大なものであったとも考えられる。大和にも「出雲」の地名がある上、出雲神社が幾つもある。スサノオは息子と共に新羅に行き、暫くソシモリに居たとの伝承もあり、新羅や北九州に縁が深いことが窺われる。スサノオノミコトの娘である三女神も宗像大社に祀られている。
関係は不明だが、松江市の忌部神社の「忌部大宮濫觴記」には「韓山」の地名も見えている。紀の一書では、熊成の峯から根の国に渡ったと記載している。この熊成は朝鮮の地とみられ、任那の熊川もしくは百済の熊津は、いずれも古くは久麻那利と呼ばれていた。
松前健はスサノオと朝鮮との結びつきが深いことは認めるが、スサノオの前身が全くの渡来神とすることには疑問を持っているという。スサノオと韓土の結びつきは5~6世紀の頃、盛んに韓土と往来し交易や征討に従事した紀伊の海人の活動によるとしている。
また「宇佐宮劔玉集」には、豊葦原中国之宇佐嶋は云々、スサノオは天降りて筑紫宇佐州に居て、今の小椋山の頂に大神として祭られたとしている。このスサノオの治める芦原中津国に、アマテラスは天のオシホミミや天のホヒノカミ等の征討軍を次々に送り込んで来たようだ。
スサノオは原出雲系の神ではなく、朝鮮半島から渡来した神であるとする説も多く唱えられている。一名を牛頭天皇といい、紀が朝鮮のソシモリに行ったと記す、その「ソ」とは古代朝鮮語で牛のことだという。
ソシモリとは江原道・春川府牛頭州のことで、ここに牛頭山がる。京都八坂神社の社伝では、」斉明天皇二年に新羅の牛頭山からスサノオの神霊を迎えて祀ったとしている。石見で「韓」ないし「辛」の字がつく地名のところには、必ずと言ってよいほどスサノオ伝承がある。
とすると何故大国主と結びつけ、その祖先としたのか、考証を急がねばならぬ。出雲国風土記ではスサノオは侵略者とし登場している。
スサノオは牛族でその神紋は十字紋であった。播磨国風土記に新良しら訓くにと名づくるは新羅の人来て、新良しら訓くにと名付けた。山の名前も同じ。とあり白国神社には牛頭天皇(スサノオ)を祀っている。
大国主の末裔・富氏の伝承では、同氏の祖神はクナトの大神で何世かの後に大国主があり、また何世かの後に富のナガスネヒコや伊勢津日子に繋がっている。出雲の熊野神社にはクナトの神を祀っていたが、後に全国の熊野神社と共に祭神はスサノオに変えられてしまった。(記紀解体)
クナトの神との関係は不明であるが、「クナト」とは「来くな」と「門と」を合わせたもので、悪いものが入ってくることを防ぐ門の役目を持つ者を指すという。この点、道祖神信仰に繋がるものとみられる。衝立船戸神の船戸はクナトが訛ったものと言われている。
スサノオはアマテラスの元では乱暴者の悪神であるが、出雲に行ってからは民衆のヒーローになっており、正と悪の二面性を持っている。出雲風土記では大衆の中に溶け込んだ平和の神として描かれている。
この二重人格のような矛盾について、松前健は全く別な二つの神格が結びつけられた同一神と考える。スサノオは出雲や紀伊で祀られた地方神で本来は平和な神であったという。
彼が犯した悪行は後世の大祓に、列挙される罪の名と同じである事から、この悪い事をする例(者)としてスサノオが挙げられたとみているようだ。つまり悪のキャラクターとしての役割を担わせられている。
松前は出雲の東西各地にスサノオの崇拝や口碑があり、その崇拝は紀伊、備後、播磨、隠岐などの広い領域で行われていたとしている。紀伊国在田郡の名神大社「須佐神社」がスサノオの原郷ではないだろうかと言っている。
スサノオは高天原から根の国へ行き支配者となった。その足跡は韓半島にも及び、韓の神とも出雲の神とも言われている。スサノオは須佐の男であり、この名前だけを取れば文字通り須佐(出雲)の男である。
古事記の言うところの建速須佐之男命の建は勇猛な意味の籠められた敬称であり、速も同様の接頭語とみられる。
書紀の第一の一書にはスサノオの子は清(すが)の湯山主三名狭漏彦八島野であり、この神の五世孫が大国主命であると記している。この伝承は須佐神社資料と一致している。
清(すが)は須賀の宮・須我山(川)に通じ、ここにスサノオと出雲との関わりが色濃く反映されている。スサノオの足跡を線で綴ると韓半島からの航路となり、渡来人の足跡とも重なるようだ。
新編古事記
スサノオノミコトは指示された国の統治をせずに、その髭が長くなり胸元に垂れる頃になっても泣いていた。
その泣く事により青山を枯らし川や海は干上がり、悪い神が台頭し蠅の大軍が現れ様々な災い事が起こった。
イザナギが理由を問いただすと、スサノオは母の根の堅州国に行きたいのだと答えた。イザナギは怒って、ではこの国には住むなと言って追放した。
そのイザナギは死去して今、近江の多賀神社に祀られて居る。
スサノオ軍が迫ってきた時、高天原の山川は揺り動き国土は振動した。アマテラスはスサノオが吾国土を奪う積りに違いないと言った。髪を解いて男髪のみずらに結い、左右のみずらとみかずらにも左右の手にも八尺の勾玉を多く巻き、背に大きな矢筒を負い脇にも矢筒をつけ、左の手に鞆をつけ武装した。
弓をふりたてて庭の土を踏みしめ、淡雪を蹴散らし雄叫びを上げ、すっかり戦の準備を整えてスサノオを待ち構えた。
天の安河の停戦交渉
人類の祖先神イザナギはここに亡くなり、これ以上登場する事はなくなるがその御陵については詳しく触れられてはいない。記では淡海(近江)の多賀としているが、紀ではイザナギの御陵は淡路としており、淡路島の神話・海人族の伝承が浮かび上がって来る。
松前健は近江の社は古い記録に見えず、延喜式では小社となっているとして、イザナギは5、6世紀頃は単なる島の神であり、皇室との関係はなかったであろうと言っている。
イザナギの陵については宮内庁が作成した「陵墓要覧」にも記載がない。イザナギは神代の神様であったから当然の措置か。
「陵墓要覧」の陵墓の記載・位置などは、降臨してきたニニギノミコトから始まっている。高天原は記・紀に記載記事の状況証拠から、必然的に北九州・博多湾付近に比定することができる。田中卓も高天原は筑後国山門郡の辺りにあったと論じている。
それを原ヤマト国と呼び、その本拠地から移転したのが皇室の祖先であり、九州に留まったのが後の邪馬台国であると推考している。
「秀ほつ真ま伝つたえ」では高天原を仙台地方にあったとしている。神代文字で書かれている同書を論じる学者は殆どと言ってよい程いない。また同書はアマテラスを男神として12人の妃があったと述べている。
北九州の沖ノ島の近くの大島には宗像神社中津宮がある。ここには天の川と天の真名井があり、神官は天の真名井で禊をしている。天の川の両岸にはそれぞれ牽牛、織姫を祭る神社がある。
七夕祭りの時に男女の出会いの場所となる。これらの事柄はスサノオとアマテラスの誓約の場面に酷似している。(神々の流竄)アマテラスとスサノオは誓約して子を作ったとあり、両神は一時期夫婦の関係にあったと考えられる。
二ギハヤヒの項で後述する熊野連の和田家系図には、熊野加夫呂櫛御気野命とアマテラスの二人は姉弟であり、夫婦であり天忍穂耳命を産んだと記されている。神皇正統記によると、安河の誓約でスサノオは「まさやあれかちぬ」と言ったとしている。
新編古事記
アマテラスの高天原に征西軍を率いて到着したスサノオは、高天原軍と対峙し優勢のうちに小競り合いを繰り返した。この戦いは長びき、高天原の田畑は荒れて農民は戦に駆り出され収穫も出来ない状態に陥った。
アマテラスは降伏を申し出た。スサノオは高天原人心の掌握のためアマテラスを妃に迎えた。スサノオは十握剣をアマテラスに献上し、アマテラスは八尺の勾玉、みすまるの玉を差し出して交換とした。
二神は天の安河の近く、天の真名井に宮を建てて住まいとした。やがて生まれた神は多紀理姫命、またの名は奥津島姫命、次に市寸島姫命、またの名を狭依姫命、次に多岐都姫命が生まれた。
また次に正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命が生まれた。
更に活津日子根命、熊野久須毘命の二神が生まれた。
多紀理姫命は今宗像の沖津宮に祀られ、市寸島姫命は宗像の中津宮に祀られ、多岐都姫命は宗像の辺津宮に祀られている。
三柱の神は宗像の君の祖先である。多岐都姫命の子の建比良鳥命は出雲国造、武蔵国造、上総国造、下総国造、対馬県直、遠江国造などの祖先である。天津日子根命は紀の国造、倭の田中直等の祖先である。
スサノオノミコトの勝利
天の安河の誓約で、スサノオの物実であるとされた十握の剣とは精子を象徴しているように思われる。スサノオの種を貰って生んだのが三女神ということになる。その後生まれたのが五男神である。
この勝利により、三女神が祭られている宗像の辺津宮、沖ノ島と韓半島へ続く壱岐をスサノオが領有することになったのではないか。宗像氏はスサノオの後裔三輪氏と同族である。
スサノオは、出雲の支配地を侵食するアマテラス軍を放逐するべく、北九州に大軍を持って上陸した。戦いに勝利したスサノオは妻問いの慣例に従って、敗軍の旗印となっていたアマテラスを娶って妻とした。
こうすることによって完全制圧するのではなく、吸収合併した形を取り一体となり領土を一緒に統治する姿勢を領民に見せることが必要だったのであろう。
「新編古事記」
侵略戦争に勝利したスサノオは慣例により、当地支配者層の娘アマテラスを妃にして、高天原の統治・経営に専念した。だが農民は静かな抵抗を続け統治はうまくいかなかった。
スサノオは見せしめとして、抵抗した農民の田の畦を切り離し溝を埋めた。アマテラスは、神事だけを司る立場に追いやられ咎め立ては出来なかった。スサノオの悪行はやまず、アマテラスが機屋で機を織っているときに、屋根に穴を開け斑馬を投げ込んだ。
機を織っていた織女は驚いて杼にホトを付いて死んでしまった。やがて水面下で、勢力を立て直していた高天原の高木神の策略によって、出雲へと撤退せざるを得なくなった。スサノオは出雲を経由して、紀伊に入り山の権利を掌握し支配した。スサノオが親権をとった三女神は北九州に残り、後に宗像神社や沖ノ島に祀られた。
天の石屋戸隠れ説話
アマテラスが石屋戸に籠ってしまい、世の中は真っ暗になってしまった。研究者によるとこの頃に日食があったという。祭祀の途中に日食が始まった事があり、これが一部に伝承されていたのではなかったか。
そして古事記編纂の際に、アマテラスと日食とを結び付けられるストーリーになった可能性が高い。この日食神話のモチーフは西はインド、東はカリフオルニアにまで及んでいるという。特に内容が似ているのは中国南部からインドアッサムにかけての地域の神話である
この他、天の石屋戸神話を、鎮魂祭(みたましずめまつり)・冬至の祭りであったとみる説も古くから存在している。
田中卓は天の磐戸隠れはスサノオ等の、オオナムチ系氏族に対する大和朝廷側の敗北という史的事実が投影されている史的神話である。
大巳貴命系氏族の元来の本拠地は畿内・大和を中心としていたらしい。このことは大物主を含む三輪山と畿内の信仰と伝承が、この氏族と密接に結びついている。神武天皇の東征により出雲へ敗退・転出したとみられると言っている。
この説に従えば時代は遡るが、スサノオが出雲斐の川上に降臨したことと辻褄が合うことになる。
アマテラスの別名は大日女命とされているが、この名前は当然のように今まで太陽・日神を祀る祭祀を司ることによると考えられていた。しかし中国の南朝の最後の大王陳の娘の名前が大比留女だという。
このことからは何が考えられるのだろう。単なる偶然なのか。それとも日本語読みが全く同じ名前なので何らかの関連があるのだろうか。
鹿児島県隼人町の鹿児島神宮の縁起によると、大比留女は七歳で懐妊し生んだ男の子が二歳の時に自分は八幡だと名乗った。
後に母子を船に乗せて流したところ、大隅の海岸に流れ着いたという。大比留女は日本に来ていたということになる。(海を渡った人びと)
渡来伝説といえば、徐福は秦の始皇帝の命によって前210年頃、三千人の男女を引き連れて渡来したという。五穀の種も持参して辿り着き王になったが帰国はしなかったとされる。
日本各地には徐福の墓や伝説が残っている。船が難破したとしても千五百人くらいは日本にたどり着いた可能性がある。
アマテラスは男神であったと唱えているのは、津田左右吉や折口信夫であるが、この説にもそれなりの理由が存在している。折口は「日女」は「日妻」であるとして、即ち太陽神の妻であるという。
アマテラス男神に仕える巫女がヒルメであり、代々の巫女のイメージが祭神の姿に重なり、いつしか巫女がアマテラスになったと考証している。仕える者が主の名前で呼ばれることはままある事である。ある神を奉じて戦う武将や氏族が、年月を経るとその代表としての神の名前で伝承されていくこともある。
神事などでの巫女の振る舞いは一種神秘的に見えるものであり、神意を告げる巫女そのものが次第に神へと昇格していった可能性は十分存在している。
敏達紀には宮廷内に日祀部を設置したと記載されている。これは神祗官以前の宮廷の祭官であり、太陽神の祭祀を司ると言われている。
敏達帝の宮があった大和の他田には、他田坐天照御魂神社があるがその祭神は天照御魂・火明命である。アマテラス男神説はこれらの内容とは混同していないであろうか。
松前健はこれらのことから、敏達帝当時の宮廷にアマテラス崇拝はなかったと言っている。また上田正昭は伊勢の渡会氏の奉じる日神の地に、皇祖神アマテラスを祀ったのは伊勢と宮廷の交渉の記事の多い雄略朝であろうという。
松前はこの説を肯定し、最初は守護神程度に祀った時期が長く続き、継体朝頃から中臣氏や忌部氏を送り込み皇祖神化していったとみている。(日本神話の謎)
アマテラスが岩屋に隠れて、世の中が真っ暗になったとする現象をアマテラスの死、或いは一度死んで復活する儀式と捉える論者も少なくない。松前健はアマテラスの岩屋戸隠れは「死」を象徴するものであったらしいという。
実際に紀の一書では、機屋の中で杼にホトを付いて死んだのはアマテラスであったとしている。
鎌倉時代の「年中行事秘抄」の神楽歌を見ると、日神の死が歌われており、冬至には太陽が一旦死んで生まれ変わるというのは、世界的な信仰であるとしている。(日本神話の謎)
吉田大洋はアマテラスという神はいなかったと断じている。延喜神明式によると、宮中で祀っている神は、ムスビ系の八神でありアマテラスやスサノオはいない。伊勢神宮におけるもっとも重要な、新嘗祭の祭儀は豊受の神を祀る外宮優先である。アマテラスが伊勢の神となったのはかなり後世であり、神宮の形を整えた天武天皇の頃であるという。
松前健の主張でも、宮中のアマテラス祭祀は固有と思われるものは一つもなく、みな後世、ずっと後の平安時代になって神話の影響などにより成立したものである。としている。(謎の出雲帝国)
アマテラスが、古くから宮廷内に祀られていたという証拠は何一つなく、アマテラスに天皇が礼拝するなどは平安時代中葉に始まった。タカミムスビは八神殿の主神として古くから宮廷に祀られていた。
この八神はタカミムスビ、カミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビ、ミケツカミ、オホミヤノメ、コトシロヌシで天皇の守り神であり、鎮魂祭や祈年祭、月次祭などにも祀られた。タカミムスビとは本来、田の傍らに立てた神木に降臨する田の神なのである。(日本神話の謎)
住吉大社では今も天の香山の埴土を取りに行く行為を続けている。もっとも、江戸時代以降は天の香山から畝傍山に変更されている。(住吉大社神代記の研究)
出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」よると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。
またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。
その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。
古田武彦は、高天原を紀の一書日本旧記にある「天国」として、その領域を北九州の北方、日本海中の対馬を含む島々であったとする。天石屋戸は「天国」の中心に位置していて、全島岩で覆われている沖の島と断じている。
新編古事記
アマテラスはスサノオ軍と戦った際に、傷を負いその後遺症が元で死んでしまった。
天の石屋戸を開き一時その中に埋葬した。高天原の人心は暗く沈んでしまった。毎日民衆のさざめきは蠅の大群のようになり様々な犯罪が起こった。長老たちは天の安河に集まり、アマテラス復活の祭祀・儀式の段取りを相談した。
タカミムスビの子のオモイカネが指揮を執ることになった。鶏を集め鳴かして、天の安河の川上の天の堅石と天の金山の鉄を取って、鍛冶のアマツマラに鏡を作らせ、タマノオヤに八坂の勾玉の御すまるの玉を作らせた。
アメノコヤネ・フトダマに天の香具山の、鹿の肩骨と波波迦木を採って占なわせた。
天の香具山の真賢木を根こそぎとって、上の枝に八坂の勾玉の御すまるの玉を架け、中枝に八尺の鏡を架け下枝に白丹寸手・青丹寸手を架けた。
これ等をフトダマが持ち、アメノコヤネが祝詞を称えアメノタジカラオは石屋戸の脇に隠れ、アメノウズメが天の香具山の蔓を架けて、天の真折を葛として、天の香具山の笹葉を結って石屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らした。
神がかりして乳房をむき出して、衣を臍の下まではだけて踊り続けた。人々は笑い、二代目のアマテラスが石屋戸から覗いた時に、タジカラオが手を取り一気にアマテラスを引き出した。
すかさずフトダマがその後方に縄を張り巡らした。人々の顔は明るくなった。長老はスサノオの髭と手足の爪を切り武器を取り上げて新羅へと追放した。スサノオは息子のイタケルとともにしばらく新羅のソシモリにいたが、なかなか勢力を伸ばせないので出雲へ帰った。
イタケルは新羅から多くの樹種を持ち帰り、筑紫から大八島にまで播いてことごとく青山にしてしまった。楠や杉檜槇等の木がそれである。このことからイタケルはイサオシの神と及ばれ、紀の国、伊太祁曽神社に大神として祀られた。この後アマテラスは高木神と結婚し、二人で様々な命令を出し国土の発展と経営に努めた。やがてアマテラスは日神の祀りごとに専念するようになり、オオヒルメノムチと呼ばれ政治・行政面は高木神が務めるようになった。