高天原の侵略 神々の降臨
http://home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/kamigaminokourin.html 【高天原の侵略 神々の降臨】 より
五穀の起源
追放されたスサノオがいきなり大気都姫に会うシーンから始まる。伊手至(古事記・角川)は後から挿入した説話かと言っている。
むろん古事記は一つの伝承・歴史だけではなく、各地に伝わる色々な伝承をモザイクのように織り込んでいる。当然天皇家に関係のない伝承をも、いかにも関係あるかのようにそれらしく記述して構成しているのである。
どの箇所が皇室・系譜に関係のない挿入なのか慎重に見極めなければならない。
スサノオは書紀では海原ではなく根の国を治めよとなっている。スサノオはアマテラス以前に漢半島から来て出雲を支配していたと考えられる。越に出雲の神々が式内社として祭られており、出雲の支配地域ないしは影響力を及ぼしていたのは、越から北九州福岡の沿岸地域(大和を除き)までのエリアとみられる。
沿岸航法で小さな船でも往来できる日本海沿岸の地域である。
後に進入してきたアマテラスは北九州で勢力を拡大し続けていた。新撰姓氏録には宗像氏は、「大国主の六世孫の吾多片隅命の後なり、大三輪朝臣と同祖」と記されている。
しからば、出雲系のスサノオの子である三女神を祀っていても違和感なくとらえられる。また宗像大菩薩縁起には出雲簸河上より筑紫宗像に移ると記されている。(神話と史実)
これに対しスサノオは出雲から進軍して反攻を試みて一時は勝利を収めた。アマテラスの直轄地まで支配する勢いだったが、施政・行政に失敗し民衆の反感には抗えずまた出雲へと撤退したのではなかったか。
この時にスサノオは屈辱的な降伏の条件を呑み、携えていた草薙の剣をアマテラスと高木に簒奪された。スサノオと大気都姫の説話は、書紀では月読命と保食神との物語になっている。
新編古事記
撃退されたスサノオは、出雲へと帰還する途中で会った大気都比売神に食物を乞う。比売はスサノオの汚さを詰って食べ物を与えなかった。スサノオは怒って大気都比売を殺した。
大気都比売を埋葬したその土地からは、小豆や大豆が取れるようになりカミムスビが種を保存・利用するようになった。また後には粟や麦や稲が生産されるようになった。
ヤマタノオロチ伝説
出雲系神話か。島根県大原郡大東町須賀にスサノオと稲田姫を祭る須賀神社がある。櫛名田比売と少し名前が違うが「櫛」は「奇し」で尊い・神秘的という意味の美称であろう。
ヤマタノオロチ退治の説話は、勿論大蛇を退治した時の伝承ではない。出雲の斐伊川流域には古くから蛇神信仰があった。斐伊川の川の神は肥長比売であり、蛇の化身であったとする伝承もある。渓谷には蛇が多く棲息し山や田で作業している村人を害し恐れられていた。
こうした危険な動物を恐れ敬い、祟りのないように守り神として祀ったのである。古事記では高志のヤマタノオロチとしているが、これは勿論「越」ではない。越との間には鳥取や福井もありいかにも遠すぎる。出雲市に古志町があり、ここなら斐伊川とはさほど遠くない距離となるが…。
福井県三国町に河口を持つ九頭竜川の上流に日野川がある。日野川は鯖江市の西方に位置するが、ここに八岐大蛇伝説があるという。九頭竜川は文字通り九つの頭を持つ竜であるが、名前のようにたくさんの支流をもっている。ちなみにこの近くには越廼村(こしの)や国見岳の地名が残っている。
オロチの形は背に桧・杉が生え、体長は八谷・八峡に亘るとある事からやはり谷川のイメージを表現したものであろう。水田の生命線となる川が急流であり治水が難しかったと思われる。
ヤマタノオロチの神話はギリシャの「ペルセウスーアンドロメダ神話」と言われる。大蛇と処女の人身御供の話であり、若者が大蛇を退治するというもので非常によく似たストーリーになっている。
中国南部やインドネシアにもこれとよく見た神話が伝えられている。田中卓は八岐大蛇退治の神話を、出雲風土記に見える、大巳貴が越の八口一族(あるいは川の激流)を平定した話と捉えている。この卓越した推論には諸手を挙げて賛意を表したいと思う。
「豊受太神宮禰宜補任次第」には、越国の荒ぶる凶賊阿彦を平定するために標しるしの剣つるぎ
を賜って出征したと伝えられている、大若子命の祖先が天牟羅雲命であるとされている。(伊勢神宮の創祀と発展)また出雲国風土記にある大国主が越の八口を討った話を、記の編纂者が八十神に変えたと言うのは武光誠である。
梅原猛はオロチ伝説の土地は大和である。三輪山の神は蛇であり、大蛇はこの三輪山のシンボルとして書かれている。三輪山にはいまでも全山に酒が供えられている。そして大蛇は大巳貴のイメージであり、大蛇の死は大巳貴の死であるとする。
草薙の剣は三輪山のふもとに居たナガスネヒコが持っていたものとしている。
新編古事記
一度は高天原に攻め込み、天の安河で勝利をものにしたものの、次第にスサノオ一族は高天原勢力に筑紫を追われて出雲へと撤退を余儀なくされた。
出雲には越の八口一族が収穫物の簒奪を狙って季節ごとに襲撃して来ていた。スサノオ一族の大巳貴がこれを征伐するべく部下を引き連れて、出雲の肥上の河上の鳥髪の集落に来た。そこで泣いている老人夫婦と少女に会った。老父は土地の豪族オオヤマツミの子でアシナズチ、妻はテナズチ、娘は奇稲田姫と名乗った。
老父は年毎に越の山賊八口が来て、今年も収穫の時期になり山賊が来る頃になったので困っているという。
八口の目は酒に酔って血の如くで、腹は常に血にただれていると言う。大巳貴は助けてやるから、汝の娘をくれないかと持ちかけると老夫婦は承諾した。大巳貴は少女を櫛に変身させおのが鬟に差した。
大巳貴はアシナズチに強い酒を造らせて八口を宴会で歓待させた。八口は酒を飲み酔って寝てしまった。この時、大巳貴は十握剣を抜いて八口を斬った。
八口の持ち物の中から、つむはの大刀が見つかった。後に言う草薙の大刀がこれである。大巳貴は「須賀」に到りその地に宮を建て、アシナズチに「稲田の宮主」「須賀之八耳」の名を与え仕えさせた。
スサノオの神裔
スサノオは土地の豪族の娘、櫛稲田姫と結婚した。この地に水田があったことを窺わせる名前である。稲田に櫛を冠しただけなので、個人を特定する固有名詞のようなものは見当たらない。
スサノオとは関係が深い熊野三山の「新宮神社考定」には、イザナギの日真名子、加夫呂伎熊野大神、櫛御気命、出雲風土記に熊野加武呂之命とあるこれなり、と出ている。
そしてスサノオの別名は熊野坐神、家津御子大神、櫛御気野命とも称え奉られていたとしている。この伝承は三輪高宮家系譜を裏付けるものであり、相互に傍証を形成している。
大国主は記の系譜上では、スサノオの六世の孫となっているが二人は何故か同世代として行動している。
紀によれば大国主はスサノオの子供である。(第二の一書では六世となっている)また出雲国須佐の国造家の末裔で須佐神社の宮司家・須佐家の系図では大国主はスサノオの孫になっている。(吉田大洋)
三輪高宮家系譜では、大国主はスサノオの子供となっている。そして他所には見えない大国主の別名を次のように記している。「八島士奴美神、三穂津彦神、玉垂彦神、今三輪大神是也」
この他、記では大国主の子となっている八重事代主は、高宮系譜では孫と記載されている。不思議な事に、記も同系譜も母は共に神屋楯比売命(神)としている。
よりしっくりはまるのは高宮系譜の方となる。もっとも同系譜では事代主が二代続いている。また大田々根子命は記では大物主の五世になっているが、同系譜では十二世(十世)になっている。
血統をより有益なものに糊塗することもなく、その間に六世代もの名前を入れていることが却って系譜の信憑性を高めているようである。
同系譜には建甕槌命の名が現われており、記に登場する建御雷と同名であるが世代的にはかなりのギャップがある。表記の用字は異なるものの「タケミカズチ」と六音までもが同じということは、どう見ても同一人と思えてくる。
大物主を祀る由緒作りに気を取られすぎて、別の名前を付けるのを疎かにしてしまったのだろうか。
いずれにしても高宮系譜は各当主の名前にも欠損がなく、別名や母親の名前も記されていて明治まで連綿と続いている。
何回も紙幅を加え書き継がれたと思われ、全く遺漏がない完璧な系図に仕立てられている。何はともあれ宇佐郡菱形山「比義」など、重要な名前が多く含まれており更なる研究と考証が必要であろう。
記の系譜にあるスサノオから、大国主の間に挟まれた五人の神は記紀上では殆ど記事に現れていないことから、この五世代は後にはめ込まれたとする説がある。(日本国家の成立と諸氏族)合理的な論理で納得できる説である。
しかし、ここに有力な反論がある。スサノオの系譜が記載されている、和銅元年(708年)の撰とされる「栗鹿大神元紀」によるものである。系図を文章で説明する書法には古くは二通りあったと田中卓はいう。
この読み方によって一番最初の語句を主客とするか、途中で随時主格が変ってゆくかの違いである。つまり前者の方式で読めば大国主はスサノオの六世になるが、後者の読み方で読めば、大国主はスサノオの子供になるとしている。これが二つの説の生じた理由であるという。
「栗鹿大神元紀」は用字法や形式に古形を残しており、なおかつ記・紀と類似の記事もあるが、記紀や旧事紀に伝えられていない神部氏の古伝をも伝えている。ちなみに同書に見える系譜文では、大国主はスサノオの六世である。この神部氏は祖を大国主として、大田田祢古命の後裔としている。
また因幡の「伊福部氏」の系図では、大巳貴はスサノオの子供とされている。また 饒速日は大巳貴の八世として記載されている。
ただ同氏の系図は綺麗に整理されていて、各世代の名前に遺漏がなく完璧なものになっていることが少し気になる点である。古い系図では海部氏系図と双璧とされている、和気氏の系図では所々虫食い状態のように名前が欠損している。そのことが却って古さを伝えているように思える。
スサノオの子・五十猛を葬った場所が、鬼神神社になり後に伊賀多気神社に移転したというのは「風土記鈔」である。(神々の里)
新編古事記
スサノオと奇稲田姫は、ヤシマジヌミを産んだ。スサノオとオオヤマツミの娘カムオオイチヒメとの間には、大年神、ウカノミタマが産まれた。
ヤシマジヌミはオオヤマツミの娘コノハナチルヤヒメをめとり、フワノモジクヌスヌを産んだ。
フワノモジクヌスヌとオカミの娘ヒカワヒメは、フカフチノミズヤレハナを産んだ。
フカフチノミズヤレハナはアメノツドヘチネを娶ってオミズヌを産んだ。オミズヌはフノズノの娘フテモミミを娶って、アメノフユキヌを産んだ。
アメノフユキヌが、サシクニオオの娘サシクニワカヒメを娶って産んだのは大国主、又の名は大巳貴又の名は葦原色許男、又の名は八千鉾、又の名は宇都志国玉といい五つの名有。