「岸辺にて」:IF1期後パロ / 大人になった刹那とフェルト
彼女はいつもより長く湯に浸かり、そうしてバスタブから体を引き上げた。濡れた体をタオルで拭き、裸のままクローゼットへと歩いて行くと、どの服を着ようかと考えた。いくつかの服を取り出して、鏡の前で合わせた後、やや胸元の空いた、レモンイエローのワンピースにした。それを頭からかぶり、鏡に向かって姿を確認してみた。よく似合っているし、女らしく見えると思う。
化粧はもともとあまりしない方だったが、アイシャドウとマスカラと、唇には派手すぎない色のルージュを引いた。小さなシルバーのピアスを付け、いつも履いているローヒールのサンダルに足を入れる。香水は多くの人に好まれる、爽やかな柑橘系のもの。彼女が香水を付けるなんて、彼は驚くかもしれないなとフェルトは思う。でも、もしかしたら気付くこともないかもしれない。ともすれば、気付いていても気付かないふりをするかもしれない。そのどれもが割合すんなりと想像できたが、結局は空想の域を出なかった。当たり前だ。彼とはもう十年以上会っていないのだから。
十八を過ぎた頃から、美しいと周りの人々に言われるようになった。母親ゆずりのやや眦の上がった大きな瞳に、プロポーションのよい引き締まった体。ピンク色に髪を染める習慣は昔のままだが、艶のある髪質はヴァスティ家の娘によく羨ましがられ、短く切った時にはたいそう残念がられた。瞳の色は、過去に付き合ったことのある男性にこう表現された。「まるで珊瑚礁の海のような色の瞳だね」と。
身支度を終えると、後ろにさがって自分の姿をぐるりと点検してみた。悪くない。フォーマル過ぎず、カジュアル過ぎてもいない。彼女の理想は、彼が思い描いている彼女の成長した姿の範疇から、なるべく逸脱しないことだった。彼をあまり驚かせないように、彼を警戒させないように、という思いからだったが、ばかばかしい努力であることは百も承知だった。どんなことが待ち受けているのかさえも分からないのに。
下を見ると、手が震えていることに気付いた。十代の頃からいくつもの戦場を目にしてきた彼女が臆病になることは滅多になく、職場の友人たちにもよく年不相応だと珍しがられた。同年代の男たちは、たいてい彼女のそういうところに怖気付いて、デートに誘う勇気が出ないまま通り過ぎていった。
バッグと車のキーをとり、ホテルの部屋の鍵を手にした。ベッドに腰を下ろして、何度かそれを眺めてから、指で二回ひっくり返した。ここまで来たんだから。いまあきらめてどうするのと自分に喝を入れた。立ち上がり、扉を開けると、足早に部屋を出て行った。
この温暖な地方の田園風景は、たまらなく美しかった。肥えた土壌で採れる綿花と煙草は、十六世紀から今も変わらずこの土地の景気を活気付けているのだった。町から遠ざかるにつれて、人々を最初にこの土地にひきつけた美しさについて、フェルトは考えた。そして、彼がなぜこの土地で暮らそうと思ったのかということについても。
右側にある太陽は、ちょうど森のこずえに引っかかっていた。コナラの木々から漏れる朝の日差しは、まるで彼の瞳の色のようだった。それを見つめながら、彼女は少しずつ記憶の中の彼に焦点を合わせ始めた。刹那は、いや、ソラン・イブラヒムは、フェルトよりも二つ年上だった。年の割に背は小さかったが、鍛え上げられた強靭な体つきをしていた。くしゃくしゃな黒髪と浅黒い肌は、フェルトとはまるで違っていて、何故かそれに野生的なものを感じていたことを覚えている。当時、二人は戦争をしていて、同じ組織に属する年若い者同士。彼女は母艦のオペレーターを務め、刹那はモビルスーツのパイロットだった。その操縦は未熟で荒削りだったが、日を追うごとにそれが熟練し、洗練されていくのを、フェルトは知っていた。それがあらゆる戦場を生き抜くということの美徳であり、定めであり、同時に悪夢でもあった。十六歳の刹那の手は血にまみれていたが、十四歳の彼女はその手を握っていた。ある戦いで、大切な仲間が何人もこの世界から旅立っていった。ここよりももっと綺麗な場所に行ったのだということを願いながら、二人は抱き合った。そして、それぞれが人生で初めてのセックスを体験した。
そうして、ついに辛く胸を締め付けるような争いが幕を閉じたその時。恒久和平の来訪を喜ぶ仲間たちの中に、刹那の姿はなかった。どこに消えてしまったのか。生きているのか死んでいるのか。十三年経っても分からないままだった。それがつい先日。
懐かしい人物からメールが届いた。読めば、刹那らしき人物の情報を掴んだという。一緒に送られてきたのはある地方紙の小さな記事で、それを読んだフェルトは首を傾げることになる。プランテーション時代の、南部農園風の屋敷。打ち捨てられて半壊同然だったそれが、ある人物によって美しく蘇ったという趣旨の記事だった。この人物が刹那だというんですか? 彼女は電子画面の向こうに立つ、かつての指揮官に問いかけた。エージェントからの確定情報よ、と彼女はわざと懐かしい物言いでフェルトに答えた。
長い直線道路から、小さな川沿いの道へと車を右折した時、ついに遠くの方に目的の建物が見えてきた。周りは美しい森に囲まれ、その屋敷以外に民家は見当たらず、純粋な自然に包まれていた。車は徐行していき、ようやく家の前面をかげらせるナラの木の下に止まった。修復された南部農園風の白亜の建物は、なるほど確かに、記事の写真で見た以上に見事だった。突き出したポーチには一脚の古いロッキングチェアと、小さなテーブルがあり、テーブルの上にはフレンチ・プレスのコーヒーを淹れる道具と、アルコール・バーナーにかけられたポットが静かにお湯を沸かしていた。椅子の傍には古ぼけた小さなマットが落ちていて、白い毛と泥で汚れていた。どうやら犬を飼っているらしい。
建物の中に人のいる気配はなかった。フェルトは屋敷の右側に回り込んだ。昇り始めた陽の光が彼女の目を突き刺す。屋敷の裏手は湖に面していて、なだらかな坂になっている庭の先に、赤いペンキで塗られた小さな小屋が見えた。小屋の傍には桟橋が湖に向かって伸び、水面が朝陽に照らされて白く輝いていた。ふと、フェルトは湖を見下ろしながら気付く。小屋から少し離れたところの湖上で、一艘のカヌーがゆっくりと桟橋に向かって近づいているのを。
逆光にさらされ、カヌーを漕ぐ人物の姿ははっきりと分からない。彼女は足元を気にしながら、湖に向かって歩き始めた。パドルが水面をつかみ、木製のカナディアン・カヌーが柔らかく水を掻き分けていく音だけが、静謐の中に響いていた。犬のシルエットが一匹、カヌーの先頭に誇らしげに立っていた。フェルトは大きく息を吸い込んだ。目の奥がかっと熱くなるのを感じながら、ゆっくりとゆっくりと、桟橋に向かって歩みを進めていく。
くたびれた綿のシャツの上からでも、その人の体の逞しさが見て取れた。彼がパドルを水面に押し当てるたびに、肩から腕にかけての筋肉が躍動し、美しい流線を描いた。何度も何度も、その人はその単調な行為を、飽きもせず、まるで瞑想のように続けている。漕ぐことに夢中になって、この朝方の突然の来訪者の姿には気付いていない。やがて桟橋にカヌーが身を寄せると、岸辺にたつ波紋とさざなみが、ゆらゆらと揺れ、渦を巻きぶつかり合った。ゴールデン・レトリバーは軽快に桟橋の上に飛び立つと、カヌーをフックに繋げている主人に向かってしきりに尾を振っている。桟橋から少し離れたところに立つ彼女と、忙しなく辺りを監視していた犬の目が合った。黄金色のその犬は興奮したように何度か前足を上げ、鼻先を主人に近づけて、そして注意を促した。
「どうした、ノア」
愛犬に構うその声の優しさに、フェルトは胸が締め付けられた。耳に心地よいその声は年を重ねて深みを増したように思えた。ゆっくりと彼が顔を上げる。屋敷の方に目を向けると、そのけやき色の瞳が大きく見開かれる。
「…刹那」
この十三年、ずっと呼びたかったその名前を、彼女はようやく口にした。彼は彼女から視線をそらさずに、カヌーから桟橋に降り立つと、まっすぐに彼女に向かって歩いて来る。
三十歳になった彼は、フェルトの想像よりもずっとずっと大人びていた。よく日に焼けて、肩幅は広く、毎日自然を相手にしている男の雰囲気を持っていた。昔のような周囲の空気をぴりぴりとさせるような用心深さはなく、どこか純朴な農夫のような雰囲気をまとっていた。顔には若い時の鋭さはなく、目元に小さな皺が入っているのを、フェルトは見た。どこをどう見ても、見慣れぬ大人の男だった。
きみは、とかすれた声がそう呼んで、フェルトは小さく頷いた。
「やっと見つけた」
「…フェルト・グレイス」
「ええ。刹那・F・セイエイ」
ゆっくりと、ゆっくりと。彼が彼女に近付いてくる。彼女は右手を差し出す。彼がそれに応える。
そのまま二人は抱き合った。初めは、あの醜い戦争を共に戦い、生き延びた同志に対する抱擁だった。言葉は何もいらない、フェルトはそう思った。十三年という年月は、私たちから多くのものをそぎ落とした。そうして今残っているのは、人生の至上の目的を見つけた喜びと、相手に対する愛しさだ。
十三年の時間の空白が急激に埋まっていくと、彼女の体の柔らかさを知った彼の腕の力が強くなる。何度も読み返した本の背表紙を撫でるように、優しく情熱的な力が、かつての少女を抱いていた。