大祓詞(オオハライノコトバ)①
http://arigatougozaimasu.top/free/ooharai/ooharai.html 【大祓詞(オオハライノコトバ)】より
大祓おおはらい(オオハライ)とは、大だいなる〔(1)偉大いだいな (2)根本こんぽんの (3)優すぐれた (4)威力いりょく有ある (5)すべての時間じかん・空間くうかんにあまねく及およぶ〕祓はらいということです。宇宙うちゅう全体ぜんたいの祓はらいです。
祓はらいには、小しょう義ぎ・狭義きょうぎの祓はらいと根本義こんぽんぎの祓はらいとがあるのです。
小しょう義ぎ・狭義きょうぎの祓はらいとは、水みず・塩水しおみず・麻あさ(あさ)・形代かたしろ(カタシロ)等などを使つかって、罪つみ・穢けがれ・悪あく等などを除のぞき、吉事きちじ・善ぜんを招まねこうとするものです。方便ほうべん的てきな・私的してきな・小ちいさなものです。
根本義こんぽんぎの祓はらいとは、宇宙うちゅう創造そうぞう神しんである伊い邪ざ那岐なぎ命みことの禊祓みそぎはらい(ミソギハライ)です。
伊い邪ざ那岐なぎ命のみことは、禊みそぎぎと祓はらいによって、宇宙うちゅうの組織そしき構成こうせいを、秩序ちつじょと統一とういつのある、一大いちだい調和ちょうわの完璧かんぺきなものにしているのです。禊みそぎぎとは、身みを削そぐ(彫刻ちょうこくのように、無用むようのものを削けずり落おとす)、身みを濯すすぐ(汚よごれを洗い流あらいながす、大だい生命せいめいの流ながれに身みを任まかせる)、即すなわち絶対ぜったい神しんの御心みこころに絶対ぜったい帰一きいつ・随順ずいじゅん・奉仕ほうしすることです。祓はらいとは、自分じぶんの身みに付つけている一ひと切きれのものを投げ捨なげすてる、即すなわち自分じぶんの全すべてを与あたえ尽つくす、自分じぶんの全ぜん能力のうりょくを発揮はっきすることです。
先まず幽界ゆうかい(闇やみの世界せかい)を整理せいり・統一とういつして、光一ひかりいち元げんに輝かがやかして、次つぎに顕けんじ界かい(光ひかりの世界せかい)をも大だい整理せいり・大だい統一とういつして、顕幽けんゆう両りょう界さかいを光一ひかりいち元げんに、一大いちだい統一とういつしているのです。竺つく紫し(ツクシノ)日向ひむか之の(ヒムカノ)橘たちばな小門おど之の(タチバナノオトノ)阿波あわ岐ぎ原はら(アワギハラ)とは、天てん・火か・水すい・地ちの完備かんびしている顕けん界かいの意義いぎです。そこに到いたり、禊みそぎ祓はらうということは、絶対ぜったい神かみの全徳ぜんとくの無限むげんの無限むげんの輝かがやきの根源こんげんに立たって、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん新あらたに、一大いちだい調和ちょうわ・一大いちだい統一とういつの全ぜん大宇宙だいうちゅうを創造そうぞうし続つづけているということです。
根本義こんぽんぎの祓はらい・大おお祓はらいによって、全ぜん大宇宙だいうちゅうは既すでに、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん新あらたに新あらたに、神かみさまの全徳ぜんとくの無限むげんの無限むげんの輝かがやきをもって、一大いちだい調和ちょうわ・一大いちだい統一とういつされているのです。それをそのまま謙虚けんきょに・素直すなおに・感謝かんしゃの心こころで受け入うけいれたら、一いっ切さいの罪つみ・穢けがれは無ないのです。一大いちだい調和ちょうわ・一大いちだい統一とういつの完璧かんぺきな全ぜん大宇宙だいうちゅうに、気付きづかない状態じょうたいを、受け入うけいれない状態じょうたいを、罪つみ・穢けがれというのです。
詞ことば(コトバ)とは、大祓おおはらいの真義しんぎに気付きづかせる為ための言葉ことばです。言葉ことばによって、言葉ことばの力ちからによって、その真義しんぎを理解りかいし・把握はあくし・体感たいかん体得たいとくして、一ひと切きれの罪つみ・穢けがれの無ない自分じぶんに戻もどるのです。『ありがとうございます』の言霊ことだまが、大祓おおはらいの真義しんぎなのです。
すべての意識いしき有ある者ものに対たいして、宇宙うちゅう絶対ぜったい統一とういつ神しん・天照あまてらす大御神おおみかみは、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん新あらたに、全徳ぜんとくの無限むげんの無限むげんの輝かがやきなる玉体ぎょくたいを、与あたえ続つづけているのです。無限むげんの無限むげんの意識いしきある存在そんざいは、受け手うけてです。天照あまてらす大御神おおみかみは、与あたえ手しゅです。受け手うけてはみんな平等びょうどうに、新あらたなる全徳ぜんとくの無限むげんの無限むげんの輝かがやきなる玉体ぎょくたいを受うけ続つづけているのです。受け手うけてはみんな、天照あまてらす大御神おおみかみの御子みこです。天照あまてらす大御神おおみかみの全徳ぜんとくの無限むげんの無限むげんの輝かがやきで一杯いっぱい!です。神かみさまの前まえに立たつ時とき、みんな平等びょうどうなのです。神かみさまに依え怙こ贔屓びいきは無ないのです。みんな平等びょうどうに、同おなじプレゼントを受うけているのです。みんな天照あまてらす大御神おおみかみの真子まこ(マコ)・皇すめ御み孫ま(スメミマ)なのです。
天照あまてらす大御神おおみかみの玉体ぎょくたいとは、最高さいこう表現ひょうげんを頂点ちょうてんにした、無限むげんの無限むげんのチャンネルの放送ほうそう番組ばんぐみの全体ぜんたいでも有あるのです。一ひとつ一ひとつのチャンネル毎ごとに、全ぜん大宇宙だいうちゅうが有あるのです。無限むげんの無限むげんのチャンネルには、無限むげんの無限むげんの全ぜん大宇宙だいうちゅうが有あるのです。受け手うけてである皆みなにとって、無限むげんの無限むげんの全ぜん大宇宙だいうちゅうは、自分自身じぶんじしんそのものなのです。だから全体ぜんたいを自分じぶんと思おもうことも、部分ぶぶんを自分じぶんと思おもうことも、自由自在じゆうじざいにできるのです。
無限むげんの無限むげんのチャンネルの番組ばんぐみを楽たのしむ時ときに、全体ぜんたいを自分じぶんと見みて楽たのしむのも自由じゆうなら、色々いろいろな部分ぶぶんの立場たちばに立たって、種々しゅじゅ様々さまざまな楽たのしみ方かたをするのも自由じゆうなのです。完全かんぜんな自由じゆうと完全かんぜんな平等びょうどうは、神かみさまによって完璧かんぺきに保証ほしょうされているのです。感謝かんしゃを深ふかめて、本当ほんとうに自由自在じゆうじざいな楽たのしみ方かたをするのも、思おもいを積み重つみかさねて、囚とらわれた不自由ふじゆうな楽たのしみ方かたをするのも、本当ほんとうに自由自在じゆうじざいな自分じぶんだからこそ、できることなのです。
大祓おおはらい詞ことばは、低ひくい番組ばんぐみから高たかい番組ばんぐみへと、チャンネルを切り換きりかえる時ときに、大おおいに役やくに立たつものです。中心ちゅうしんを定さだめることによって、調和ちょうわが生うまれるのです。中心ちゅうしんが無なく、混沌こんとんとしているのは、低ひくい番組ばんぐみです。中心ちゅうしんが有あって、調和ちょうわしているのが、高たかい番組ばんぐみです。どんな言葉ことばを使つかっても、その言葉ことば通どおりの番組ばんぐみが、すべて用意よういされているのです。無限むげんの無限むげんのチャンネルの番組ばんぐみというのは、すべてのすべてを尽つくした番組ばんぐみなのです。
一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん新あらたに、神かみさまから受うけ直なおしたすべてが、自分じぶんのものであり、自分自身じぶんじしんなのです。今いま自分じぶんの眺ながめている番組ばんぐみのすべてが、自分自身じぶんじしんなのです。自分じぶんの見みている世界せかいのすべては、自分自身じぶんじしんなのです。すべての部分ぶぶんは、自分じぶんの言葉ことば通どおりに、自分じぶんの意いのままに、それぞれの役割やくわりを演えんじ切きっているのです。全体ぜんたいを自分じぶんと感かん受うけすれば、全体ぜんたいが意いのままになるのです。部分ぶぶんを自分じぶんと感かん受うけすれば、部分ぶぶんが意いのままになるのです。感謝かんしゃを深ふかめてゆけば、全体ぜんたいが自分じぶんになって来くるのです。思おもいを積み重つみかさねて行いくと、小ちいさな部分ぶぶんが自分じぶんになって来くるのです。感謝かんしゃに生いきれば、万事ばんじ如意にょい自在じざいなのです。思い通おもいどおりに生いきようとすれば、万事ばんじ不如意ふにょいになって来くるのです。
「高天原(たかあまはら)に神(かみ)留(つまり)坐(ま)す」
真の神さまは、高天原(全大宇宙)と成って、一切所に充満しているのです。
真の神さまとは、唯一無二絶対の、すべてのすべてなる神さまです。
絶対は、相対のすべてを、渾然と一つに融和して保持しているのです。
絶対には、大きい絶対と小さい絶対があるのです。大きい絶対は、小さい絶対と相対のすべてを包容しているのです。
絶対神とは、相対を(表現を)生み成す、絶対の(根源の)働きです。また相対を含有する絶対のすべてです。
絶対神は、高天原という内実を完備しているのです。
また”た”のみをみれば夕とは対照力という言霊であり、それば順流に展開してプラスとして前へ進む左(さ)となり、燃え上がる火となり、その流れは左転順流の流れとなり、この世の方角で言えば東北の鬼門(きもん→かみ門→氣門)の方角より来る響き(光)であり、この世的には”父”なる響きです。
そして”か”のみを見ればカは輝くという言霊であり、マイナスとして退く右(水極り→みぎり→幽→ゆう)となり、大地すべてを覆いつくす水となり、その流れは右転逆流の流れとなり、この世の方角で言えば西南の逆鬼門の方角より鳴り響く声(光)であり、この世的には”母”なる響きです。
古来、父上のことを「タタさま」と呼び、母上のことを「カカさま」と呼び習わすのもこれから来ているのです。
また、”ア”は根元の本心世界から溢れ現れ出る言霊のことであり、”マ”は全→まったきのま、まあるいのまで球の言霊であり、”ハ”ははははと笑うように無限の無限の喜びを表わし生命を輝き開く言霊であり、”ラ”はラララと歌うように音階が螺旋に響くように現れる螺旋の言霊であり、これを「たかあまはら」と総称するときは全大宇宙の事宇宙絶対統一神の創造のひびきであると言えるのです。
それゆえに全大宇宙の大中心地点を高天原と示すこともでき、その義は宇宙絶対統一神が宇宙に向かつて創造の響きを発する場所であると言えるのです。これを「天のタカアマハラ」と称するならば当然「地の高天原」と称することも出来るのです。具体的には一家の小高天原は神棚に祭るご神体であり、肉体の高天原は、臍下丹田と言うことになるのです。
”神つまります” かみは日月、陰陽、水火、霊体等の響きであり。陽と陰、火水(かみ)の二元相合して神となる。皇典にいはゆる産霊(むずび)とはこの正反対の二元の結合を指す。日月地星辰、神人その他宇宙万有一切の発生顕現はことごとくこの神秘なる産霊の結果(紋理→もんり)の働きにそわないものは無い。
また”つまり”とはすべてに満たされているという充実の義で、押し詰まったという鎮座の義ではないのです。
”ます”は天照大御神ここに在しますのましますと同じ意味であります。
高天原とは、全大宇宙(すべてのすべて)のことです。順流のタカアマハラと逆流のラハマカタの二つの要素を具備し、また相(そう)と象(しょう)に分かれるのです。
相(そう)とは、絶対の順流のタカアマハラと逆流のラハマアカタです。
象(しょう)とは、現象(相対)の順流のタカアマハラと逆流のラハマアカタです。
順流のタカアマハラとは、神力(働き)です。
宇宙創造の三大根本神力です。即ちタカアマハラ神力・タアマハラ神力・カアマハラ神力の三つです。タカアハラ神力は、中心より外に向かう遠心的な、無限大に発射し伸展する、螺旋状に動作し転回する、神力です。タアマハラ神力は、外から中心の向かう求心的な、無限小に収縮し凝集する、螺旋状に動作し転回する、神力です。カアマハラ神力は、すべての神力を、円滑に自由自在に完璧に交差し交流し、結び合わす、螺旋状に動作し転回する、神力です。
逆流のラハマアカタとは、形状です。三つの種類の螺旋状の波です。即ちラハマアカタ・ラハマアタ・ラハカタです。ラハマアカは、完・全・多等の螺旋状の波の形状です。ラハカタは、片・半等の螺旋状の波の形状です。
絶対神は、絶対と相対の両方の、高天原という、いのち・かたち・ひびきを具備した全大宇宙そのものなのです。高天原とは、絶対神の内実を、根本的に・概要的に説明する言葉なのです。真の神は、独在なのです。真の神の他には、何ものも存在しないのでです。全大宇宙には、「ありがとうございます}という真の神の働きが、満ち渡っているのです。
真(まこと)の神さまは、高天原(たかあまはら)(全大宇宙(ぜんだいうちゅう))と成(な)って、一切所(いっさいしょ)に充満(じゅう
まん)しているのです。
真(まこと)の神さまとは、唯一(ゆいいつ)無二(むに)絶対(ぜったい)の、すべてのすべてなる神さまです。
絶対(ぜったい)は、相対(そうたい)のすべてを、渾然(こんぜん)一(ひと)つに融和
(ゆうわ)して保持(ほじ)しているのです。
絶対(ぜったい)には、大(おお)きい絶対(ぜったい)と小(ちい)さい絶対(ぜったい)が
あるのです。大(おお)きい絶対(ぜったい)は、小(ちい)さい絶対(ぜったい)と相対
(そうたい)のすべてを包容(ほうよう)しているのです。
絶対神(ぜったいしん)とは、相対(そうたい)を(表現(ひょうげん)を)生(う)み成
(な)す、絶対(ぜったい)の(根源((こんげん)の)働(はたら)きです。また相対(そう
たい)を含有(がんゆう)する絶対(ぜったい)のすべてです。
絶対神(ぜったいしん)は、高天原(たかあまはら)という内実(ないじつ)を完備(を
かんび)しているのです。
また”た”のみをみれば夕とは対照力という言霊であり、それば順流に展開してプラスとして前へ進む左(さ)となり、燃え上がる火となり、その流れは左転順流の流れとなり、この世の方角で言えば東北の鬼門(きもん→かみ門→氣門)の方角より来る響き(光)であり、この世的には”父”なる響きです。
そして”か”のみを見ればカは輝くという言霊であり、マイナスとして退く右(水極り→みぎり→幽→いう)となり、大地すべてを覆いつくす水となり、その流れは右転逆流の流れとなり、この世の方角で言えば西南の逆鬼門の方角より鳴り響く声(光)であり、この世的には”母”なる響きです。
古来、父上のことを「タタさま」と呼び、母上のことを「カカさま」と呼び習わすのもこれから来ているのです。
また、”ア”は根元の本心世界から溢れ現れ出る言霊のことであり、”マ”は全→まったきのま、まあるいのまで球の言霊であり、”ハ”ははははと笑うように無限の無限の喜びを表わし生命を輝き開く言霊であり、”ラ”はラララと歌うように音階が螺旋に響くように現れる螺旋の言霊であり、これを「たかあまはら」と総称するときは全大宇宙の事宇宙絶対統一神の創造のひびきであると言えるのです。
それゆえに全大宇宙の大中心地点を高天原と示すこともでき、その義は宇宙絶対統一神が宇宙に向かつて創造の響きを発する場所であると言えるのです。これを「天のタカアマハラ」と称するならば当然「地の高天原」と称することも出来るのです。具体的には一家の小高天原は神棚に祭るご神体であり、肉体の高天原は、臍下丹田と言うことになるのです。
”神つまります” かみは日月、陰陽、水火、霊体等の響きであり。陽と陰、火水(かみ)の二元相合して神となる。皇典にいはゆる産霊(むずび)とはこの正反対の二元の結合を指す。日月地星辰、神人その他宇宙万有一切の発生顕現はことごとくこの神秘なる産霊の結果(紋理→もんり)の働きにそわないものは無い。
また”つまり”とはすべてに満たされているという充実の義で、押し詰まったという鎮座の義ではないのです。
”ます”は天照大御神ここに在しますのましますと同じ意味であります。
高天原(たかあまはら)とは、全大宇宙(ぜんだいうちゅう)(すべてのすべて)のこ
とです。順流(じゅんりゅう)のタカアマハラと逆流(ぎゃくりゅう)のラハマカタの
二(ふた)つの要素(ようそ)を具備(ぐび)し、また相(そう)と象(しょう)に分(わ)かれ
るのです。
相(そう)とは、絶対(ぜったい)の順流(じゅんりゅう)のタカアマハラと逆流(ぎゃ
くりゅう)のラハマアカタです。
象(しょう)とは、現象(げんしょう)(相対(そうたい))の順流(じゅんりゅう)の
タカアマハラと逆流(ぎゃくりゅう)のラハマアカタです。
順流(じゅんりゅう)のタカアマハラとは、神力(しんりき)(働(はたら)き)です。
宇宙創造(うちゅうそうぞう)の三大根本(さんだいこんぽん)神力(しんりき)です。
即(すなわ)ちタカアマハラ神力(しんりき)・タアマハラ神力(しんりき)・カアマハラ
神力(しんりき)の三(みっ)つです。タカアハラ神力(しんりき)は、中心(ちゅうしん)
より外(そと)に向(む)かう遠心的(えんしんてき)な、無限大(むげんだい)に発射(は
っしゃ)し伸展(しんてん)する、螺旋状(らせんじょう)に動作(どうさ)し転回(て
んかい)する、神力(しんりき)です。タアマハラ神力(しんりき)は、外(そと)から
中心(ちゅうしん)の向(む)かう求心的(きゅうしんてき)な、無限小(むげんしょう)に
収縮(しゅうしゅく)し凝集(ぎょうしゅう)する、螺旋状(らせんじょう)に動作(ど
うさ)し転回(てんかい)する、神力(しんりき)です。カアマハラ神力(しんりき)は、
すべての神力(しんりき)を、円滑(えんかつ)に自由自在(じゆうじざい)に完璧(か
んぺき)に交差(こうさ)し交流(こうりゅう)し、結(むす)び合(あ)わす、螺旋状(
らせんじょう)に動作(どうさ)し転回(てんかい)する、神力(しんりき)です。
逆流(ぎゃくりゅう)のラハマアカタとは、形状(けいじょう)です。三(みっ)つの
種類(しゅるい)の螺旋状(らせんじょう)の波(なみ)です。即(すなわ)ちラハマアカタ
・ラハマアタ・ラハカタです。ラハマアカは、完(かん)・全(ぜん)・多(た)等(とう)の
螺旋状(らせんじょう)の波(なみ)の形状(けいじょう)です。ラハカタは、片(かた)・
半(はん)等(とう)の螺旋状(らせんじょう)の波(なみ)の形状(けいじょう)です。
絶対神(ぜったいしん)は、絶対(ぜったい)と相対(そうたい)の両方(りょうほう)の、
高天原(たかあまはら)という、いのち・かたち・ひびきを具備(ぐび)した全大宇宙
(ぜんだいうちゅう)そのものなのです。高天原(たかあまはら)とは、絶対神(ぜった
いしん)の内実(ないじつ)を、根本的(こんぽんてき)に・概要的(がいようてき)に説明
(せつめい)する言葉(ことば)なのです。真(まこと)の神さまは、独在(どくざい)なの
です。真(まこと)の神さまの他(ほか)には、何(なに)ものも存在(そんざい)しないので
です。全大宇宙(ぜんだいうちゅう)には、「ありがとうございます}という真まこと)の
神さまの働(はたら)きが、満(み)ち渡(わた)っているのです。