大祓詞(オオハライノコトバ)⑦
http://arigatougozaimasu.top/free/ooharai/ooharai.html 【大祓詞(オオハライノコトバ)】より
「大倭日高見(おおやまとひたかあみ)の国(くに)を、安国(やすくに)と定奉(さだめたてまつり)て、下(した)つ磐根(いわね)に宮柱太敷立(みやはしらふとしきたて)高天原(たかあまはら)に千木(ちぎ)高知(たかしり)て皇御孫(すめみま)の命(みこと)の瑞(みづ)の御舎(みあらか)仕奉(つかへま つり)て、天(あめ)の御蔭(みかげ)日(ひ)の御蔭(みかげ)と隠(かくりまし)て」大倭日高見(おおやまとひたかあみ)の国(くに)とは、一大統一(いちだいとう
いつ)・一大調和(いちだいちょうわ)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きで一杯(いっぱい)!の国(くに)です。即(すなわ)ち最高番組(さいこうばんぐみ)・最高理想(さいこうりそう)の世界(せかい)・常楽我浄(じょうらくがじょう)の世界(せかい)です。
安国(やすくに)と定奉(さだめまつり)てとは、不動(ふどう)の中心(ちゅうしん)に一大統一(いちだいとういつ)された一大調和(いちだいちょうわ)の国(くに)と、しっかりと見定(みさだ)めて、ということです。
下(した)つ磐根(いわね)に宮柱(みやはしら)太敷立(ふとしきたて)とは、この地上(ちじょう)に、神(かみ)さまの全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きで一杯(いっぱい)!の全大宇宙(ぜんだいうちゅう)(宮(みや))が、光(ひかり)の太柱(ふとはしら)として降(お)り立(た)つことです。実物(じつぶつ)(本物(ほんもの))の太陽(たいよう)は、地球(ちきゅう)から遠(とお)く離(はな)れて存在(そんざい)しているのです。その太陽(たいよう)の光(ひかり)が、地球(ちきゅう)の大気圏(たいきけん)に入(はい)ると乱反射(らんはんしゃ)を起(お)こして、擬似光体(ぎじこうたい)としての太陽(たいよう)が生(う)まれるのです。それと同(おな)じように、無限(むげん)の無限(むげん)輝(かがや)きで一杯(いっぱい)!
の姿(すがた)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)・全大宇宙(ぜんだいうちゅう)が、厳然(げんぜん)と実在(じつざい)しているのです。
高天原(たかあまはら)に千木(ちぎ)高知(たかしり)てとは、高天原(たかあまはら)(全大宇宙(ぜんだいうちゅう))は入(い)れ子(こ)構造(こうぞう)の全大宇宙(ぜんだいうちゅう)となって、無数(むすう)に無限(むげん)に伸展(しんてん)しているということを知(し)って、ということです。即(すなわ)ち真実(しんじつ)の高天原(たかあまはら)の縮図(しゅくず)・模型(もけい)として、この世(よ)の高天原(たかあまはら)が現(あらわ)れているのです。
皇御孫(すめみま)の命(みこと)の瑞(みづ)の御舎(みあらか)仕奉(つかへまつり)てとは、皇御孫(すめみま)即(すなわ)ち無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きで一杯(いっぱい)!の玉体(ぎょくたい)、即(すなわ)ち瑞々(みずみず)しい宮殿(きゅうでん)、即(すなわ)ち全大宇宙(ぜんだいうちゅう)なのです。この皇御孫(すめみま)の中(なか)には、八百万(やおよろず)の神々(かみがみ)即(すなわ)ち無限(むげん)の無限(むげん)の神々(かみがみ)が奉仕(ほうし)しているのです。
瑞々(みずみず)しいという言葉(ことば)は、美(うつく)しい・麗(うるわ)しい・素晴(すば)らしい・素敵(すてき)な・生成発展(せいせいはってん)の・新生(しんせい)する・無限(むげん)に新(あたら)しい・永遠(えいえん)に栄(さか)える・おめでたい言葉(ことば)です。即(すなわ)ち宇宙(うちゅう)は、一瞬一瞬新(いっしゅんいっしゅんあら)たに新生(しんせい)する、荘厳(そうごん)極(きわ)まり無(な)き姿(すがた)なのです。
天(あめ)の御蔭(みかげ)日(ひ)の御蔭(みかげ)と隠(かくりまし)てとは、皇親(すめおや)は天(あめ)の如(ごと)くにすべてを抱擁(ほうよう)し、日(ひ)の如(ごと)くにすべてに慈愛(じあい)を投(な)げかけているのです。皇親(すめおや)は常(はつね)に、謙虚(けんきょ)に謙虚(けんきょ)に、蔭(かげ)に蔭(かげ)に隠(かく)れて、押(お)しつけること無(な)く、恩(おん)きせがましく無(な)く、正体(しょうたい)(姿(すがた)を隠(かく)して、守(まも)りに護(まも)り続(つづ)けているのです。そして安国(やすくに)と平(たいら)けく知所食(しろしめせ)すのです。お蔭様(おかげさま)とは皇親(すめみおや)のことなのです。皇親(すめみおや)のお蔭(おかげ)で、皇親(すめみおや)の働(はたら)きによって、全大宇宙(ぜんだいうちゅう)のすべてのすべては、無限(むげん)の無限(むげん)の幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)!に生(い)かされているのです。皇親(すめみおや)の御恩(ごおん)に対(たい)しては、一瞬一瞬(いっしゅんいっしゅん)、無限(むげん)の無限(むげん)の感謝(かんしゃ)を捧(ささ)げ続(つづ)けても、まだまだ足(た)りないものなのです。それほど多(おお)くの無限(むげん)の無限(むげん)の恩恵(おんけい)を与(あた)えられていながら、不平(ふへい)・不満(ふまん)・不足(ふそく)・愚痴(ぐち)を並(なら)べ立(た)てるのは、無礼千万(ぶれいせんまん)・万死(ばんし)に値(あたい)する・逆鱗(げきりん)に触(ふ)
れる、傲慢極(ごうまんきわ)まりない態度(たいど)なのです。