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瀬織津姫と天照大御神

2020.10.27 14:20

Facebook・木村 正治さん投稿記事

いにしへの風景・・・・・。瀬織津姫と天照大御神はかくの如く夫婦として語らっていたことでしょう。

古事記、日本書紀には一切出てこない存在しないことにされた瀬織津姫。

瀬織津姫の存在を日本人が知ることが日本の本来の姿を思い出すことになると思います。

瀬織津姫とは天照大御神の妻でした。皇后だったと言って良いのかも知れません。

天照大御神の妻だったということから分かるように、天照大御神は男だったのが事実です。

古事記や日本書紀で天照大御神は女神だとされ、千年以上も日本人の大多数は天照大御神は女神だったと信じ込まされてきました。

天照大御神が女神だったことに捏造するために妻である瀬織津姫の存在自体が封印されてきたのです。

時の為政者にとって天照大御神が男だったという事実が都合が悪く、どうしても女神だったことに捏造しなければならなかった理由は何でしょうか?

諸説ありますので私の口から断言することはしないでおこうと思います。

しかし真実はいくら権力者が封じても抹消しても世の人々は何らかの形で伝承、継承、伝え守っていくものです。

様々な方々が私に教えてくれますが、全国随所に瀬織津姫を祀った祠や神社があります。

更には岩手県北上地方では瀬織津姫の祭りを行っているとのお知らせを頂きました。

これから時間を見つけて各地の瀬織津姫を祀る祠や神社を訪れてみたいです。

瀬織津姫と天照大御神とご夫婦揃って初めて本来の正しい姿です。

瀬織津姫がこれから日本を祓い清めてくださることと思います。

瀬織津姫降臨す。

皆さま、瀬織津姫を想いましょう。


https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201407080000/ 【天照大神は男性である。】 より

天照大神は男性である。

以下、ウィキペディア等を引用しています。

1.天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では ただ一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)と言うところがあることから、女性神と見る見方が現代では優勢である。

ある方の疑問

近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の姿をしています。作られたのは江戸時代と言いますし、その寺には天皇の墓や国宝もあるので嘘を書いているとも思えないのですが・・・。

 天照大神の原型は「男神」であったと考えられる。江戸時代には荻生徂徠・山片蟠桃が天照大神男神説を唱え、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸義昭氏などに男神説が見られる。

2.「嫌なことがあったら引きこもるから天照大神は女」という意見は推論にすらなっていない。もし引きこもりが女の特徴なら現代社会のヒキニートはどうして男のイメージが強いのか。古代の文献に「女は嫌なことがあるとすぐに引きこもる」とでも書いてたのだろうか。

3.地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。 まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、 さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓を手にした。 そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇したのである。

「戦う時は女も男の格好をするのが古代の風習」であったとは聞いたことがない。

4.天岩屋戸で裸体に近いアメノウズメの踊りを覗くのは、ふつうに考えれば男神の欲情である。天照大神が天岩戸から顔を出したのはアメノウズメの裸踊りであるが、女が女の裸体に興味示すだろうか。男だから覗いたんじゃないだろうか。まわりの者は天照大神が男性だと判っていたからアメノウズメに裸踊りをさせた。

5.日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼んでいる。日本書紀においては、男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならないはずである。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。

6.神宮へ奉納する御衣は男性用

  平安時代、すでに大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事を言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。

7.伊勢神宮の内宮の本殿真下にあるという高さ1mほどの「心の御柱」(天の御柱)は祭神が男神であることを示すものとされる。この社殿を造るときには、最初に御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火を焚いて秘密神儀を行うといわれる。これは、天の御柱を「男根」と考え、その周りを女が踊り回ることが想像される。すなわち、男神・天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられるのである。

8.わが国の天孫族の上古祖系については、『斎部宿祢本系帳』などに見られるが、その重要な系図の天照大神にあたる位置の者には「天底立命」と記されており、すべて男系でつながる系譜となっている。日本の古代氏族について、『姓氏録』など各種の系譜資料からみても、女性を始祖として掲げる氏は皆無である。

9.京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性のお姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町では伝えられるとおりの伝統を守っている。

10.江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。

11.男性と記した古書多数

 明治以前にはアマテラスはさまざまな姿で描かれていた。たとえば『源平盛衰記』では衣冠束帯に身をかためた貴人の男性として出てくるし、室町時代の三十番神図には烏帽子をかぶった狩衣姿で笏をもっている。中世の『日本書紀』注釈書である「中世日本紀」でもたいていは男性神として描かれる。

12 天照大神の別名の大日孁貴神、大日女尊、大日女は藤原氏による創作である

 もともと卑弥呼は日女命であるが、神社では日女命に稚を付けて稚日女尊とし、さらに稚日女尊を若日孁尊とも書き換えている。

 神戸の生田神社では「稚日女尊は『若々しい日の女神』の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名」とする。また鳥羽の伊射波神社では「稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われる」とする。

 若日孁尊は天照大神のご幼名あるいは分身であるから、天照大神の別名を大日孁貴神、大日女尊、大日女とし女性のごとく書き表す神社もある。

 「稚日女尊は天照大神のご幼名あるいは分身である」とするのは一部の神社だけであり他にそのことを記する文献はない。これも藤原氏の神社ネットワークによる創作である。

13  私見

 以前、「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」を倭姫命(卑弥呼)が平定するのに天照大神が男神でなければ効果がない、ことを根拠に男神であるとした。そのほかにも、卑弥呼はその後も生き続けていたのに箸をついて死んだことにした、稲氷命は新羅の始祖であることがほぼ確実であるにも関わらず神武天皇と一緒に熊野に行きそこで死んだことにしている、大国主命は大己貴神の名前で国譲りの時に入水自殺したことにしている、などから、日本書紀は史実を積極的に改ざんしている歴史書であると思われる。日本書紀は信じるに値しない。従って、スサノオが「お姉さん」と言ったのも改ざんである。

 九世紀に藤原氏は始皇帝の子孫だという主張をしている。藤原氏は始皇帝を騙した徐福を蔑んでみていた。八世紀の日本書紀編纂にその考えが表れた。歴代の天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由もこれでわかる。藤原氏は、天照大御神が日本で生まれた純粋な日本人ではない、ことも知っていた。天皇家の始祖が徐福と分かれば、藤原王朝の主張する万世一系が成り立たなくなるから、天照大御神が徐福であることを消そうとした。

 徐福=スサノオ説や徐福=神武天皇説は聞いたことがあるが、いずれも時代が合わないとして、少数説に留まっている。しかし、神武天皇即位年600年水増し説に立つと徐福=スサノオ説は時代がほぼ合致することになる。しかし、人望の点でスサノオが徐福に比定できるであろうか。もし、天照大神が男性であったならば、これほど人望(皆の中心であり、皆が着いてくる)のある者は他にいない。天照大御神が徐福(3000人を連れてきた長である)にぴったりであり、時代も神武天皇即位年600年水増し説に立つと符合する。不比等は「600年水増しせよ」と言ったのであり、「660年水増しせよ」と言ったのではない。不比等は細かい操作は百済史官に任せたので、どこをどういう風にいじったかは、調べるだけ無駄である。

 徐福は道教の方士であり、同じく道教(鬼道)を信奉していた卑弥呼のルーツである。徐福は不老長生を追い求めてきたが、卑弥呼は長生を実践し、アワビなどの海産物を食し、百歳前後は生きていたと思われる。仙薬も試したかもしれないが、直井裕氏のごとく百二十歳まで生きたかどうかはわからない。卑弥呼が大事にしていた白石とは、焼津で使用した石英の火打石のことである。伊勢神宮や伊射波神社で今でも大事にされている。


https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201911220000/?scid=we_blg_pc_lastctgy_1_title

【天照大神は徐福であった】より

​1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。悔しいが、これが真実と思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。崇神天皇も卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。崇神天皇は道教が母体の神道を初めて全国に創設した。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫であった。倭迹迹日百襲姫も道教(鬼道)の祭祀をしていた。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、これも理由の一つであった。​

2 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八

 国立国会図書館デジタル書籍より

 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八に「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。私は海中の大神に会った。『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』と答えた。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』といった。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き(即從臣東南至蓬莱山)、そこで霊芝でできた宮殿や(見芝成宮闕)、銅の色で龍の形をした使者がいて(有使者銅色而龍形)、光が天を照らしているのを見た(光上照天)。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』と問うた。すると海神は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました、と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。

 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し東南の大山に連れていかれ大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。徐福は平原・広沢を得て王となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。

 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(天照大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)・広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。

3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が2度目に出発したとき「連弩(連発武器)を積み込んでいた」と記されている。

 「古事記」には「スサノオの様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、淡雪を蹴散らして、威勢よく雄(男)叫びをあげて待ち構え、「何のために上ってきた」と問いかけた」とある。

 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)である。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。

4 天照大神のいた高天原は蒜山高原であった。

 奈良の葛城や宮崎県の高千穂にも高天原の伝承が残るが藤原氏が創作したテーマパークである。富士山高天原も藤原氏が創作したものである。北九州が高天原という説もあるがこれは天孫族が大陸に渡るために北九州に留まることがあったので天孫族の痕跡が残っているのであり、本当の高天原は蒜山高原であった。蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。戦前では佐竹氏、戦後は田村誠一氏、Vetty氏は蒜山高天原説を唱える。

5 徐福一行(紀元前210年の第2次)は辰(秦)韓より次々と伯州(鳥取県中西部)に結集した。徐福は伯耆富士(大山)をこれぞ蓬莱山であると遥拝したが、東に行くにつれてその形を見失い、小さな湾(北栄町の葦原の中津)に到着し、宇記島・原(北栄町の島集落と原集落)に上陸した。その後、蒜山に上がり蒜山周辺の山々に上がって仙薬を探し、周辺の山々を「仙」(せん)と名付けた。伯耆国に到着した徐福一行は出雲に引き返していない。中国地方で一番高い山のある大山・蒜山にのぼり仙人や仙薬を探し、神仙を求めた。蒜山周辺の50くらいの山は「さん」ではなく「せん」(仙)と読ませる。徐福は道教の方士であり、「山」を仙薬のある神仙に見立てて「仙」(せん)と名付けた。蒜山高原(瀛州)は仙人(真人)の居るところであり、徐福一行の目的地であった。倉吉に皇居のあった天武天皇は伊邪那岐を表わす最高位の「瀛真人」であった。

 徐福が富士高天原で記録したとされる宮下文書の原型は伯耆富士(蓬莱山)に隣接する蒜山高原(瀛州)で書かれたものである。

6 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は葦原中津国や因幡にも上陸した。約束の地である葦原中津国に準王たちが上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲神族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。松江の南部(熊野大社)に拠点のあった準王一族(出雲神族)を天穂日は監視していた。出雲神族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであったという。天穂日は出雲神族の女を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が長髄彦の妹を娶ったのも天穂日の仲介によるものと思われる。準王たち(八十神=出雲神族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少であった準王(タケヒラドリ)に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。それ以来、出雲神族の代々の王(長髄彦)を大穴牟遅と呼ぶようになった。

7 天照大神は因幡の霊石山などに伝承が残るので、因幡国(鳥取県東部)には出向いている。しかし、「義楚六帖」の記述より亡くなったのは倭国(鳥取県中部)内である。徐福(天照大神)が亡くなった(紀元前180年)のは、丹後ではなく、倭国(鳥取県中部)であった。

 八女市の童男山古墳群は27基の円墳であるが、徐福の古墳と言われている。新宮市徐福公園にあった徐福の重臣7人の墓も円墳でつくられていた。

​​ 童男山古墳の伝説や新宮市の徐福の重臣7人の墓は藤原氏が作ったものであるが、京都の藤原氏は徐福たちの墓が円墳であり奈良時代まで都が鳥取県中部にあったことを明治になるまで知っていた。

 鳥取県中部に古墳は2395基発掘されているが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。

 奈良の藤ノ木古墳は蘇我善徳大王、キトラ古墳は高市大王、高松塚古墳は忍壁大王の墓である。