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粋なカエサル

「宗教国家アメリカの誕生」4 コロンブスからメイフラワー号(2)「ヴァージニア」

2020.10.28 02:05

「宗教国家アメリカの誕生」4 コロンブスからメイフラワー号(2)「ヴァージニア」

 北アメリカで先住民が遭遇したヨーロッパ人は、スペインに始まり、17世紀に入ると、フランス、オランダ、イギリスの各国に及んだ。

 スペインと同じカトリック国のフランスは、フランソワ1世の時代、カルロス1世のスペインに対抗して1524年にヴェラッツァーノが北米沿岸に航海し、さらにジャック・カルティエが現在のカナダ北西部、セントローレンス湾岸などを探検して1534年にその地を「ヌーヴェル・フランス(ニュー・フランス)」と名付け、フランスの領有を宣言した(「カナダ」や「セントローレンス川」もカルティエによる命名とされる)。その後、ヌーヴェル・フランスの領域は五大湖地方、ミシシッピ川流域へと拡大し、ヨーロッパで需要の大きかったビーバーの毛皮の交易などを先住民とおこなったが、厳しい気候もあって入植は必ずしも順調に進展しなかった。

一方、イギリスは、テューダー朝を開いたヘンリー7世の時代、自国産毛織物の市場をアジアに求めて北米の北端を回る「北西航路」を開拓すべく、早くも1497年と98年にジョン・カボットが北米沿岸などへ航海・探検を行い、これがのちに北米植民地領有の根拠ともされた。また1558年に王位に就いたエリザベス一世は、父ヘンリー8世が創始したプロテスタント教会制度たるイギリス国教会を定着させ、カトリックを国是とするスペインやフランスと対抗した。

エリザベスの時代、私掠船(国から特許状を得て、主として戦時に敵国船の略奪が認められた民間船)船長のマーティン・フロビッシャーが1570年代後半、北西航路を求めて探検し、やはり同航路の存在を確信したハンフリー・ギルバートは1583年、ニューファンドランド島に到達して、これを最初の英領植民地とした。さらに私掠船船長フランシス・ドレイクは、スペインの植民地や船舶を掠奪しつつ、マゼラン海峡や喜望峰を回って1580年、イギリス人として初めて世界周航に成功している。

北西航路の探求は後の時代まで続くが、しだいに北米大陸への植民を重視する勢力が台頭し、ギルバートの異父弟でエリザベス1世の寵臣ウォルター・ローリーは、女王の勅許をえて1584年から複数回、探検・植民のプロジェクトを推進した。そしてその地を女王(「ヴァージン・クイーン【処女王】」)にちなんで「ヴァージニア」と名付けた。

かくしてヴァージニアの地で、イギリス領植民地の歴史が始まる。このノースカロライナ州の沿岸に位置するロアノーク島こそ、ローリーが進めたヴァージニア探検・植民プロジェクトの核であった。1585年、入植がはじまり、1587年には100名以上の植民団が渡航。しかしその後、スペインとの外交関係が悪化の一途をたどり、再渡航はアルマダ海戦にイギリスが大勝利を収めた後の1590年。しかし、上陸した人々が目にしたのは無人の廃墟。入植者全員が跡形もなく消滅しており、かくしてロアノーク植民地は「失われた植民地」と呼ばれることになる。

しかし、このイギリスの植民事業には、大航海時代とは大きく異なった特徴がある。それは、農耕と定住。他の国々より1世紀も出遅れたイングランド人は、もはや「黄金郷」での一獲千金を夢見るのではなく、腰を据えて土地を耕し、辛抱強くその開墾の実を待つ定住型の植民地を建設しなければならなかった。その資金も、王室からの財政援助をあてにすることはできず、市民からの長期的な共同出資によって調達された。そのため、植民事業の実際的な経営についても、それまでのように特定個人のカリスマに依存するのではなく、事業を請け負う会社経営の手法がとられたのである。

 1603年、エリザベス1世がなくなりジェイムズ1世が即位。このジェイムズ1世の特許状を得て作られた「ヴァジニア会社」は1606年、144人の入植者をアメリカに送った。アメリカにたどり着いた104人の入植者は、ジェイムズ川のほとりに定住し、そこを「ジェイムズタウン」と名付けた。

1614年ごろのジェイムズタウン

ジェイムズタウンの位置

ジョン・ド・クリッツ「ジェイムズ1世」プラド美術館

テオフィル・ハメル「ジャック・カルティエ」

ジャック・カルティエ 第二次航海(1535年~1536年)の航路