丹生の民俗
http://kamnavi.jp/ny/minzoku.htm 【丹生の民俗】より
朱の呪術
血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
朱の原料
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。
丹生氏と丹生都比売
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。
施朱の風習は古墳時代前半には終わり、更に金製品が渡来し、国内でも金製品や鍍金製品が作られ始めた。金と水銀に溶かし込んだアマルガムを銅などに塗り、これに熱をかけて水銀を蒸発させると、表面に金がしっかりと食い込む。この時代になると水銀が必要になってくる。6世紀の頃である。
辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
煉丹術
古代中国での煉丹術の意味は不老不死である。漢の武帝に方士・李少君の上奏文に「竈を祀れば鬼神を呼ぶことができる。鬼神を呼べば、丹砂を黄金に変えることができる。 その黄金を食器とすれば寿命が延びる。さすれば海中の蓬莱山の仙人にも会える。仙人に会って封禅の祭りを行えば不死がえられる。
鬼神とは天神地祇を指し、これは竈の神を祀ることが斎戒儀礼となり、鬼神を呼び寄せるこになる。
煉丹術とは練金術を言う。水銀と他の金属とのアマルガムを作り、金を採取することを言う。
金は朽ちることのない。水銀は変化する。この二種の金属を飲んで、人の身体を煉ることで、不老不死を得るの言うこと。(抱朴子金丹篇)丹砂から製錬した水銀は、水銀自身と金の採取の二重の意味で貴重なものであった。
邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
朱の意味 日本と西洋
万葉の時代、朱と白が祖先達の愛好する色彩であり、今日の我々の意識にも入っている。国旗の日の丸は言うにおよばず、巫女の装束、祝事の紅白の垂れ幕がその典型であろう。 歌人は、朱・赤の色を〈にほふ〉〈てる〉〈ひかる〉〈はなやか〉と詠い、白〈きよし〉〈さやけし〉〈いちしろく〉と詠じた。
赤という字は,大と火を組み合わせたもので、日本語の〈あか〉は〈あけ〉と同じで (夜明けの〈あけ〉,あかつきの〈あか〉),太陽と結びつく。
一方、赤を意味するヨーロッパ語の多く (red, rot,rouge,……) は,血を語源とする。流石に殺し合いの民を思わす。
朱の意味 亜細亜大陸
大陸の字典《説文 (せつもん) 解字》によると,赤は〈南方の色なり〉という。 《淮南子 (えなんじ) 》天文訓は天の五星を説明して〈南方は火なり,その帝は炎帝……その獣は朱鳥〉という。 仏座や墓室に見られる四神の図のうち,南方に朱雀 (朱鳥) が配されるのは,それが太陽 (天の火) の方角だからである。ヨハネの黙示録において神は太陽と同一視されるが,神の顔はしばしば赤く彩られ、あるいはその眼は赤いものとされている。 仏教では赤は阿弥陀如来の身色である。また赤は火の色であるところから,すべてを焼きつくす恐ろしい色と解される。
仏典によると 〈赤色はこれ威猛除障の色〉とされ,護法尊,忿怒 (ふんぬ) 尊の身色となり,あるいはこれを赤の火炎光背が囲む。また赤が戦火,災害,懲罰を象徴するのも,それが火の色であるからであり、さらに同じ理由で悪魔の色ともなる。
朱の意味 キリスト教
赤色は,赤は青と組み合わされて陽と陰とを象徴する色として用いられるが,キリスト教社会では,赤は愛,青は智の象徴と解され,神はしばしば赤と青に彩られた雲に乗って姿を現し,あるいは赤と青の 2 種の天使 (セラフィムとケルビム) を伴う。 赤が愛の象徴とされるのはそれが温かい血の色だからであり,それゆえにまた赤は生贄を象徴する。 殉教者の祝日に際してキリスト教の司祭が赤い祭服を着るのはこのゆえである。 血の色は,また不吉な災害を象徴するが,古代エジプトでは赤は一般に禍いの色とされ (セト神の色など),パピルス文書では,不吉な字句を記すのに黒を避けて赤のインキを用いた。占星術での火星の解釈にも出ている。
民俗と歴史
明度および彩度の大きい赤の色が好まれるのは,世界中の民族に共通しているから,とりわけて日本人の特徴だとか日本文化の特質だとか考えるには及ばない。 今日ではすでに常識となっている民族学的説明として,赤は,人間の原始的感情にとり,燃えあがる火の色であり,命のかよう血の色であり,そこから派生して歓喜,美麗,戦い,残虐,死,悪霊などのシンボルであると考えられてきたとされる。 当然,遠古の日本列島住民においても同様である。
最古の史料《魏志倭人伝》に〈倭地温暖,冬夏食生菜,皆徒跣,有屋室,父母兄弟臥息異処,以朱丹塗其身体,如中国用粉也〉とみえ,倭人が朱(水銀系の赤色顔料) で身体装飾をしていたらしいのを知る。 この水銀朱は縄文後期にあらわれ,弥生時代や古墳時代にはかなり広くおこなわれた。