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「平尾バプテスト教会の礼拝説教」様より
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2015年3月1日 不正にまみれた富で友達を作りなさい
2015-05-13 23:35:39 | 2015年
ルカによる福音書16章1~13節
不正にまみれた富で友達を作りなさい
この難解なたとえ話を理解するにあたり、14節の「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」というところと、19節からの金持ちとラザロのたとえ話を考えることが、そのヒントになるかと思われます。
このたとえ話の発端は、この管理人が、主人の財産を無駄使いしていると告げ口をする者があったというところから始まります。
いわゆる内部告発ですが、結構、目に余ることをしていたのでしょう。
無駄使いという意味は、きっちりとした会計をせず、しめるところをしめずに、ずさんに使っていたということでしょうか。
あるいは、横領でもして、主人から預かったお金をごまかしていたのでしょうか。
主人は、この管理人を呼び、会計報告を提出するように言いましたが、この時点でもう、主人は、彼への信頼をなくしておりました。
そこで、管理人は、自分がこの仕事を解雇されたときのことを考えました。
そうしましたら、自分には、つぶしがきかないことがわかったのです。
土を掘る力もない、つまり、力仕事はできない、かといって、物乞いをするのは恥ずかしい、それもできない、何もできない自分に気づいたのでした。
そこで、主人に借りのある者たちのその負債を軽くしてやって、彼らに貸しをつくり、そうしておけば、自分が解雇されたときに、これらの人々が自分を迎え入れてくれるだろうと考えたのでした。
不正にまみれた富とは、この管理人がしたように不正によって得られた富というよりも、そうしたことも全く含まれていないとは言えませんけれども、むしろ、この不正にまみれた富というのは、天的なものではないこの世の、という意味合いで使われていると考えた方がよさそうです。
ですから、この管理人が、不正にまみれた富で、友を作ったというのは、この世の富を用いて友を作ったということです。
そもそも、富自体が、商売にしろ、この主人のように、品物を貸し与えて、その利子をとるというやり方にしろ、儲けを得るということ自体が、そこには、何がしかの不正なものが働いているといった先入観のようなものが当時の人々の思い中にはあったのではないでしょうか。
利子をどれくらいにするのが、妥当かなどといったことは、貸す側の胸三寸といったことはあったでしょう。
そして、当時は、一般民衆は、それをどんなに利子の利率が不当なものでも、借りざるをえなかったという状況もあったのではないでしょうか。
それが不当だとわかっていながらも借りなければならないという事情は、貧しければ貧しいほど、そうだったでしょう。
管理人が、行ったことは、主人から高い利子で油や小麦を借りていた人々の、その負債を軽くするということで、それは、弱い立場の者を助けるということでしたが、そうすることで、主人の財産を無駄使いしていた己を、解雇されそうになっている苦境に立たされた自分を彼らが迎えてくれるだろうと考えたのでした。
もう一度言いますが、この主人は、自分の財産を人々に貸して、それで利子をとり、増やしていくという形で財を築いておりました。
こうした場合、利子が適正かどうかは、非常にわかりにくかったと思われます。
しかし、当時の一般の人々の生活は、貧しく厳しいものでありましたから、金持ちや地主に土地や元になるものを借りるしか方法がありませんでした。
また、この時代の人々の税金に占める割合は、その年の生産物の35%から40%だったと言われます。
それらは、ローマから取り立てられるもの、ユダヤ人としての宗教税のようなものもありました。そして、当時の自作農家は、生計を維持するために年間産出高の20%を手元に残すことしかできませんでした。
それが、小作農になると、それから土地借用料を払わねばならず、手元に残るものはさらに少ないものでした。そのようなことを考えますと、当時の人々がどんなにか苦しい生活を強いられていたかがわかります。
ですから、このとき、管理人から借りている品物の数字を減らしてもらった人々は、どれほどうれしかったことでしょうか。
それから、ここに出てくる油百バトス(1バトスは23リットル、30~35リットルという説もある)や小麦百コロス(1コロスは230リットル)という数字は、かなり大きな数字なので、当時の一つの村の税金の負債額くらいではなかったかという説があります。
そうしますと、村をあげて、この管理人に人々は感謝した、否、最終的にはその管理人の主人に、さらに感謝したのです。
しかし、もし、このとき、主人が管理人を懲らしめ、その書き直した数字を元に戻すようにしたならば、地元の人々は落胆し、それから怒りや憎しみをかうことにもなりかねません。
一説では、この減らされた50バトスや20コロスというのが、利子に相当する額ではなかったのか、ということです。
そうしますと、この管理人は、村中の人々の利子の部分を帳消しにしてやったということです。それは、村人たちの主人への感謝となって返ってきたことでしょう。
金に執着するファリサイ派の人々が、このたとえ話を聞いていて、イエス様を嘲笑ったとうことです。
何という馬鹿な話をするのだろうか、といった気持ちの嘲りでしょうか。
つまり、こんな管理人は、仕事を辞めさせられるのが、当然のことであって、同情の余地なしでいいのに、どうして、この男が救われる話になるのだろうか。それも、主人の財産をさらに減らす方向で事を成す、不正なことをしているのに、それで自分の保身を図った管理人を主人がほめたなどと、ありえない馬鹿な話をするものだ、といったような嘲りの笑いだったのでしょう。
それに、主人から負債のある者たちに対してなしたことも、とても許されることではないだろう。
そもそも、そのような人々の負債を減らすなどといったことをしていたら、たまったものではない、そう考えたのではないでしょうか。
イエス様は、19節からに、金持ちとラザロのたとえ話をしています。これは、その金に執着しているファリサイ派の人々に行ったものです。
ある金持ちがいて、彼は、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたけれど、ラザロというできものだらけの貧しい人は、この金持ちの門前に横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていたほどでした。
しかし、この貧しいラザロは死んで天使たちによってアブラハムのすぐそばに連れて行かれたけれど、金持ちは死んだあと、陰府でさいなまされておりました。
ラザロは、宴席でアブラハムのすぐそばにおり、この金持ちは、陰府の炎の中でもだえ苦しんでおります。
それで、この金持ちは、アブラハムに、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。
わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と言うのですが、アブラハムは、「子よ、思い出してみるがよい。
お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。
今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」といったというのです。
なぜ、金持ちが陰府でラザロがいわゆる天国か、しかも、アブラハムのすぐ近くの席にいるのか、というのは、生前のありようからして、仕方のないことなのだ、というのです。
つまり、不正な管理人のたとえ話では、管理人は、あの主人に借りがあった人々の、その負債を軽くした、そのやり方は、不正なやり方だったけれども、それで、あの困った人々は助かった、管理人は、貧しい人々の友となった、そして、永遠の住まいに迎え入れてもらった。
しかし、この金持ちとラザロのたとえ話に登場している金持ちは、自分は、毎日のようにぜいたくに遊び暮らしていたけれども、ラザロのことを憐れむこともなく、助けることをしなかった、それで、このようなことになった、というのです。
この金持ちこそ、金に執着しているファリサイ派でした。
この世の富というのは、所詮、不正にまみれた富でしかないようなところもあります。
もちろん、ぎりぎりのところで商売をしている方々、適正に利潤をはじきだしたりしている方々が大半だと思いますので、一概には言えません。
しかし、もうけの部分というのは、労働力の搾取だとかいった言葉で表現されたりします。また、この世において、私たちは、神様からこの富を任せられています。
この管理人のように、その用い方は、ずさんでいい加減で、無駄にしているようなこともたくさんあります。
自分の欲のために使っていることも多々あるでしょう。
しかし、それで、もし、友を作る、その富を用いて、貧しい者の友となる、弱く困っている者の隣人となる行為を行うというのであれば、それは、永遠の住まいにも迎い入れてもらえる行為なのである、ということです。
「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。
この管理人がしたことは、結果として、どのようなことになったかということを考えます。信仰的には、この抜け目のないやり方で、永遠の住まいに迎え入れてもらえることになりました。
この世的には、まず、彼は、主人から解雇されたときに、負債を減らしてやった人々から感謝され、彼らから保護してもらえる道が開かれます。
また、負債を減らしてもらった人々は、当然、負債を減らしてもらったのですから、厳しい生活の中から解放されて、彼らは、助かったことでしょう。
また、主人は、返してもらうべきものは減りましたが、利子の部分だけなので、それほどの損害にはならずに済みます。
また、返済不可能と思って諦めていた者は、ちょっとがんばって返そうかといった思いにもなったでしょう。そして、負債のある者たちから、感謝されて、彼への信頼は深まります。
つまり、管理人だけではなく、主人も、負債のあった者たちも、共によかったよかったという話にもなります。
この出来事で、皆が得をした、損害を被った者は、いなかったということになります。
主人がもし、ここで、怒り、この管理人に不正を正させ、もとのように証文も書き直させ、その上で、解雇したならば、主人に残るのは、返済不可能な負債を抱え、今やこの主人に悪感情を抱いている貧しい人々と、返してもらえない不正にまみれたこの世の富だけだということになります。
いいことは、何もありません。
結局のところ、この管理人のやった方法は賢かったということです。
それで、管理人もまた、永遠の住まいに入れることになったのでした。
今日の招詞のマタイによる福音書25章の31節からのところからも、このルカによる福音書の内容を考えることはできるでしょう。
つまり、神の国を受け継ぐことができるのは、
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。
そこで、正しい人たちが王に訪ねるのです。
いつわたしが王様にそのようなことをしたことがあるでしょうか、と。
そこで、王は答えます。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
ということです。
管理人がしたことは、自分の保身を考えてのことでしたが、それが動機だったとはいえ、それでも、不正にまみれた富を用いて、この世の富を用いて、結果的に貧しい者、困っている者の友となったということは、それは、イエス様、神様にしてくれたことなのだ、ということになるということでした。
神様から預かったもの、それぞれに与えられている賜物についても、考えることができます。
それを用いて、十分に応えることができていないかもしれないのです。
その賜物を用いてするように神様から期待されている本来の目的から大きくそれているかもしれないのです。
全然違う形で、その賜物を用いている可能性もあります。
しかし、一見そう見えながらも、神様が期待していることに用いたということはあります。
この管理人がまさにそうだったのではないでしょうか。
不正にまみれた富で、友達を作ることを致しました。
否、まさにそれこそが、神様から私たちがこの世で期待されていることであるかもしれません。
この世の富は、まさにそのように使いなさいということです。
弱り果てた、いと小さき者の隣人になれ、貧しく困っている人の隣人になれ、友となれ、そういうことです。
私たちがこの世でいただいている賜物の中には、一見、聖なるものから、遠いものと見なされるものもあるでしょうが、しかし、それをどのように用いるかで、神の国に迎え入れていただけることがあることを知らされます。
困窮の中にある人々、弱り果てている人々、それらの方々の友となる、隣人となる、あるいは、あなた自身が負債のある者を赦すこと、そういうことが求められているということではないでしょうか。
まさに、イエス様がそのように、十字架と復活の出来事をおとして、私たちひとりひとりの友となられた、私たちを赦してくださり、模範を示してくださいました。
平良 師
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