Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

記紀神話:神世七代から国生みまで

2020.10.29 05:02

https://blog.goo.ne.jp/sansui-ou/e/8668f2cf223d11190ffde999fed8f6ae 【記紀神話:神世七代から国生みまで】より

記紀共に本文は皇室の祖先神を語るところから始めており、それは取りも直さず日本最古の神々に他なりません。

『古事記』はまず天地が初めて開けた時に高天原に現れた神として、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神の名を挙げ、次に国の形がまだ朧気だった時に現れた神として、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の二柱の神の名を挙げ、この五柱の神を「別天つ神(ことあまつかみ)」つまり殊に別格の天神としています。

そしてこの五柱の天つ神は、出雲大社の「御客座五神」でもあります。

次に現れた神は国之常立神、次に豊雲野神であり、別天つ神とこの二柱の神は独神(ひとりがみ)です。

次に現れたのは宇比地邇神とその妻須比地邇神、次に角杙神とその妻活杙神、次に意富斗能地神とその妻大斗乃辨神、次に於母陀流神とその妻阿夜訶志古泥神、次に伊邪那岐神とその妻伊邪那美神の五対十柱の神であり、国之常立神から伊邪那美神までを「神世七代」と言います。

以上は『古事記』の冒頭部ですが、『日本書紀』本文では別天つ神の名はなく、天地が開け始めた頃に現れた神として、国常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊の三柱の男性神を挙げています。

また『古事記』が上古の神々の尊号に「神」を用いるのに対して、『日本書紀』は基本的に「神」という言葉を使わずに「尊」で統一しており、特に高貴な方を「尊」と言い、それ以外の方を「命」と言い、共に「ミコト」と読むとしています。

凡そ『古事記』は天照大御神以前を「神」、それ以降を「命」としていますが、伊邪那岐神を国産みの神話では伊邪那岐命と呼ぶなど、原典となった旧伝の呼称に相違があったのか、必ずしも統一はされていません。

ここで『古事記』と『日本書紀』各書に記された天之御中主神から伊邪那美神までの神々の名を見比べてみると次のようになります。

『古事記』

 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)

 高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)

 神産巣日神(カミムスヒノカミ)

 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)

 天之常立神(アメノトコタチノカミ) 

 以上、別天つ神

 ①国之常立神(クニノトコタチノカミ)

 ②豊雲野神(トヨクモノノカミ)

 ③宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)、須比地邇神(スヒヂニノカミ)

 ④角杙神(ツノグヒノカミ)、活杙神(イクグヒノカミ)

 ⑤意富斗能地神(オホトノヂノカミ)、大斗乃辨神(オホトノベノカミ)

 ⑥於母陀流神(オモダルノカミ)、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)

 ⑦伊邪那岐神(イザナキノカミ)、伊邪那美神(イザナモノカミ) 

 以上、神世七代

『日本書紀』本文

 ①国常立尊(クニノトコタチノミコト)

 ②国狭槌尊(クニノサツチノミコト)

 ③豊斟淳(トヨクムネノミコト)

 ④埿土煮尊(ウヒヂニノミコト)、沙土煮尊(スヒヂニノミコト)

 ⑤大戸之道尊(オオトノヂノミコト)、大苫辺尊(オオトマベノミコト)

 ⑥面足尊(オモダルノミコト)、惶根尊(カシコネノミコト)

 ⑦伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト) 

 以上、神世七代

『日本書紀』一書(第一)

 国常立尊、または国底立尊(クニノソコタチノミコト)

 国狭槌尊、または国狭立尊(クニノサタチノミコト)

 豊国主尊(トヨクニヌシノミコト)

  または豊組野尊(トヨクモノノミコト)

  または豊香節尊(トヨカブノノミコト)

  または浮経野豊買尊(ウカブノノトヨカフノミコト)

  または豊国野尊(トヨクニノノミコト)

  または葉木国尊(ハコクニノミコト)

 

一書(第二)

 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂノミコト)

 国常立尊(クニノトコタチノミコト)

 国狭槌尊(クニノサツチノミコト)

 葉木国、これをハコクニという

一書(第四)

天地が初めて分かれたときに共に生まれた神として

 国常立尊(クニノトコタチノミコト)

 国狭槌尊(クニノサツチノミコト)

高天原に生まれた神として

 天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)

 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)

 神皇産霊尊(カミムスヒノミコト)

一書(第六)

 天常立尊(アメノトコタチノミコト)

 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂノミコト)

 国常立尊(クニノトコタチノミコト)

一書(第八)

 国常立尊が天鏡尊(アメノカガミノミコト)を生んだ

 天鏡尊が天万尊(アメノヨロズノミコト)を生んだ

 天万尊が沫蕩尊(アワナギノミコト)を生んだ

 沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだ

一書(第九)

男女並んで生まれた神として

 埿土煮尊(ウヒジニノミコト)、沙土煮尊(スヒジニノミコト)

 角樴尊(ツノクヒノミコト)、活樴尊(イククヒノミコト)

 面足尊(オモダルノミコト)、惶根尊(カシコネノミコト)

 伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)

以上いくつかを書き出してみましたが、『日本書紀』では「一書に曰く」として、国常立尊から男女の対神までの間に六書(段一第一から第六まで)、対神以降に三書(段二第一から第三まで)、全部で九書の異伝を併載しています。

そして一読すれば分かる通り、そこに語られている諸神は基本的に『古事記』の神々を断片的に伝えるもので、ここでは省略しましたが最初の神が生まれた時の描写にも大して差異はありません。

ただ神世七代の組合せについては各書に相違が見られ、『古事記』では独神二柱、男女神五対十柱で七代とするのに対して、『日本書紀』本文は独神三柱、男女神四対八柱で七代としており、その男女神も本文と一書(段二第三)では一部が入れ替わっています。

恐らくこれは「春秋五覇」と同じように、「神世七代」という言葉がまずあって、その対象が各伝で異なるだけかも知れません。

また国狭槌尊という神については、『日本書紀』では本文及び六書ある異伝のうちの実に三書で国常立尊と並記されており、上古の重要な神の一柱であることは間違いないと思われるのですが、何故か『古事記』には登場しません。

もともと『古事記』は史書であると同時に神道の聖典でもあり、特に神々の御名に関しては『日本書紀』よりも数多く収められているくらいなので、『古事記』に出てくる神が『日本書紀』で省かれていることはあっても、その逆というのは珍しいことです。

確かに『古事記』内でも後の神生みの神話の中で、山の神と野の神の間に生まれた八柱の神の一柱として、「クニノサヅチノカミ」という同名の神が登場するものの、決して『日本書紀』のように国常立尊と同列の扱いではありません。

そして『古事記』では初めから国狭槌尊を加えずに神世七代を形成しているので、『日本書紀』本文の原本は必ずしも稗田阿礼が誦習したものと同一ではないことが分かります。

記紀共に神世の記述が終ると、次に伊邪那岐命と伊邪那美命による国生みの神話が語られます。

(両神の漢字表記は、『古事記』では「伊邪那岐命・伊邪那美命」、『日本書紀』では「伊弉諾尊・伊弉冉尊」ですが、ここでは『古事記』に従います。また読み易くするため、以後はカナ表記を併用します。)

ただ改めて言うまでもないことですが、現実にはイザナギ・イザナミという二柱の神が日本列島を創造した訳ではないので、後世の我々が国生みの神話から読み取るべきは、これが(『古事記』はともかく)『日本書紀』という漢文の正史にまで収録された意図でしょう。

また誦習された言語を原文とする『古事記』では、例えば筑紫島(九州)には一つの身に四つの面があり、筑紫国は白日別と言い、豊国は豊日別と言い、肥国は建日向日豊久士比泥別と言い、熊曾(熊襲)国は建日別と言うことを併記するなど、古語を知る上でも貴重な史料となっていますが、ここでは深く立ち入りません。

まず『古事記』によると、天つ神は伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱に天の沼矛を賜り、「この漂える国を修め理(つく)り固め成せ」と命じました。

二柱の神が天の浮橋に立って、その沼矛を指し下して引き上げると、矛の先から滴り落ちた塩が重なり積もって島になりました。

これが淤能碁呂島(おのごろしま)です。

イザナギ・イザナミはその島に天降って見合いをましたが、最初に生まれた子は水蛭子(ヒルコ)という未熟児(もしくは奇形児)で、両神はこの子を葦船で流して捨ててしまいました。

次に淡島を生んだものの、これも子の数には入れないものとします。

そこで両神は仕切り直して、まず淡路の穂の狭別の島(淡路島)を生み、次に伊予の二名島(いよのふたなのしま・四国)を生み、次に隠岐の島を生み、次に筑紫の島を生み、次に伊岐の島(壱岐)を生み、次に津島(対馬)を生み、次に佐渡の島を生み、次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま・本州)を生みました。

全部で八島であり、日本を「大八島国」と言うのはこれに由来します。

また大八島を産み終えた後に、吉備児島(児島半島)、小豆島、大島(周防大島か)、女島(姫島)、知訶島、両児島(ふたごのしま)の六島を生んだといいます。

一方『日本書紀』本文によると、イザナギ・イザナミは天浮橋に立ち、この下にどうして国が無かろうかと言って、天之瓊矛を指し下ろして探ってみると海原があり、その矛先から滴る潮が凝り固まって一つの嶋となりました。

これを磤馭慮嶋(おのごろしま)と言い、二柱の神はその嶋に天降って洲を生んで行きます。

まず淡路洲を生み(両神はこの島の出来に不満で「吾恥島」と名付けたといいます)、次に大日本豊秋津島(読みは『古事記』に同じ)を生み、次に伊予の二名洲を生み、次に筑紫州を生み、次に億岐(隠岐)洲と佐渡洲とを双子に生み、次に越洲(北陸か)を生み、次に大洲を生み、次に吉備子洲を生んだとし、以上をもって大八洲国としています。

因みに対馬や壱岐など周辺の小島郡は、潮や水の泡が固まってできたのだといいます。

こうして見てみると、神世七代の時と同じく、『古事記』と『日本書紀』本文とでは、この国を「大八島(洲)国」と称するのは同じながらも、その中で個々の島々が入れ替っているのが見て取れます。

これに『日本書紀』一書(第十一まで)を加えると、更にその内容が入り乱れてしまいますが、所詮は大同小異と言えるほどの違いでしかないので、ここでは一書の記述については割愛します。

面白いのは『古事記』『日本書紀』本文共に、創造の順番では淡路島を第一としていることで、果してこれが何を意味するのかは今もって解明されていません。

その後の順番を比べてみると、『古事記』は淡路島→四国→隠岐→九州→壱岐→対馬→佐渡→本州の順となっており、隠岐を別にすれば淡路島から対馬まではほぼ位置する順番通りであり、隠岐を対馬の後に持ってくれば淡路島から本州までが時計回りに一本の航路となります。

『古事記』は全編を通して政治的な介入が少ないので、本州が末尾になっているのは単に最も大きい島を最後に創ったというだけのことかも知れません。

一方『日本書紀』本文では、淡路島→本州→四国→九州→隠岐・佐渡→越→周防大島→児島半島の順となっており、この順番に何らかの史実や政治的な意図等が反映されているのかは分かりませんが、深読みせずに素直に接すれば『古事記』とほぼ同じ一筆書きの経路となります。

越が一個の洲とされているのは不可解ですが、恐らくこの場合は「越島」ではなく「越国」という意味でしょう。