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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 49 (30/10/20) 旧東風平 (12) Tomori Hamlet 冨盛集落 [2]

2020.10.31 14:50

冨盛集落 (ともり、トゥムイ)


富盛集落 (ともり、トゥムイ)

10月27日に続き、今日も富盛集落をめぐる。27日は八重瀬岳を中心にグスクとそこにある拝所をみてまわった。今日は集落内にある拝所を巡る。

東風平村史に掲載されている富盛の拝所

東風平町教育委員会編集の「殿・御嶽・井戸調査報告書」では上記の他に以下の拝所を挙げている。


まずは10月27日に訪れた八重瀬グスクの支城の勢理城 (ジリグスク) から見てみる。


勢理城 (ジリグスク)

まずは10月27日に訪れた八重瀬グスクの支城の勢理城 (ジリグスク) から見てみる。

このグスクについては、文献がほとんど残っておらず、いつ、誰によって、何の目的で構築されたのかは不明。公人的な想像は、八重瀬グスクの出丸のような目的があったのではないだろうか?冨盛集落はこの勢理城 (ジリグスク) から北側に広がっている。八重瀬グスクから集落を守るのは難しい。集落の近くにも別の拠点が必要であったのではないだろうか?このグスクは小山の上にあり、その周りには多くの拝所が集まっている。八重瀬岳頂上にあった八重瀬之嶽は住民には手の届かない聖地なのだが、この勢理城 (ジリグスク) 周りには「下の三御嶽」と呼ばれる中間之嶽 (ナカマヌタキ)、フラウ之嶽、比嘉森がある。集落の人々にとっては、勢理城 (ジリグスク) と下の三御嶽の方が身近な存在だったのではないだろうか? この勢理城 (ジリグスク) には石獅子以外には拝所が見当たらない。このグスクは聖域としてのグスクではなく、やはり守りのためのグスクと考えたほうが良い。


勢理城 (ジリグスク) は石灰岩の岩で周囲を囲まれており、独特の雰囲気がある。


富盛の石彫大獅子

勢理城 (ジリグスク) の敷地内には石彫大獅子が残っている。これまで見た石獅子の中で最も大きく、最も保存状態がよく。当時の石獅子はこのような造りだった事がわかる。この石獅子が造られたのは第二尚氏王朝の11代尚貞王 (1669年 - 1709年) の1689年と記録には残っている。この石獅子が造られた経緯だが、これまでの定説は「富盛集落は度々の火災に悩まされており、久米村の蔡応瑞の風水では、集落南の八重瀬嶽の火の精によるもので、そこに向けて獅子を置き、火の精が村に近づかないようにすることができるとのことであった。そこで村人たちは、火返し(ヒーゲーシ)として獅子を勢理城の丘の上に置き、火山 (ヒーサン) の八重瀬岳に向けた。それからは火災は起こらなくなった。」とあある。これが琉球での石獅子を各村で設置する起源となったという。確かに今まで石獅子をいくつも見てきたが、この火山 (ヒーサン) の八重瀬岳に向いているものが多かった。ずっと疑問に思っていたのだが、この八重瀬岳は火山だったのだろうか?この伝承のように火の精がいるといわれていただけなのだろうか? いろいろと調べたが、八重瀬岳が火山という記述はなかった。上の伝承では風水で八重瀬岳はヒーサン (火山) とされたのだが、これは風水では物の形を木・火・土・金・水の五行に分類し、該当する五行の性格を強く持つとされている。ここでは八重瀬岳は五行では火の性格を持つとされたわけだ。ボルケーノではないようだ。これですっきりした。この伝承は琉球王国の正史『球陽』に記載されているのだが、これに対して異論を唱える説がある。それは、「当時は、神聖な八重瀬岳から木を切り出してはいけなかったため、村人たちは、火を起こすためにサトウキビや木の枯れ葉を利用していた。村人たちは、火災の原因が八重瀬嶽にあるのではなく、燃え広がりやすいそれらの燃料を自分たちが不注意に扱ったことにあるのだと分かっていた。しかし、獅子作りは首里王府からの命令である。しかし、魔除けのための獅子を神聖な八重瀬嶽に向けることはできない。悩んだ村人たちは、獅子が八重瀬嶽に向かないよう、少しずらして置いた。」とある。

沖縄戦で米軍が八重瀬岳の日本軍を攻撃する際の写真が残っている。

冨盛集落内にあるバス停には石獅子のレプリカが置かれ、バスを待つ人と一緒に座っている。ここではこの石獅子が観光の目玉だ。


中間之御嶽 (ナカマヌウタキ) / 仲真森之殿 (ナカマムイヌトゥ)

勢理城 (ジリグスク) 付近には多くの拝所が集中している。この中間之嶽は勢理城 (ジリグスク) への登り口にある。下之三御嶽の一つで、姑陀石喇粉威部 (コダイシラゴノイベ) を祀り、5月のウマチーの際に御願されている。ここは以前から御嶽であったのだろうかとの疑問が沸いた。通常御嶽は神聖な場所で、ノロ以外の一般人が立ち入ることはできなかった。通常は、この八重瀬岳の頂上に御嶽があるように、集落の人々の生活圏の外にあった。ここは、勢理城 (ジリグスク) より下にあり、御嶽の地理的な位置については少し違和感がある。この近くには中間之御嶽 (ナカマヌウタキ) 以外にもう二つ御嶽があり、なぜこれほど多くの御嶽が造られているのかが疑問だ。東風平村史や殿・御嶽・井戸調査報告書では、この場所には中間之殿 (ナカマヌトゥン) もあると書かれていた。御嶽と殿が同じ場所にあるのは不可解だ。殿・御嶽・井戸調査報告書には殿の写真も掲載されているのだが、それはよく見ると御嶽と同じ写真が使ってある。殿は所在不明なのか? 個人的な推測だが、ここは元々は殿として造られていたのではないだろうか? それが時代とともに威部 (イベ) を置き、御嶽と格上げされたのではないだろうか?


比良宇之御嶽 (ヒラウヌウタキ、ビロウ之御嶽、金満 [カニマン] 之御嶽) / 比良宇之殿 (ビロウヌトゥン)

中間之嶽から60mぐらい離れた場所に別の御嶽がある。これも下之三御嶽の一つで、中間之嶽と同じ威部の姑陀石喇粉威部 (コダイシラゴノイベ) を祀っている比良宇之嶽 (ヒラウヌタキ、ビロウ之御嶽) で金満 [カニマン] 之御嶽とも呼ばれている。5月のウマチーの際に御願されている。御嶽には必ず威部 (イベ、イビ) がある。それには神名がつけられているのだが、これが何を意味しているのか、気になっていた。決まりはないそうだ。威部もそこに神が常にいるといわれているものや、時期によったり、呼ぶとそこに降りてくるとかいろいろだ。名前も古来からの神の名のものもあるし、そこに威部を置いたときに住民が名を付けたものも多い。名はその場所で特別なことがあり、その事を表しているものや、そこの地形や環境をあらわしたものもある。威部の名の漢字からはそれは読み取れないケースがほとんどで、琉球にはもともと文字がなく、漢字は琉球の言葉の音の当て字の場合が多い。沖縄の人は、威部が何なのかなどは全く気にしていない。沖縄らしい.... ここにも比良宇之殿 (ビロウヌトゥン) があったとされているが、写真は御嶽と殿は同じものが掲載されている。


比嘉森之御嶽 (フラムイヌウタキ) / 比嘉森之殿 (フラムイヌトゥン)

比良宇之嶽から更に60mぐらい進むと比嘉森 (フラムイ) ある。ここも下之三御嶽の一つで折笠威部 (オリカサヌイベ) を祀っており、5月のウマチーの際に御願されている。この御嶽と殿の写真はやはり同じものだった。


勢理城 (ジリグスク) の周囲には少しではあるが民家もあり集落が始まってる。このグスクの周囲にはいくつかの拝所がある。



上之拝所 (ウィーヌウガンジュ)

比良宇之殿のからグスクの周囲を時計回りに進むと、まずは上之拝所がある。5月・6月のウマチー、旧9月中の総御願い、旧10月1日の竈の御願の際に御願されている。


主之前井 (シュヌメーガー)

上之拝所 (ウィーヌウガンジュ) の脇には井戸がある。おそらく、この井戸に人々が集まり、次第に拝所となり、脇に独立した拝所を造ったのだろう。5月・6月のウマチーと旧10月1日の竈の御願の際に御願されている。



上奴女殿内 (ウィーヌンドゥンチ)

上之拝所から少し進むと、上奴女殿内 (ウィーヌンドゥンチ) がある。屋号ノロ殿内が司宰をしており、旧1月2日の初起し、5月・6月のウマチー、5月・6月のウマチー、旧9月中の総御願い、旧10月1日の竈の御願に御願されている。敷地内にはいくつかの拝所がある。それぞれの詳細はわからない。その中ので一つの拝所には鳥居が造られていた。これは明治政府のとった国家神道政策の名残だろう。最も沖縄の人は本土の国家神道と古来からの沖縄神道との区別など期にはしていないのだが... 

東風平村史ではこの場所に神アシャギと呼ばれる、祭祀のための建物の写真が載っていたが現在は上の写真のように新しい建物に建て替えられている。中には「村グサイ」「嶽グサイ」「神グサイ」「國グサイ」と書かれた香炉が置かれていた。

この敷地内には、奴女殿内井 (ウィーヌンドゥンチガ-) があるはずなのだが、見つからなかった。この井戸は5月・6月のウマチーと旧10月1日の竈の御願に御願されている。



名不詳の拝所・井戸跡

上奴女殿内 (ウィーヌンドゥンチ) の近くに資料には出ていなかった拝所があった。

同じ場所には井戸が二つある。香炉などは置かれていないので拝所ではなさそうだ。


波平 (ハンジャ) 之殿

勢理城 (ジリグスク) の岩の斜面の麓に波平 (ハンジャ) 之殿がある。5月のウマチーの際に御願されている。

これで勢理城 (ジリグスク) 周囲の拝所は見終わり、公民館に向かう。



比良宇門拝所 (ビロウジョー)

勢理城 (ジリグスク) から公民館に向かう途中に比良宇門拝所がある。ここは比良宇之嶽 (ヒラウヌタキ) への入り口で門として位置づけられていたそうだ。6月のウマチーに御願される。


冨盛公民館

この公民館の前はかなり大きな広場になっている。多分ここがかつての村屋 (ムラヤー) であったのだろう。


火の神 (ヒヌカン)

冨盛公民館の敷地内には火の神のほこらがあり、旧1月2日の初起し、5月ウマチー前拝み、5月・6月のウマチー、旧9月中の総御願い、旧10月1日の竈の御願に御願されている。


御穂田クサイ井 (ミフーダークサイカー)

同じく冨盛公民館のところには井戸が形式保存されている。御穂田クサイ井という名から推測するに、この場所には御穂田 (ミフーダ) がかつてはあったのだろうそれでクサイ (一体とか対という意味) と名がつけられているのではないだろうか? この井戸は近くにある火の神と同じく、旧1月2日の初起し、5月ウマチー前拝み、5月・6月のウマチー、旧9月中の総御願い、旧10月1日の竈の御願に御願されている。

ここからは集落の中心から離れた場所にある文化財をめぐる。


前元野原之前井 (メーヌトゥムバルヌメーガ-)

公民から更に南に行ったところにある井戸で、形式保存されている。5月のウマチーに御願される。


身井 (ミーガ-)

公民館から東に行った場所にある井戸で、5月のウマチーに御願される。



山川井 (ヤマガ-ガ-) 

八重瀬グスクがある丘陵の麓に井戸がある。山川井 (ヤマガ-ガ-) で井戸を囲った石垣だけが残り、水はもうない。 5月のウマチーの際に御願されている。


加勢井 (カシ-ガ-)

山川井 (ヤマガ-ガ-) から東南方向に行くと民家はなくなり、一面、サトウキビ畑が広がる。その中に立派な井戸がある。加勢井 (カシ-ガ-) と呼ばれている。5月のウマチーに御願される。


当之蔵門中墓

更にサトウキビ畑を進むと、前方に小山がある。門中墓だ。冨盛集落の門中の一つの当之蔵のもので、尚巴志の後裔と書かれている。尚巴志が南山を滅ぼした際に、四男をこの八重瀬グスクに入城させ八重瀬按司としたと伝わっているので、この系統の門中なのだろう。


野原之殿 (ヌバルヌトゥン) / 野原之殿(ヌバルヌトゥン) クサイガ-

冨盛集落の西のはずれの当之蔵門中墓の近くに森があり、その中に野原之殿がある。野原門中が司宰をしており、5月のウマチーの際に御願されている。

野原之殿 (ヌバルヌトゥン) の奥へ道がある。ここには野原之殿(ヌバルヌトゥン) クサイガ-があるので、多分その場所だろう。奥には石を積んだ祠があるのだが、井戸跡らしきものは見当たらなかった。


蔵見井 (クラミガ-、産井)

5月のウマチーに御願される井戸なのだが、見つからなかった。産井とも呼ばれているので集落にとっては重要な井戸のはず。ないはずはないのだが....


神屋

富盛集落の南の端の方で見つけた神屋。敷地内には井戸跡も残っている。



その他も含め、見つからなかった文化財は:

  • 殿: 嘉森之殿 (ヒジャムイヌトゥン)、仲真森之殿 (ナカマムイヌトゥ)、ヒラウ之殿 (ビロウヌトゥン、金満之御嶽) ---- この三つの殿は御嶽と同一と考えられる。
  • 泉井: テラガー、ギルマガー、カーマシガー、蔵見井 (産井 ウブガー)、マカンジョーガ-
  • その他: 威部之前 (イビヌメー)、ミ火ヌ神


冨盛集落の拝所の祭祀一覧を作ると、どの拝所が重要視されているかがわかる。ここでは旧暦5月の稲の豊穣祈願を行うウマチーの際に多くの拝所が廻られている。旧暦6月の稲の収穫祭のウマチーには巡る拝所が減っている。これは確かなのだろうか、少し変だ。次に多く巡られるのが総御願いと竈の御願となっている。拝所の中で最も多く拝まれているのが、火の神と御穂田グサイカーだ。この二つは公民館にあるので、こうなっているのだろうか?この表は殿・御嶽・井戸調査報告書をもとにして作ったのだが、集落によって詳しさが異なっている。個人的感想では、この資料は完成度が低く、十分に精査されていないように感じる。特に冨盛については、他の集落と調査員が異なっているのか、精度が低いように思える。

余談だが、富盛集落で撮影した蝶。この時期は多くの蝶が群れで飛び回っている。極楽鳥花が栽培されており、いくつか綺麗に花を咲かしていた。後は、野原にパパイヤの実が多くなっている。時期が来たら誰かが取りに来るのだろうか?沖縄ではバナナ、マンゴ、パパイヤが、野原や林の中に無造作に生息している。とって食べてもいいのだろうか?

これで旧東風平村の13の集落すべてを巡り終えた。次回からは八重瀬町の 旧具志頭村の集落めぐる。明日からは図書館で旧具志頭村の下調べだ。


質問事項

  • 勢理城 (ジリグスク) は八重瀬グスクの支城? 拝所が一切ない
  • 下之三御嶽は元々御嶽であったのか?それぞれに殿があるように文献ではなっているが、見つかっていないように思える。殿が御嶽と呼ばれるようになったのではないか?
  • 所在地の確認 [泉井] テラガー、ギルマガー、カーマシガー、蔵見井 (産井 ウブガー)、マカンジョーガ-、[その他] 威部之前 (イビヌメー)、ミ火ヌ神

参考文献

  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
  • 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)
  • 富盛字誌 (2004 富盛字誌編集委員会)