二系統あった初期大和王権
http://kamodoku.dee.cc/nishurui-no-yamatoouken.html 【二系統あった初期大和王権】より
古事記に描かれた東征と日本書紀の東征は別物
私見では、古事記記載の日向出航から大和地方に到達するまでに16年を要した東征と、日本書紀に記載のわずか3年余りで到達した東征とでは違うものを指していた。
前者は古日向(現在の宮崎・鹿児島を併せた領域)からの倭人伝に載る投馬国王タギシミミ(諡号・神武天皇)を領袖とする東征であり、後者は九州島であることは同じだが、北部の筑紫国を中心とする「大倭(たいわ)」の盟主に担ぎ上げられた殷王朝由来の箕子の末裔である半島南部の辰韓王ミマキイリヒコ(諡号・祟神天皇)によるものであった。
時代を言えば、前者は2世紀半ばでいわゆる「倭国の乱」の直前である。倭国の乱はそれが原因で九州島内部で起こり、アマツヒを獲得した大巫女・卑弥呼の擁立よって収束した天津日系連盟と奴国系(国津神系)連合との一大決戦だった。そして敗れた側の国津神の領袖オオナムチ一族は、北部九州から主に出雲国(現在の島根県)に移封された。
首領のオオナムチはオオクニヌシとして出雲大社に鎮まるが、タケミナカタは信濃へ逃れ、コトシロヌシとアジスキタカヒコネはどうやら投馬国の地すなわち南九州航海民(鹿児=かこ=水人=鴨族)の本貫地に落ち延びたらしいことは前々節「葛城の鴨神と南九州」で述べた。
その一方で、後者のミマキイリヒコによる東征は、韓伝にある「(魏が)韓を滅す」の247~8年ごろに辰王が辰韓の地から王家を糸島地方(当時はイトではなく五十=イソ)に移動させ、その後旧奴国系の国々と連合して「大倭」と肥大化し、南方からの狗奴国の攻撃に手を焼いていた女王国を保護国化して、狗奴国の北進を食い止める役割を担っていた真最中の260年代の半ば頃であったと見る。時あたかも大陸において大将軍たる司馬氏の専横著しく、魏王朝はついに取って代わられてしまう(司馬炎の即位=晋の建国=265年)。
このことは辰韓王ことミマキイリヒコにとっては非常に危険なことであった。なぜなら司馬大将軍はかって半島まで攻め入り、燕王を自任していた公孫氏を打ち破っていたからだ。その司馬氏の一族が大陸に王朝を開いたとあっては、いつまた長征してやって来ないとも限らない。そこで目指したのが列島中央の安全地帯に入ることだった。
その結果生まれたのがタギシミミ(諡号・神武天皇)の第一大和王権に次ぐ、ミマキイリヒコ(諡号・祟神天皇)の第二大和王権で、後者が前者を駆逐した様子を描いたのが「武埴安彦・吾田姫の叛乱」であり、丹波に逃げた「クガミミノミカサ」の平定説話に他ならないことも前節「ミミ名人物群の考察」で触れた。
以上の解釈は、魏志倭人伝・魏志韓伝・古事記・日本書紀(神武紀から垂仁紀)を併読し、無理のない整合的な解釈だと思うが、それらを纏めた拙著『邪馬台国真論』をお読みでない方々のために、以下でその要旨を改めて提示したい。
① 邪馬台国の「ヤマタイ」とは「アマツヒツギ(天津日嗣)→ヤマツヒ→ヤマタイ」という表記を中国人がしたことによる音価であり、原音は「アマツヒツギ」だと考えられる。卑弥呼はこのアマツヒ(天津日)を受信できる大巫女であった。
このアマツヒの初発は、西暦107年に後漢に対して160人という大量の生口を送った「倭面土(ワメント→ワママンツ→アマツ)」国であろう(後漢書「安帝紀」)。この生口を奴隷ととらえる学者が多いが、私は後世の留学僧のようなタイプの者がいたと信じている。
② 邪馬台国は福岡県八女市を中心とする大国であるが、卑弥呼の時代は北部九州倭人連合たる「大倭」の保護国となっており、第一等官として記されている「伊支馬(イキマ)=生目=都督」が置かれていた。
また、伊都国は「イト」国ではなく、「イツ」国であって、福岡県の糸島半島の「怡土」郡とは無縁の存在 である。イツ国の「イツ」は「厳」という倭語が本義で、倭国の乱(140~180年頃)において「大倭」に敗れ、 奴国系の首長(オオナモチ=オオクニヌシ)たちは出雲へ流された。イズモの原義はイツナ、すなわち「イツ(伊都)ナ(奴)」で、イツとは「厳」のことで「威力のある・武力に秀でた」の意味で「オオナモチ」が異名として「八千矛の神」(古事記:書紀では八千戈神)と言われるゆえんと符合する。つまり「伊都国」とは「イト国」ではなく「イツ国」であって、その内容は「武力に秀でた国」というオオナモチ(のちのオオクニヌシ)を首長とし、同じ九州北部に生まれた天津日系「大倭」と争って敗れ去った奴国系の大国で魏志倭人伝の素直な解釈によれば、決して糸島半島にあったのではなく、佐賀平野の西隅にあった。この国が東へ東へと勢力を伸張させ、ついに筑後川流域最大の穀倉地帯である甘木・朝倉地方に触手を伸ばしたところで、北方の博多奴国を主体とする「大倭」の前身である「九州北部倭人連合」と干戈を交えて敗れた。これを後漢書では「桓・霊の間、倭国大きく乱れ、さらに相攻伐すること暦年、主無し」と書き、魏志倭人伝では「倭国乱れ、相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という」と記している。
一方、古事記や日本書紀ではこのことを、葦原中国の王者「オオクニヌシ」一党の「国譲り説話」に仕立てたわけである。気を付けなければいけないのはオオクニヌシは決して出雲国の王者であったのではなく「葦原中国」の主であったことだ。もちろんこの名称はニニギの降臨説話にあるような「稲作による国造り」こそが国家経営の根本である、という理念の下に記紀編纂過程で創作されたもので、史実上の当時の葦原中国とは北部九州、とりわけ甘木・朝倉大盆地を指しているとしてよい。
敗れた後の「イツ(伊都)国」は首長たちが出雲地方などへ離散したあとも存続はしていたが、佐賀平野の西隅、小城市域辺りに押し込められ、わずか千戸という小国に成り果てていた。その上、「大倭」からは大率(だいそつ)という名で記された占領軍が派遣されていた。これは女王国が同じく「大倭」による監視官「伊支馬(いきま)」が置かれたのと似ているが、決定的に違うのは女王国は決して「大倭」と戦って敗れたのではないということで、女王国は「大倭」との一種の協定により、監視官を受け入れることで南方からの狗奴国の北進を抑えようという政策をとったのである。
③ 西暦200年代に入ったころ、朝鮮半島では遼東を支配する公孫氏による北方からの圧力が高まった。
魏志ワイ(さんずいに歳)伝と韓伝によれば紀元前1000年の頃に楽浪地域において箕子(殷王朝の一族)が王権を築いていたが、四十数代後の準王の時、秦王朝建国の際の動乱が波及して、衛満により国を奪われ、南遷して半島南部に国を開いた。最初、馬韓の一国だったが次第に東南に展開し、ついに辰韓十二国の王者となった。辰韓は隣接する弁韓と共に「文身する倭人」つまり海人あるいは航海民たる倭人の極めて多い、ほとんど倭人国といってよい国々であった。
ところが、魏が公孫氏を討った勢いで楽浪郡、帯方郡を足がかりに半島への圧力を高め、直接統治に乗り出した238年以降、辰韓王はさらに南遷を余儀なくされ、246~7年の叛乱と魏による「韓を滅す」(韓伝)という事態におちいることになると、ついに辰韓王は半島を捨てて九州北部に落ち延びる次第となった。その道案内をしたのが航海民(海上輸送を生業とする者)であったことは言うまでもない。
この時の王が「ミマキイリヒコイソニエ」こと祟神天皇であったと思われる。或はすでに何代か前に王宮は行宮の形で九州北部にあったのかもしれないが、少なくとも糸島半島を統治の拠点として九州北部の倭人国家群の総意を取りつけ「大倭王」という地位に上ったのはミマキイリヒコであった。
子の「イクメイリヒコイソサチ」こと垂仁天皇は父のミマキイリヒコが大倭王化した頃、若くして邪馬台国の「いきま(伊支馬)」つまり第一等官たる近代植民地に置かれた「総督」のような重要な役割を担い、駐在したことがあった。それが「イクメ・イリヒコ(イクメ=いきま)に入った彦」の和名の由来に他ならない。
この親子の二王が中心となり、当時魏に代わって晋王朝を築いた大将軍・司馬氏の侵攻を避けるべく、さらなる安全地帯を目指して遂行したのが、第二次東征である。これは換言すれば「大倭東征」であり、東征後、のちに大和となる「ヤマト」地方は長い間「大倭国」であり、音価に「ヤマト」が当てられたのはいつとは知れないが、少なくとも中国人記録者が「アマツヒツギノ国」である卑弥呼の国を「ヤマタイ国」と誤記したのを、列島人側がそのまま受け入れて東征後に樹立した王朝も「ヤマタイ→ヤマト」と自称するようになったものだろう。
(主体性がないといえば言えるが、今日、日本をニホンあるいはニッポンと呼ばずに「ジャパン」が普遍的な自称国名になりつつあるのと大差はない。もっともニホンあるいはニッポンですら和語では本来「ヒノモト」でありながらそっちはとっくの昔に廃れているのだから、今さら何をか言わんや、だろう)
④ ヤマタイ女王国は晋王朝が築かれると、早速、二代目女王「トヨ」が使節を送っているが、それは保護者的同盟国「大倭」が東征を敢行し、それによって南部の狗奴国への抑えが手薄になったからだ。具体的に言えば総督「伊支馬」の無力化に他ならない。
案の定、狗奴国はそこを衝いて、北進を開始した。おそらく260年代のうちには邪馬台国を併呑したはずで、それを足掛かりに狗奴国は東征によって決定的に非力化した九州北部をやすやすと手に入れ、勢いは九州北岸にまで達した。そのことを証明するのが仲哀紀に登場する崗県主(遠賀川河口)の「熊鰐」であり、層々岐野(大宰府あたり?)の「羽白熊鷲」である。どちらも狗奴国出身であることを示す「熊」名が付けられていることで分かる。
さて、狗奴国の侵攻を受けた当時の女王「トヨ」は殺されただろうか。否、私は無事に逃れ、九州東海岸まで到達したと考える。そしてそこに亡命政権を樹てたと見る。この国が「トヨ国」(豊国)だろう。その中心は、現在の宇佐市で宇佐神宮に祭られる「ヒメ大神」は邪馬台国女王だった「トヨ」その人ではないかと考えたい(他の2神はホムタワケ=応神天皇と神功皇后)。
祟神天皇が大和地方とは無縁な外来者であることは「三輪山に古くから鎮まる大物主神」の祭りをなかなかできなかったこと(祟神紀7年)と、大和の大国魂神の祭りを娘のヌナキイリヒメにさせたがうまく行かずに別人に代わらせたこと(同紀6年)で明らかだが、後者の大国魂神を祭るとき、同時にアマテラス大神をトヨスキイリヒメにやらせてすんなり行っている。このトヨスキイリヒメを筆者はトヨ女王のことだと考えるのだ。卑弥呼譲りの受信能力のある大巫女だからこそ、大神霊アマテラスを祭ることができたのだろう。
トヨとは「女王トヨでありかつトヨ国」のことで、スキは後世「主基」と書いて「斎場・聖地」の意味だから、トヨスキイリヒメとは「豊国の斎場に入った姫」と解釈され、宇佐神宮の鎮座するところが往古はそのような所だったに違いない。トヨスキイリヒメがトヨ女王であるならば当然、祟神の皇女ではありえず、豊国にいたトヨ女王をその偉大な巫女能力のゆえに、わざわざ招聘したものだろう。そして邪馬台国を九州にあったとはしたくない記紀編纂者によって、祟神天皇の皇女の一人に組み入れたのだろう。
以上が拙著『邪馬台国真論』の骨子で、魏志倭人伝、魏志韓伝、古事記、日本書紀などの記述から、東征は史実であり、しかも二度あったことを指摘したそのスケッチである。
時代的にはすでに触れているが、前者が2世紀半ばの文字通り日向からの「神武=投馬国王タギシミミ」の東征、後者は3世紀後半(260年代)の九州北部筑紫からの「祟神=大倭王ミマキイリヒコ=辰韓王」の東征ということであった。
前者のタギシミミによる第一次大和王権は4代目のイ徳天皇までは記紀の系譜に載るが、5代目の孝昭天皇から九代目の開化天皇までは、後者の第二次大和王権の王統譜だろう。タギシミミ王権はミマキイリ王権に駆逐されるが、そのときのタギシミミの直系は「武埴安彦・吾田媛」である。イ徳天皇から武埴安彦までのタギシミミ王権の何代かは記紀の王統譜からは抹消され、そこにミマキイリヒコ系譜が接合されたといわけである。