平成 20 年度栃木県内の発掘調査情報
http://www.maibun.or.jp/c-info/pdf04/51.pdf 【■平成 20 年度栃木県内の発掘調査情報】より
市町教育委員会が実施した発掘調査から
1. 弥やはちだ八田遺跡の発掘調査(西方町)
弥八田遺跡土坑墓全景(南から) 遺跡出土弥生土器(左:採集品、右:第 1 号土坑墓出土)
町の真まなご名子地区の農家で、日ごろあまり見かけない弥生時代中期後半(今から約 1,900 年前)の土器を見せていただきました。自宅近くの畑で拾ったとのことでしたので、早速現地に案内していただき、掘くっさく削した崖の断面に残っていた土器片などを確認しました。現場の状況から、遺構が残っている可能性が高いと判断されたので、町史の資料収集を目的として 8 月 18 日から 27 日までの 10 日間、発掘調査を行いました。
遺跡は、真名子城跡から西方に下る尾根の鞍あんぶ部で、標高約 110 mの南西向きの緩い斜面となっている場所に立地しています。調査は、2m四方の調査区(グリッド)を設定し、土層断面を残して約 10 ㎡を掘り下げました。その結果、地表から 40 ㎝ほどのところで土器の破片がややまとまって出土し、周囲を精査した結果、土どこうぼ坑墓と思われる遺構が2基確認されました。西側の第1号土坑墓には、渦うずまきもん巻文の施された壺がほぼ完全な形で納められていましたが、他には完全な形になるようなものは無く、土坑の下部からは大形の破片2、3個体分、上面からは小片が撒まかれたような状態で出土しました。また、玉類などの副葬も確認できませんでした。掘り上がった土坑の計測値は次の通りです。第1号は長径が 105c m、短径が 90c m、深さが 40cm で、第2号は長径が 90cm、短径が75cm、深さが 33cm の楕円形状でした。
発掘後、出土した土器を水洗し復元作業を行ったところ、渦巻文が施されていた短頸の壺
にはベンガラによるものと思われる赤せきさい彩が施されていたことが分かりました。また、口縁部が割り取られていたことも判明したことから、骨などを納めた容器として使用されたものと推測されます。 (西方町教育委員会 0285-22-9668)
2. 史跡樺かばさきでら崎寺跡の発掘調査(足利市)
史跡樺崎寺跡は中世を代表する豪族武士団・足利氏の氏寺跡・廟びょうしょ所跡で、足利市北東の山間地、樺崎の谷に位置します。
樺崎寺は文治 5 年 (1189) 源姓足利氏二代目の足利義兼が奥州合戦の戦勝祈願のために創建したとされ、鎌倉・南北朝・室町時代を通して発展します。昭和 59 年度より行われた発掘調査では、八幡山山麓の堂塔跡や浄土庭園跡などが良好な状態で確認され、平成 13 年1月に国の史跡に指定されました。平成 20 年度の発掘調査では、園えんち池北東部において南北朝期の池の東岸が良好な状態で確認され、園池北東部導水口から取り込まれた水を絞り込むように東岸が池側に大きく張り出す形状になっていたことが明らかになりました。池の護岸は粘土に 10 ~ 20cm 大の礫を貼って洲浜とし、護岸の傾斜は約 20度であることがわかりました。また、園池南部において江戸時代の暗あんきょ渠排水用の木もくひ樋が確認されました。樺崎寺の園池は江戸時代に鶴池と亀池の二つにわかれ、今回確認された木樋も江戸時代に亀池が溜池として利用されるようになって設置されたものと思われます。 (足利市教育委員会 0284-20-2230)
3. 藤ふじい井 39 号墳の発掘調査(壬生町) 藤井 39 号墳は、国指定史跡「吾あづま妻古墳」の西側に位置する古墳です。町教育委員会では、古墳の規模と吾妻古墳との関連を調べるために発掘調査を行いました。当初、墳丘測量の段階では、方墳の可能性もありましたが、調査の結果、墳丘の直径が約 35 mの二段に造られた円墳であることが確認されました。墳丘第一段の平坦面は幅広く造られており「基きだん壇」と称される吾妻古墳にも見られる特徴をもっています。墳丘の周りには幅 6m、深さ 1.5 m程の周溝がめぐっていました。石室は墳丘の南側に、川原石を小口状に積み造られていました。天てんじょういし井石や奥壁一部は抜き取られていましたが、その他は良好な状態で出土しました。とくに、死者を埋葬し
た玄げんしつ室に通じる玄げんもん門は、大きな川原石を巧みに組立てて造られていました。石室の中からは、埋葬者の頭の位置と推測される箇所から、一対の金こんどうば銅張りの耳じかん環が出土しました。今回の調査から、吾妻古墳が造られた後に、藤井 39 号墳が造られたことが分かりました。県内最大の規模をもつ吾妻古墳のすぐ西側に古墳を造れる人物とは、吾妻古墳に眠る人物に近い一族なのかもしれません。
(壬生町教育委員会 0282-82-8544)
4. 鳥とりいど井戸遺跡の発掘調査(宇都宮市)
鳥井戸遺跡は、宇都宮市の南東部、鬼怒川の左岸に南北に連なる台地上にあり、昨年度調査を実施した下しもにしはら西原遺跡から谷を挟んで 500 mほど東に位置します。市道改良工事に先立つ今回の調査では、古墳時代後期及び平安時代初期の集落跡が確認されました。
竪穴住居跡では、一辺6m前後の比較的大きな住居跡が 2 軒、一辺3~5mの小さな住居跡が 9 軒確認され、中には焼失したと考えられる住居跡も確認されました。遺物では、須恵器の坏や土師器の甕などが多く出土しましたが、特徴ある遺物としては、住居跡内の土坑の底に据えられた器台と考えられる大きな須恵器や、一つの住居跡から出土した碁ごいし石のような白色と黒色の多数の小さな石もありました。その他、調査区の一部からは縄文時代の土器片等も出土していますが、縄文時代の住居跡等の遺構は確認されませんでした。
今回確認された住居跡は、遺物等から7世紀前半と、9世紀初めから中頃の時期と考えられます。下西原遺跡(7世紀前半)をはじめ、この地域の古代の集落の様子が明らかになってきました。(宇都宮市教育委員会 028-632-2764)
5. 高たかはらやま原山黒こくようせき曜石原げんさんち産地遺跡群剣けんがみねヶ峯地区の発掘調査(矢板市)
高原山黒曜石原産地遺跡群は、高原山の山頂付近に広がる後期旧石器時代の遺跡です。平成 18 年度から遺跡の具体的な年代・範囲・性格、あわせて高原山黒曜石の生成過程や使われた時代、また流通した地域の解明などを明らかにするため、5ヶ年の文化庁国庫補助を受けて発掘調査を実施しています。これまでの調査によって、後期旧石器時代初頭(約 35,000 年前)の時期に特徴的な台だいけいよう形様石器や、縄文時代への移行期(約 14,000 年前)の石器群と考えられる大型な両面加工尖せんとうき頭器などが出土しており、後期旧石器時代全般を通じて石器製作が行われたと判断されます。また、石器製作に必要な大量の黒曜石を入手するための採掘が行われるなど、国内屈指の原産地遺跡として評価することが可能です。年間の調査日数が僅か 20 日前後に限定され、さらに2時間にもおよぶ現地への登山が調査上の大きな弊へいがい害ですが、国指定史跡の指定に向けて的確かつ綿密な調査を実施しています。なお、発掘調査最終年となる本年度の調査は、遺跡の範囲確認と採掘坑の究明を主目的としています。例年より調査着手時期を早めた6月に予定しており、間もなく開始されます。(矢板市教育委員会 0287-43-6218)
埋蔵文化財センターが実施した発掘調査から
欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡
古代 掘立柱建物跡(西から)喜連川丘陵には、北西から南東に流れる荒川とその支流
に沿って、細長い谷が形成されています。このうちの江川沿いの谷の西岸には、西側の丘陵から張り出した緩い傾斜の台地上に、北から山の神Ⅱ遺跡、欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡、小鍋内Ⅰ遺跡が立地しています。前者は平成 19・20 年度、後二者は平成 20 年度に発掘調査を実施しました。なお、欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡と小鍋内遺跡は一続きの遺跡です。
山の神Ⅱ遺跡 奈良・平安時代や中世の集落跡を主として、縄文時代から近世までの遺構を調査しました。縄文時代の陥お とし穴と思われる土坑は、1 列に並び、5 基発見しました。古墳時代から古代では竪穴住居跡 22 軒を調査しました。古墳時代の 1 軒以外は、奈良・平安時代の住居跡で、カマドが北西と東に設置された 2 タイプにほぼ限定されます。この中の 1 軒からは、土師器に入った漆うるしがみ紙が発見されました。中世では掘立柱建物跡1棟と方ほうけいたてあな形竪穴遺いこう構 8 基の他、たくさんの土坑が確認されました。これらの遺構は溝跡によって区画された方形状の空間に関連しており、あるいは江川を挟んで所在する金かなえだじょう枝城との関係があるのかもしれません。
欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡 縄文時代の前期と後期、古墳時代後期、奈良・平安時代の集落跡を調査しました。縄文時代としては、前期(今から約 6,000 年前)の竪穴住居跡 12 軒が発見されました。縄文土器や磨石・石皿が多く、狩猟用の石鏃や皮かわは剥ぎ用の石いしさじ匙も出土しました。石匙には、山形米沢地方産の硬こうしつけつがん質頁岩を用いたものがあり、遠い地方との交流があったことがわかりました。古墳時代後期のカマドを持つ竪穴住居跡は、硬く焼けた土の層を検出しました。カマド周辺にあった土壁が焼けて硬くなり、倒れたと考えることもできます。奈良・平安時代は小形の竪穴住居跡と掘立柱建物跡を調査しました。掘立柱建物跡を役所のような施設とする考え方もあり、一般的な集落とは別な性格があったかもしれません。
小鍋内Ⅰ遺跡 古墳時代の中期・後期と平安時代の集落跡、中世以降の溝跡や土坑を調査しました。ここでは北側の欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡より続く、古墳時代から平安時代の集落跡が広がっています。発見された竪穴住居跡には、欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡より時期が遡る古墳時代中期のものが数軒含まれています。また、後期では南壁の中央に張り出しピットを備える大型の竪穴住居跡も確認されています。今回の調査で古墳時代の集落の南限が確認できました。
欠ノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡縄文時代前期 竪穴住居跡(南から)山の神Ⅱ遺跡 調査区全景(南東から)山の神Ⅱ遺跡 漆紙出土状況
6. 山やまのかみの神Ⅱ遺跡、欠かけのうえノ上Ⅰ・Ⅱ遺跡、小こなべうち鍋内Ⅰ遺跡
(江川南部Ⅰ・Ⅱ地区)の発掘調査(さくら市)
5かわらけが多数出土した井戸(東から)
7. 長ながぬまじょう沼城跡の発掘調査(真岡市)
長沼城跡は、真岡市長沼地内にあります。久くげた下田の市街地から南西へ 3.5 ㎞程の、鬼怒川東岸の低地から少し高まった場所に立地します。発掘調査は平成 20 年度に、緊急地方道路整備事業主要地方道栃木二宮線大だいどういずみ道泉工区整備に先立ち、7,700 ㎡を対象に行いました。調査の結果、長沼城に関わる堀約 50 条と、井戸や方ほうけいたてあな形竪穴遺構が発見され、青せいじ磁碗、常とこなめ滑系や瀬戸系の陶とうき器類、かわらけ、内ないじどき耳土器などが出土しました。
長沼城は、長沼宗むねまさ政(1162 ~ 1240 年)により、築かれたとされています。出土遺物からは、13 世紀の比較的古い時期に、二、三の井戸や城に関連するような施設が作られたことがわかりました。また、以前より城を囲う堀の場所が推定されており、北東方向へ突出する堀の一部分を調査することができました。堀の規模は、上幅 11m、深さ2m以上で、断面は逆台形状です。そして、突出部の外側にも、多くの堀や溝、井戸や方形竪穴遺構が発見されました。城の範囲はより広大で、堀や溝は作りかえも行われたことがわかりました。
小曽根遺跡の発掘調査は、県道の整備に先だって、行いました。遺跡は、群馬県との県境に近い、矢やばがわ場川北岸の低い台地上にあります。周囲には、前期の埴輪を出土したことで有名な小曽根浅せんげんやま間山古墳、後期の横穴式石室が見られる永えいほうじ宝寺古墳、小型の小曽根3号墳と 4 号墳があります。発見された遺構は、古墳時代の竪穴住居跡 2 軒、古墳の周溝 2 基、中世の井戸跡 1 基、地下式坑 1 基、溝跡 8 条、墓穴 15 基、遺物は、埴輪、土師器、須恵器、勾まがたま玉、臼うすだま玉、中世陶器、内耳土鍋、かわらけ、瓦、鉄製品、鉄てっさい滓などです。
古墳時代の周溝は後期、竪穴住居跡は中期に作られたものです。このことから、同じ古墳時代の中でも、この地区が墓になったり、村になったりと移り変わったことも考えられます。住居跡は一辺の長さが 5.2 mで、4つの柱穴があります。土器に混じって石製勾玉、臼玉が出土しました。玉は、何かの儀式に使ったものと考えられます。中世の墓穴は、L字形に曲がる溝で仕切られた区画の内側に集中しています。このような状況は、他の地域の中世墓地でも見られ、当時の墓の様子を解明する手がかりになります。
8. 小おぞね曽根遺跡の発掘調査(足利市)大規模な堀の調査状況(南西から)小曽根遺跡出土の古墳時代中期土器奥の林が小曽根浅間山古墳(南東から)
埋蔵文化財センター 0285-44-8441
(略)