「多様性」から「多視性」へ
多様性については、ずいぶん前から重要性が訴えられ、行政や企業で進められる「女性の管理職登用推進」に対して、毎年のように、その低さがメディアで指摘されている。
言うまでもなく、多様性が指し示すのは女性だけではない。
労働の領域では、女性も含む多様なジェンダー、障がい者、外国人労働者。環境の領域では、生物多様性(種の多様性)。まちづくりの領域では、子どもからお年寄りまで含めた多世代、地元住民とよそ者。
それぞれの領域で多様性が想定する対象は違えど、共通しているのは、従来の「マジョリティ(大多数)や強者が考え、決定する」のではなく、「多様な立場から考え、決定する」、「今まで見過ごされていた立場や存在の力を十分発揮する環境をつくる」という価値観なのではないかと思う。
この方向性を否定するつもりはなく、むしろこの価値観が社会に広がっていくことは歓迎したい。
ただ、「女性の管理職登用」のように、「数値目標を目指すこと」のみに目が行ってしまう私たちの自然な思考には、違和感を感じている。
数字は明瞭で分かりやすいツールではあるものの、その分かりやすさ故か、何か大切なことを忘れてしまいそうになるのだ。
いま、「多様性」という言葉が私たち訴えかけるものは、なんなのだろうか。
この問いに対して、私自身が抱いているのは、「私ではない、あなたの視点」という認識である。
私たちは、自分の目で日常を見て、感じて、考え、多くのことを決断し、行動する。
そして残念ながら、私も含めて、多くの人がその決断と行動で、無意識にも誰かを傷つけてしまってきた(でなければ、社会はこんなにも悲しくはない)。
過去を振り返ってみたときに、私たちに足りなかったものは、いくつもあるだろう。その中でも、私自身が感じる反省的不足は、「あなたの視点」である。
もしも、あのとき、彼の立場で考えていたら、あんなことを言わなかった。もしも、あのとき、彼女たちの置かれている状況を知っていたら、こんなことをしなかった。
小学生でも教えられる「相手の立場で考える」が、大人になればなるほど、忘れてしまうのかもしれない。いや、相手の立場を考えるという面倒くさいことは敬遠して、自分の立場で押し通した方が楽(効率的)なのかもしれない。
多様性という言葉は、そんな私たちに警鐘を鳴らし、考え方を改めていく希望ある概念であるはずだが、「異なる存在がある(すなわち、女子管理職が●%である)」ことだけに私たちは目がいき過ぎているのではないか。
だからこそ、私は「多視性(たしせい)」という言葉を提案したい。つまり「私自身の中に、あらゆる立場の視点を持つこと」である。
“状況としての”多様性ある社会が実現したとしても、一人一人の価値観、そして思考・決断・行動に「あなた(他者)」の思いの理解が抜け落ちてしまっては、意味がないのではないだろうか。
そんな多視性を持つために、私たちは日々、様々な人や価値観と出会い、そして、対話を通じて、相手の考えを理解し合う(相互理解)ことで、私自身の中に「あなた」という存在と視点を溶けこましていくことが、求められているのかもしれない。