目覚めとは、「スピリットは実在である」と認めることです
2020.11.01 23:34
先日は、奇跡のコースの実践をされている兄弟がデーヴィッド・ホフマイスターの動画をシェアして下さり、心に響いた内容を書かせていただきます。
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二元性は、キリストである私達の真の自己の家ではありません。
それゆえ、二元性の中で満ち足りることや幸せになることは不可能です。
すべての穏やかでない状態は、単純に、目覚めることへの恐れなのです。
夢見る者は、夢を見ていることに気づいていなければなりません。
夢から目覚めるためにです。
目覚めへと導くその「気づき」は、幻想を赦すということです。
赦すことは、単純に、誤りを誤りとして見るということです。
この心の状態に、例外などありえません。
部分的な赦しで到達するのは、不可能です。
赦しは完全に経験されなければなりません。
「経験される」とは、そもそもそういうことです。
キリストは、「世界の外に出なさい」とあなたに呼びかけています。
この呼びかける声の意味が一瞥されたなら、それはハッキリと文字通りに明白になります。
世界の思いに参与しつつ、それと同時に「汝自身を知れ」というのはありえないということです。
真理と幻想に、合流点などありません。
完全なる愛は、恐れを追放します。
そして、光は闇を滅します
ガイドは、はじめのうちは内側へと向かうように導きます。
経験の方へと、冒険の方へと…
夢見ていることに気づく発見の方へと導きます。
この気付きの状態の中で、それは常に明白です。
世界で起きていることは実在しません。
形あるものは、移ろいかわりゆくように見えます。
夢の形態は、来ては去り、立ち現れてくる表象に実体はなく、夢の織りなすそれらは、夢見る者をもはや惑わすことはできません。
コントロールしている幻想のマトリックスには、魅力も魅惑もありません。
神と共に思うことから生じる見方からすれば、魅力的でも何でもありません。
裁きもない罪もない世界をそっと夢見るのです。
神は一切、裁かず、そこには裁くものが文字通りにないがゆえに、
赦しとは複数からなる部分など知らない完全性を受け入れることと呼べるかもしれません。
しばしば、スピリチュアルな目覚めは、何かを諦めることと関連付けられています。
この誤った関連付けは、欠乏の信念から生じます。
完全性の否定を試みることが可能だとされ、
神の被造物は永遠に完全無欠であり、欠乏を知ることがありません。
何かを諦める必要などないのです。
それははじめから存在してはいないからです。
惑わすような夢なる表象は、明らかに見てすぐにわかります。
分離という願望から解放されたなら、瞬時にハッキリとそれとわかります。
「完全性は何処にもいかない」と。
これまでもそうだったように。
目覚めようとする意欲には、「ここから抜け出したい」という欲求の解放も含まれています。
それによって、完全性は見出だされるのです。
ここにあるのでもなく、あちらにあるのでもないのです。
追い求めたり、逃げゆく何かと戦ったりすることは、不可能なことなのです。
それが信念を強化していると分かってないのです。
完全なるもの以外の何かの信念を強化しているということです。
完全性は、外見上のすべてのものを超越しています。
もし、キリストが実在なら、世界は実在ではありません。
スピリットは、時間と空間の中に存在し得ません。
目覚めとは、「スピリットは実在である」と認めることであり、「神のうちにあるアイデンティティーは不変である」と認めることでもあります。
身体に意味なとありません。
なぜなら、心は一つであり、スピリットも一つだからです。
永遠なる一なるものに隔たりなど無いのです。
私は、スピリットです。
この事実を喜んで下さい。
あらゆるものを一なるスピリットとして創造してくれたことを、神に感謝します。
ホーリースピリットの思いに従うことは、簡単です。
それ以外に望むものなど何もないからです。
目覚めることは、自然なことです。
ただし、目に見えるものに価値を与えるならば、難しいように思えます。
目に見えるものに価値を置かないならば、真理は瞬時に「気づき」の中へと跳躍していきます。
真理は、なんてシンプルで明白なのでしょう。
聖なるあなたへ、私はあなたを永遠に愛しています。
デーヴィッドより