南向山 西方院 2020.11.03 00:50 僕たちは、西方院が戦国時代になぜ焼かれたか、僕たちが気になった竹内街道の由来が気になり鍋島さんに調査しに行きました。質問1「西方院は戦国時代になぜ焼かれたのですか?」答え織田信長が天下平定(てんかへいてい)のために大阪一帯を支配下にしようとして太子町一帯を攻撃したためです。詳しいこと戦国時代の当時、日本を治める力が弱くてそれぞれの地方の人たちが好き放題でした。しかし、太子町には立派なお寺があり、寺が中心となり太子町やその周辺を平和に治めていました。大坂の人を支配下におこうとしていた織田信長は大坂に攻め上ってきました。太子町の人たちは支配下にされたら自分たちで自由に治められなくなると考えた太子町の人たちは抵抗をしました。太子町を支配下にするために、織田信長は聖徳太子御廟(ごびょ)周辺の叡福寺や西方院もことごとく焼き払いました。※織田信長の軍勢が焼いたとされますが軍勢を率いたのは明智光でした。質問2「竹内街道の名前の由来は?」答え竹内峠を越えて堺から大和に行く道だから。詳しいこともともとは、国道の166号線を通って竹内峠を越えて奈良県葛城市竹内の集落へ行くこといるから竹内街道と呼ばれるようになりました。その竹内峠の名前の由来は峠の先に昔の竹内村(たけのうちむら)があり、その村には武内宿祢(たけのうちのすくね)という古代の豪族がいたと伝えられます。その武内宿祢という人が竹内峠の名前の由来となっています。武内宿祢は仁徳天皇や応神天皇などをほさしたことがあり、お札のデザインにもなったことがある有名な古代の民族でした。同じ竹内街道でも時と場合で言い方が変わります。大阪では伊勢道、はせ道、奈良道と言われていて、奈良のほうでは、大阪道、堺道、大阪堺道とも言われていました。江戸時代は道に番号や名前をつけてはいなかった。しかし、竹内街道は歩く人がその行き先によって道の名前をつけていてそれが定着していきました。(江戸時代では名前をつけるのは滅多にないとあるが大きい幕府が作った街道には名前があります。)伊勢神宮にお伊勢参りをするときの道として多くの人に利用されていました。 科長神社の歴史