穢れ、禊、祓
「三貴子の誕生」で、古事記の原文にも記述がある通り、黄泉の国からお戻りになられたイザナキさまは、
「なんという穢れた国に行ってしまったのだろうか、心身の穢れを祓うために禊をしなければならない」と思し召されましたが、この「穢れ」「禊」「祓」こそが神道の根本的な考え方でしょう。
「穢れ」は「あるものが理想的でない状態」を表します。例えば「死」とは「穢れ」であり、穢れがついている人やものは災いを引き寄せるものだと考えている訳です。
穢れに触れた場合に水で心身を清めることを「禊」といいます。
災厄を引き起こす穢れを浄化する総括的な行為を「祓」といいます。
古事記においてイザナキさまは、黄泉の国での穢れを祓うために、「日向の橘の小門の阿波岐原(ひむかのたちばなのおどのあわきはら)」に於いて、川の水で身をお清めになられました。そして、最初に産まれた神は、「ひとに災いを起す神」、続いて産まれたのが、「災いが起こる前の状態の神」でした。
その後、禊をおつづけになられ、最後に誕生されたのが、天照大御神、月読命、須佐之男命の三貴子(みはしらのうずのみこ)でした。
現在でも神道の「祓詞」にはこうあります。
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す」
( かけまくもかしこき いざなぎのおおかみ つくしのひむかのたちはなのおどのあはぎはらに みそぎはらえへたまいしときになりませるはらえどのおおかみたち もろもろのまがごと つみ けがれあらむをばはらえたまい きよめたまへともうすことを きこしめせとかしこみかしこみももう)
この祓詞の意味は、
「 伊邪那岐大神が、死者の住む黄泉国を訪ねて御身が穢れたため、筑紫の国の日向の橘の小戸の億原(あはぎはら)という浜辺で、水につかって身を清め禊をした時に誕生になった、祓戸の大神等(おおかみたち)、これらの神の御神徳によって、私達の犯した罪や心身の穢を祓い清めて下さいと、申し上げることをお聞き下さい。 」
という内容です。
一見すると、祓詞は、キリスト教の原罪に対する「赦し」に似ていますが、そうではなく、神道ではイザナキさまを始め多くのご神徳(ここにはアマテラスさまを始めとした三貴子も...)で、心身が清められた状態で神事を行うという、実に温かみのある考えが神道の考えなのです。