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一乗山 善福寺|浄土真宗本願寺派|神戸のお寺

御文章 「白骨章」意訳

2020.11.04 02:59

御文章(ごぶんしょう)とは、浄土真宗本願寺派の中興の祖・蓮如上人が書かれた、浄土真宗の教えが(当時の言葉で)分かりやすく述べられたお手紙です。


現代ではお勤めの終わりに拝読がなされます。

今回は、通夜葬儀や還骨の際に拝読される「白骨の章」を意訳いたしました。


御文章 五帖目第十六通 


「白骨の章」 


それ、世間の定まりの無いありさまをよくよく考えて見ますと、何が儚いかと言えば、人間の生まれてから死ぬまでの幻のような一生であります。

いまだ一万年を生きた人がいたということを聞いた事がありません。人の一生は過ぎ去りやすいものです。

今までに誰が百年間も変わらず、健康を保てたでしょうか。

人の死とは、私が先か、人が先か、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より遅れて、人より先に死にゆく人の数は草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。


それゆえに、朝には健康で血色の良い顔をしていても、夕暮れには白骨となれる「私のいのち」であります。

無常(死)の風が吹いてしまえば、たちどころに二つの眼は閉じ、息は絶えてしまいます。すると、血色の良い顔もむなしく変わり、桃のような美しい姿も失われます。

そうなってしまえば、家族・親戚・友人が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできません。

そのままにはしておけないので、通夜葬儀をして、火葬をして、夜更けの煙となってしまえば、ただ白骨のみが残ります。

あわれと言っただけでは言い足りません。


人が死ぬということは、老いも若いも関係のないこの世の道理であります。

だからこそ、どのような人も「後生の一

大事」(自身の生死の大問題を解決すること)を心に留めて、その生死の問題を心から阿弥陀仏におまかせして、南無阿弥陀仏とお念仏申すべきであります。


本願寺第八代 蓮如上人