Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

アテルイを巡って

2020.11.04 09:13

https://kasatetu.exblog.jp/22169508/  【アテルイを巡って】 より

東北大震災の翌2012年、青森市の「ねぶた大賞」と知事賞に選ばれたねぶたのテーマは、どちらも「阿弖流為」(アテルイ)だった。彼は、8世紀から9世紀にかけて、大和朝廷軍と戦った「蝦夷」の軍事指導者で、同志の母禮(モレ)と並び称される人物だ。

彼らは通説では、「反逆者」とされ、東北地方でも忘れられかけていた。しかし、視点を変えれば、彼らは地元の英雄だ。数十年の間に、再評価運動が強力に進められ、特に大震災後は彼らを主人公とするドラマが放送・公演されている

アテルイ

新幹線水沢江刺駅の東方にある羽黒山上の「出羽神社」横には、2005年に建立された慰霊碑(写真①)があり、「アテルイ・モレ顕彰の地」という説明板がある。

ここから見下ろす一帯は、古代東北史に有名な巣伏(すぶし)の戦場跡地だ。奥州市水沢区・胆沢区にまたがる北上川両岸には、アテルイとの関連を示す碑や標識が散在している。

桓武天皇が781年に即位した当時、現在の東北地方は「日本」の国外だった。天皇は、東北地方への領土拡張政策を重視し、朝廷軍は、789年に日高見国胆沢(ひたかみのくに・いさわ)に侵攻したが、現地住民軍によって撃退された。

タムラマロ

その後、802年に、アテルイとモレが征夷大将軍・坂上田村麿(サカノウエタムラマロ)に「降伏」した。タムラマロは二人の命を救うよう提言したが、結局、二人は河内国で処刑されたという。

京都市東山区にある清水寺は、タムラマロが自らの邸宅を寄進して、創建したと伝えられている。彼は、地蔵菩薩と毘沙門天の仏像を、清水寺に寄進した。

同寺の境内には、平安遷都千二百年を記念して建てられた「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」(1994年建立、写真②)がある。この碑面の背景には東北地方の地図が配されている。 

伝承塚

 かつて「河内国」に属した、枚方(ひらかた)市の牧野(まきの)公園内には、「伝 阿弖流為・母禮之塚」の碑(2007年建立、写真③)がある。二人のゆかり(処刑または埋葬)の地だという。

この碑にある「伝」の文字は、史実かどうかは別として、古来の伝承があったことを示すものだ。しかし、この「伝承」は最近になってから、現れたものだという指摘がある。

県内の伝承

タムラマロは青森県内に足を運んでいないとされるが、県内には、タムラマロ創建と伝わる寺社が多い。その他、次のような伝承まである。

・「日本中央碑」

 東北町の「日本中央の碑歴史公園」にある石碑には、「日本中央」という文字が刻まれている。この文字はタムラマロが刻んだものだと、古書には書かれている。

・ねぶたの起源 

ねぶたは、タムラマロが戦場で用いた大燈籠に始まるという説が、かつては有力だった。

青森駅前の展示施設では、現在もこの説が掲げられている。現在の「ねぶた大賞」は、以前「田村麿賞」と称されていた。

・「藤崎」の由来 

 彼が地面に刺した藤の鞭から、花が咲いたので、地名が「藤咲」となり、さらに「藤崎」に転じたともいう。

 他方、アテルイやモレに関わる伝承は、県内に見当たらない。これは、彼の活動地が青森県から離れているためだけだろうか。


https://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-12081818503.html 【「ザ・フナイ」Vol.97 『日之本文書』に描かれた真実の歴史 連載13回 「エミシ・阿弖流為に関わる驚くべき史実の数々」】 より

これまで、当方を含めて「阿弖流為は日高見国のエミシ出身の英雄である」という先入観があった。阿弖流為が日高見国の英雄であることは間違いないのですが、「エミシ出身」ということについては、根本的に修正されなければならなくなった。なぜならば『日之本文書』には「阿弖流為及び母礼の祖は山靼人である。彼の出身地は興安嶺満達であり、騎馬首領である」と確信的に書かれてある。たしかに阿弖流為の処刑された首をみれば、西方騎馬民族の容貌をしている。

この首が彼の部下によって、京都から荒覇吐系の鹿島神宮に運びこまれたのであるが、それを受け入れた鹿島神宮には、その説明版に「阿弖流為は、大陸系の漂流民であり、オロチョンの首領である」と書かれている。

このほかにも、阿弖流為に関するさまざまの史実が書かれてあり、これまでの常識を根本的に覆るものとなっている。参考までにこの論文の主な小見出しを掲げておこう。

阿弖流為は日高見国のエミシ出身であったか 『阿弖流為』についてのすべての常識を覆す 「「阿弖流為とは荒覇吐五王の一人で祖先は山靼人」の衝撃

『北斗抄』の「阿弖流為軍艦」は偽作ではない 「阿弖流為軍艦」は阿弖流為のもとに結集した軍事的リーダーの名簿である  「阿弖流為軍艦」の地名は『日之本文書』の真実性を証明する 荒覇吐国による日高見延暦8年戦争の大勝利 延暦9年夏の「出羽・羽黒月山での征夷軍の大敗」が隠されている 延暦13年の征夷大勝利は本当はなかった 田村麻呂は軍事的勝利を諦めて「蝦夷慰撫」に転換した 田村麻呂は武力では制圧できずに謀略を仕掛ける 阿弖流為は謀略によって拉致、謀殺された


https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/dbff16b84cc6ef71a2fd101a4943f06f 【ブナを守ってきたアテルイ】 より

鬼首(宮城県大崎市)の地名由来は、平安時代の昔、神室山を根拠にしていた悪路王という蝦夷の酋長の首が飛んできたことから。

怖い顔をしていたので、村人は突然空から降ってきた彼の首を鬼の首と見違えて、「鬼の首が降って来た」と言って驚いたそうだ。

これが元で、この地を「鬼首」と呼ぶようになったという。

このあたりは温泉が多く、間欠泉もあちこちに見られます。

荒雄岳という山があり、ブナ林がとても美しく紅葉の時期はハイカーで賑わいます。

標高もそんなに高くないので初心者でもOK。

数年前の秋に登山をした時は少し雨が降り雲がかかっていました。

山頂付近からみえる神室山の神々しさを感じ、ここに蝦夷の拠点としていた理由が伝わってきます。温泉は体をいやす医療の目的も果たしていました。

鬼首高原の美しい風景をみながら温泉なんて贅沢だな~と思うような素敵な所です。

すぐ隣は鳴子峡なので、ここの渓谷もまたすごい!

「鬼」の地名については、「津軽の鬼・鉄・古銭をたずねて」の岩井良子氏を参考にしてみるとわかります。

鬼は鉄の由来があり、津軽では岩木山麓の厳鬼山神社、鬼神社など「鬼」を神として祀り鬼伝説も多い。

この近辺では、鉄滓(かなくそ)が出土しており、猪の土偶や勾玉も出土され製鉄を行っていたことがわかる。

岩木山中腹に鬼神を祀る赤倉神社がある。

鬼が田畑を開き、新田のために渇水がひどいと一夜のうちに鬼が谷から水を引き上げてくれたという。

神を祀る村では、節分の行事は行わず5月の端牛の節句に軒に菖蒲を下げない風習が残っている。

西日本の鬼といったら丹波。

「日室ヶ嶽」という山がある。元伊勢のある場所で大江山の付近だが、大江山にも鬼伝説が伝わり、酒呑童子物語の舞台となったところで有名。

日室=ヒムロだから、霊(日)の室だと思われるが、太陽神であるピラミッドを象徴としているような山。

それに対し、大崎市の神室は、アイヌ語のカムイともよみ、神の居所や火山帯であることから、火の室と考えられていたのでしょう。

神室山は山形県・秋田県堺にある1300mくらいの山で、もうひとつ鬼首高原にある禿山(かむろやま)は標高1200mくらい。

同じカムロという名前をつけているが、禿山は神室連峰と続いている山なので、何だか紛らわしい。

Ara04 (荒雄岳からみる神室山)

神室山は、アイヌ語でオンネヌプリといって年老いた山の意味。

ここに重要な神社があります。

それが荒雄川の水源を祀る荒雄川神社。

大崎市池月にもありますがここは里宮で、奥の院が鬼首にある荒雄川神社なのだそう。

由縁によると、創建は不詳で、荒雄岳には雄石・雌石という2つの大石があり、その下から荒雄川の源泉となる水が湧き出ているという。

その大石を『大物忌石』『大物忌神』と呼称し、社殿を建てて祀ったと伝わります。

Ara03 (白い煙は温泉の湯気)

もとは「荒雄河神社」と称し、荒雄岳の水神峠付近に江合川(荒雄川)の水源があり、そこに社殿を設けて荒雄川の水への畏敬の念を込めて水神である大物忌神を奉斎したといわれます。

荒雄川流域にも、大物忌神の神霊を祀る三十六ヶ所の神社が建てられ、その後も羽黒派修験の道場となったが、時代とともに荒廃したため、明治5年(1872年)に現在の鎮座地へ遷座したとある。

大物忌神を主祭神として祀り、他に、鬼首温泉に鎮座する神社の神々である素戔嗚命、誉田別命(=応神天皇)、軻遇突智命(カグツチ)、大山祇神、日本武尊を合祀しています。

境内社として、雷神社(祭神:大雷神)と八幡神社(祭神:誉田別命)、主馬神社(祭神:金華山号)が鎮座されている静かな神社。

大物忌神(おおものいみのかみ)は、山形県の鳥海山に宿る神。

鳥海山頂の鳥海山大物忌神社をはじめ、東北地方各地に大物忌神を祀る神社がある。

鳥海山は古代のヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。

鳥海山は火山であり、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた。

大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。

鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。

鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている。

朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』[3]では推測している。(Wikipedia)

(荒雄川神社:左が主馬を祀り、右奥が祭殿)

また荒雄岳付近の山はブナが生い茂っている。

ブナがあるという事は、昔は狼もいて、今よりも動植物が豊かでした。

ブナ林一帯では縄文文化が営まれており、米の変わりの雑穀を栽培していました。

単純に、アテルイは奥地に逃げたわけではなく、ブナのある森へ向かっていただけだと思うし、水源の源がブナ林であったことを知っていたのでしょう。

ブナの落ち葉は水を多く含みます。

スポンジのように大量の水を吸収するブナは、貴重な水資源でした。

ケルトではブナはオークとよび、水脈にある所にオークが育つといわれ雷がよく落ちる。なので雷様ともいわれる。

白神山地をなぜ「白神」というのか?

それはブナの原生林が豊かな水と魚や動植物をたくさん生息させ、地球上にあるすべての生き物を備えたかのような所だったと昔の人は考えていたからです。

昔の人は、白神山地が地球の中心であったと思っていたはずです。

白という地名をつけるのは、大地(人間)と天(宇宙=自然神)を区別している尊敬語ともいえるでしょうし、シロは死の世界の意味もある。

再生する植物をみれば、人間の命もこの森で再生すると考えていたからです。

縄文では、生と死が同じ位置、時間軸にあったと考えていました。

なので、亡くなった人の遺骨は民家の側に置いていましたが、稲作文化が入ってきた弥生時代頃には、住んでいる所より遠くに墓を作るようになりました。

生と死を区別して考えるようになったからで、その死生観は、縄文人と弥生人では異なるのです。

縄文土器の多くが人間や動物にかたどられているのは、人間も土からできている(生まれている)と考えていたからで、出産時に火を焚いていたのはそのような意味があるからです。

縄文では火山も同じように地球のサイクルと考えて「生きている山」とみていました。

そこから湧き出るお湯は、胎水と同じように重要な水だったのです。

東北の人たちは、根ッ子の深いところまで大地に根ざして生きている人たちだと思います。

関東と比べて風土が違うのです。

風土は土の匂いだったり空気だったり、微量なものであって感じられないとわかりませんが、東北の大地は土が命だったと感じます。

関東地方(武蔵国)は、水が頼りでした。

特に秩父は地理的環境においてあまり肥沃な土地ではなかったので、荒川の水に頼るしかなく、それが水を多く祀る由縁なのです。

秩父の食は、川にあります。川魚や山の幸が豊富なので山菜料理がメイン。川に生きている人々です。

それに対し東北の川は、昔は「河」と書かれただけあって、広い面積をもつ大河のことを意味します。これは中国から入ってきた漢字です。

荒雄川(河)の他に阿武隈川を祀る安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)も河と書く。関東の荒川は荒河とは書かないし、荒河神社というのも聞いたことがない。

秩父では荒川を祀る神様は、諏訪神社なのです。荒川に沿って諏訪神社が祀られているのをみると、秩父の荒川は諏訪神に守られていることがわかります。

で、鬼首の鬼とはだれなのー?

ということで、アテルイといわれている人ですが、物部氏が関わっていると思います。

アテルイがどんな一族であったかわかりませんが、最後に田村麻呂と一緒に京都にいけるくらいだから、大和朝廷を知っている人であったでしょう。

鉄の技術力と戦術、石を祀り水神を崇拝するところが物部氏とよく似ていますが、東北へ逃がれた安倍氏にも物部氏が関与していることは確かです。

秋田県にある唐松山天日宮はニギハヤヒを祀る。

物部文書によると、物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。

延宝8年に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。

今でも、唐松岳に元宮がある。

饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた三倉神社のある場所。当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという。

それに鳥海山は、鳥族の象徴の山。

鳥をトーテムとしていた人ということで白鳥の物部氏が気にかかる。

白鳥を祀る山は関東地方ではそんなにないが、東北地方では蔵王山麓に白鳥飛来地が多く、白鳥神社が多い。

また白鳥や物部氏をたどってみると、鹿島のタケミカヅチもよくでてくる。

武甲山に祀られている白鳥神剣神社についても、物部氏が関わっていることを考えると、武甲山も二ギハヤヒとして祀られていた時代があり、鳥と狼は同族だったのではないか?と思うのです。

いまだに震災の爪痕は多く、観光地などは今でも修復している所がけっこうあります。

以前はあったはずのものがなかったり、逆にきれいに再現されていたり。

鳴子峡も下へ降りて歩けるはずが、震災で立ち入り禁止になっていました。

なので自由に山や森へ入ることが少し怖い気がしてくる。

そんな時に大きな地震があったらどうしよう、と思うとぞっとする。

なんせ、東北に限らず日本全国地盤が弱くなっているから。

でも鬼首は強い所。

こんなにエネルギーがみなぎっている所はなかなか無いでしょう。

人が住んでいる土地は弱くなっているけど、人が住んでいない奥深い山には、まだまだそのままの大地が留めていてくれる。

あれだけ巨大な揺れにびくともしないような大地は探せばあって、そういう所は、アイヌの人や縄文人が住んでいた所だったりする。

そのような場所を好んでアテルイは過ごしており、またそのような揺れに耐えられるだけの石を祀っていたことも事実としてあるのです。

そのひとつが鬼首にあったのでした。