「宗教国家アメリカの誕生」11 ニューヨーク植民地
ニューヨーク植民地となる地方に最初に移住したのはオランダ人だった。1609年、アジアに通じる北西航路を発見するためオランダ東インド会社に雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソン(「ハドソン湾」、「ハドソン海峡」、「ハドソン川」は彼の名にちなむ)による探検に続き、1621年にはオランダ西インド会社(南北アメリカ新大陸との貿易を行う特権的な株式会社。西インドで砂糖や奴隷の貿易を行った。オランダは17世紀の大西洋黒人奴隷貿易の主役にのし上がり、その利益を独立運動につぎ込むことだできた)が設立され、フォート・オレンジ(現在のオルバニー市)とニューアムステルダム(現在のニューヨーク市)の二つの砦がおかれた。マンハッタン島の南に住み着いたのはオランダの毛皮貿易商たち。当時はビーバーの毛皮がヨーロッパで大流行し、それで一儲けを企む商人たちが大勢やってきた。1626年にオランダ提督のピーター・ミニュットは先住民(マナハッタ族)から60ギルダー(24ドル=今日の500〜700ドル)相当の装飾品(「布と短剣とビー玉」)と交換で現在のマンハッタン島を買い取り、ニューネーデルラント植民地の礎が築かれた。オランダ語から来ているニューヨーク市の地名は未だに多く、オランダ語で「兎の島」という意味の「コニーアイランド」、「ブルックリン」「ハーレム」「ブロンクス」「スタテンアイランド」などがある。
1640年代に棒杭と厚板でオランダ植民者の敷地と居住地を示していたが、1650年代にはニューネーデルラント植民地総督ピーター・ストイフェサントが「入植地の内外を隔てる壁」の建設を始める。これが「ウォールストリート」(ウォール街)の起源である。その建設理由については、「家畜の侵入を防ぐため」、「イギリス人の侵攻を防ぐため」、「先住民・外敵の侵攻を防ぐため」など諸説あるが、「オランダ人を守る」という部分で共通している。そして1699年にこの防御壁は撤去され、1711年にこの地はニューヨーク市の奴隷市場となる。やがて1792年にニューヨーク証券取引所ができて、現在のような金融街としての機能を持つようになっていく。これが「ウォールストリート」(ウォール街)誕生の経緯である。
ひきつづきフィンランド人、ドイツ人、スウェーデン人が到来し、又ニューイングランドからピューリタンが主にロングアイランドに移住して農耕に携わった。奴隷ではないアフリカ出身者(自由黒人)もみられた。このように建設はじめから、ニューヨークは人種・民族的多様性がその特徴であった。1646年までに、ハドソン川沿いに居住していたのは、オランダ人、フランス人、デンマーク人、ノルウェー人、スウェーデン人、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ドイツ人、ポーランド人、ボヘミア人、ポルトガル人、イタリア人である。
第二次英蘭戦争(1664年~67年)でイギリスがニューアムステルダムを占領し、特許によって国王チャールズ2世の弟ヨーク公(後のジェームズ2世)に旧オランダ領が付与され、ニューネーデルラントは以後ニューヨークと名を変えた(この戦勝で勝利したのはイギリスではなくオランダ。オランダは勝利したオランダはニューアムステルダムの自治権をイギリスに明け渡す代わりに、当時北米よりもさらに価値のあった東インド諸島のラン島を獲得した)。公用語もオランダ語から英語に変わった。その後、第三次英蘭戦争(1672年~74年)中、ニューヨークは一時オランダに再占領されるが、ウェストミンスター条約(1674年)によりイギリスによる保有が認められた。その後、人種・民族的多様性および宗教的寛容の風土から生じる不安定な要素を抱えながら、ニューヨークは発展した。
ニューネーデルランドが陥落し、大英帝国の植民地体制に統合された後も、オランダ人は、長期間にわたって、引き続きニューヨーク地域に強力な社会的・経済的影響力を有していた。オランダ人が建設した急な階段状の飾りがついた切妻屋根は、この都市の伝統的な建築の一部となり、また、マンハッタン独特の活発な商業環境の多くは、オランダ人商人によってもたらされたものであった。
1650年代のニューアムステルダム
1660年のロウアー・マンハッタン(右が北) 当時は、ニュー・アムステルダムの一部
ピーター・ストイフェサント
「ピーター・ストイフェサント像」ストイフェサント・スクエア ニューヨーク
建設当時の防御壁(WALL OF PROTECTION)
ジーン・レオン・ジェローム・フェリス「ニューアムステルダムの降伏」
1730年ごろのニューヨークの奴隷市場
ジョン・コリア「ヘンリー・ハドソンの最後の航海」1881年