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栃木・黒羽城~こちらも珍しい関東の外様大名のお城

2020.11.05 02:03

https://ameblo.jp/castlemania/entry-12100548493.html  【栃木・黒羽城~こちらも珍しい関東の外様大名のお城】より

栃木県大田原市にある黒羽城跡です。ここも前回の大田原城に続き、関東では珍しい戦国期から明治時代まで一貫して外様大名が治めた城跡になります。黒羽藩大関氏、1万8千石の藩庁があったところです。

○黒羽城

黒羽は松尾芭蕉が「奥の細道」の東北行の中で最も長い14日間逗留した場所であり、城跡の周辺にもその遺蹟があって、整備されております。

大田原城もそうですが、とにかく土塁が高い!「高石垣」ならぬ「高土塁」です。

本丸と中丸の間にある空堀。

中丸と三の丸の間にある空堀。今は通路になってますが。空堀特集みたいになってしまいましたが、黒羽城はとにかく幅と深さが立派な空堀がちゃんと保存されていて素晴らしいです。先ほどの高土塁と合わせて、このお城の見どころですね!!

三の丸跡にある「芭蕉の館」。

この広い三の丸の中に、松尾芭蕉が逗留した際に宿泊した門人・浄法寺高勝(黒羽藩城代家老・俳号「桃雪」)の屋敷があった縁で、ここに資料館が置かれています。

敷地内には、その浄法寺邸もあります。

ざっとご紹介いたしましたが、河岸段丘をうまく使った平山城であり、遺構の保存管理状況も大変良く、低い難易度ながら山城のような風情が楽しめます。

本丸からの景色も良く、城跡のみならず松尾芭蕉関連の旅でも訪れられるのがいいですね。

やはり北関東、栃木のお城を回られる際はぜひ!

○黒羽城と藩主・大関氏

もともとは文安年間(1440年代)に、大関忠増が砦を築いたのが始まりと言われています。

今の黒羽城に近い状況になったのは天正4年(1576年)ですから、戦国期のお城としては遅い方でしょう。築城者は、「那須七騎」の一つ、大関高増です。それまで本拠としていた白旗城から、こちらに本拠を移しました。

その後、関ヶ原の戦の折に、時の城主・大関資増(高増の後継・高増の三男)が東軍に所属し、上杉氏に備えたことから、徳川氏の援助のもと、城がさらに整備されたようです。

この点の経緯は、隣接する大田原城とかなり似ていますね。

城そのものは、河岸段丘上、二つの河川に挟まれた場所にあり、一直線に郭を並べた蓮郭式のお城になります。

掲載した写真でもなんとなくご理解いただけると思います。

黒羽藩・大関氏はその後明治まで一貫して当地を治めており、大田原藩・大田原氏と同じく稀有な関東に残り続けた外様大名となっています。

大関氏はもともと下野国の出身ではなく、大田原氏とよく似た経緯を持っているようです。

鎌倉期、武蔵国にあった「丹党」と呼ばれていた武士団を出自にもっています。

大関氏の当主は「坂東の平家・大掾氏流」と自称していたようですが、どうやら上述の内容が正しく、今の定説となっています。

南北朝期には、記録にその名が見えるのでこの頃には下野国に土着し、勢力を持っていたと推察されます。

こういった経緯も大田原氏に似ていますね。

大関宗増の時に、主家・那須氏の下で勢力を拡大。

那須家を専横すべく同じ重臣格の大田原資清を主君に讒訴。資清を一時国外逃亡に追い込みます。

しかし、謀略戦では一枚上手の資清が後に大田原に復帰すると形勢が逆転。

1542年、資清率いる大田原勢に居城・白旗城を攻められます。

この戦の中で、嫡男・増次を失います。宗増は、資清の長男を養子に迎えることで和睦。

この資清の長男が黒羽城を整備し居城とした高増になります。

ここらへんの経緯は大田原城の際にも触れていますのでご参考に。

高増の大関氏は、実家・大田原氏を上回る知行を持ち、高増自身の器量もあって、那須家では一番の重臣となります。

しかし、1560年に芦名氏・白河氏連合軍が那須領に攻め込んだ際に起こった小田倉の戦いでは勝利を収めるものの、主君・資胤(高増にとっては甥にあたる)にその苦戦を非難されると反発して主家を離脱。

上那須衆(主に大関・福原・大田原三兄弟)と共に佐竹氏に内通し、公然と叛旗を翻します。

しかし、佐竹氏の援助を受けながらの主家・那須氏との戦いはうまくいかず、1566年には佐竹氏・宇都宮氏と連合して那須領に攻め込みますが、治部内山の戦いで主力の佐竹軍の主将・佐竹義堅が生け捕られるなどして敗れます。

翌1567年にも佐竹氏と連合して攻め込みますが、大崖山の戦いでまたも敗北。

上那須衆、那須氏双方に和睦の気運が盛り上がり、1568年に和睦。

再度、那須氏のもとにまとまることになったのです。

高増は1578年、次男・清増に家督を譲り(長男・晴増はこの当時白河結城氏に養子に入っていた)剃髪しますが、実権はまだ持っていたようです。

1585年には、宇都宮・塩谷氏の連合軍に那須領を侵されますが、薄葉ヶ原の戦いで主君・那須資晴と共にこれを撃破。

ただ、大田原城の大田原氏のところで触れましたが、那須氏の忠臣になったかというとそんなことはなく・・・。

同じ1585年には同じ那須七騎の一つ、千本氏を事実上滅亡させて領地を「三兄弟」で勝手に分配したり、1586年正月にはこれも同じ那須七騎の一つ、伊王野氏の領内に攻め込んで領地を割譲させたりと、半ばやりたい放題。

とどめは豊臣秀吉の関東征伐の時で、主君・資晴には参陣を見送らせておきながら、自分は先に参陣して本領安堵を勝ちとり、主家を改易の憂き目に合わせております。

大関氏の家督は高増が剃髪した後は次男・清増が継いでいましたが、1587年父に先だって死去。

急遽、白河結城氏に養子に入り、後に佐竹氏の客将となっていた(白河氏には佐竹義重の子・義広=後の芦名氏当主が養子に入っていたため)長男の晴増が継いでいました。

この晴増という人物、謀略の印象の強い父と違い、勇将として知られていたようです。

白河氏の養子に入っていた時は、敵対していた佐竹義重の率いる佐竹軍に対し一歩も退かぬ戦いぶりで、義重をうならせたと言われています。

白河氏には義重の次男・義広が後に養子に送り込まれたために、晴増は行き場を失います。すでに実家の大関氏は、弟・清増が当主になっていました。

義重は、それまでの戦の中で晴増の器量を知っていましたので、佐竹氏にとりあえず客将として仕えることをすすめます。晴増を見こんだのでしょう。もちろん義重のこと、後々使い道があると考えての勧誘だとは思いますが・・・。

佐竹家中でも晴増は勇将として知られ、義重の下野国鹿沼城攻めでは一番槍の功名を挙げています。

晴増は大関氏の家督を継いだ後は、那須氏・佐竹氏のパイプ役となったようです。

伊達政宗が1589年、白河領に攻め込んだ際は、主君・資晴と共に佐竹氏の援軍として出陣。

敵対していた佐竹氏と那須氏は手を組むようになっていたのです。

この戦でも晴増は那須氏の先鋒を務め、ここでも政宗を斥けています。

この時の戦ぶりに感嘆した義重より「行方郡5万石を与えるから、佐竹家に仕えないか?」と誘われたといいます。

しかし、いずれ「独立大名になりたい」という気持ちを持っていた晴増は丁重に断ったようです。

結局、この翌年、小田原の秀吉のもとに、主君・資晴より先に参陣した晴増は独立大名として認められ、本領1万石安堵の上、3千石を加増され、晴れて独立大名となったのです。

この晴増ですが、1596年に秀吉の朝鮮出兵による参陣で名護屋城に出征していた時に病を得て亡くなってしまいます。享年36歳・・・。

嫡男が幼かった事もあり、晴増はわが子ではなく、弟・資増に家督を譲りました。

資増はその後の関ヶ原の戦の折に、東軍に所属。

当時2万石、後に1万8千石の所領を得ます。明治まで続く、黒羽藩の藩祖となったのです。

この資増、後継の子ができぬまま1,607年に亡くなりますが、その際、兄・晴増の子・政増に家督を譲ることができました。あやうく無嗣断絶になるところでしたね・・・。

歴代・黒羽藩主の中でひときわ有名なのは、15代藩主・増裕でしょう。

増裕は、遠江国横須賀藩・西尾氏から養子に入った人物です。

1861年、25歳で藩主となると、藩政改革を断行。西洋式砲術を導入するなど軍政改革に取り組みます。

また、幕府の講武所奉行や、陸軍奉行などを歴任。幕府そのものの軍政改革にも取り組んでいます。

いったん、病を得て辞任しますが1865年には海軍奉行に復帰。

残念ながら、1867年、享年31歳で急死しています。

彼はその一方で黒羽藩藩校・作新館を創設しています。

はい、栃木で「作新」といえば作新学院。

作新学院の「作新」とは、この黒羽藩藩校・作新館がその名前の由来となっているんですよ。

調べてみると、そこかしこに「人材」は見られるものですね!!

○行き方

先にご紹介した大田原城跡の先になります。

とにかく大田原城跡・龍城公園の前を走る国道461号線をそのまま道なりに東へ。

那珂川の手前にかかる「那珂橋」の手前の「那珂橋西」の交差点を右折。

右折ですが、右折そのものが国道461号線になります。

そのまま道なりに行くと、黒羽小学校が左手にありますが、その先、突き当たるところに確か案内板があります。

そこを左折して旧城域に入っていきます。

突き当たりは右折してください。もうすでに城内です。

後は道なりに行けば、写真で紹介した堀跡や駐車場が右側にあります。

地図では、黒羽体育館の手前に駐車場があることになります。

この黒羽城周辺に到達するには、東西からなら国道461号線、南北なら国道294号線になるはずです。

バスの便はありますので、徒歩でも登城は可能です。