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「おくのほそ道」から

2020.11.05 03:21

https://blog.goo.ne.jp/yositune1189/e/4edcaede8a38a2f0eb72ca98a4583536 

【義経贔屓の芭蕉vs頼朝贔屓の家康の構図】より

義経と頼朝という兄弟をみる時、民衆に愛される義経に対して権力者に愛される頼朝という図式がある。例えば、江戸時代で云えば、義経を愛した人間の代表格として松尾芭蕉を、頼朝の方は徳川家康を上げて見たい。芭蕉の奥の細道の旅を私は、義経への鎮魂の旅と考えているが、6年前菅原次男氏が、神奈川の藤沢白旗神社から宮城の栗駒判官森までを歩き通した旅に同行し、余りにも義経が歩いた事蹟と一致するのでびっくりしたことがある。平泉は義経の第二の故郷と言われるが、そこで芭蕉が最初に訪れた場所は、義経終焉の地とされる平泉の高館であった。そこから芭蕉は、踵(きびす)を返し、山形の最上川を下り、出羽三山を抜け、やがて北国街道に至る。この道筋は、頼朝に追われた義経主従が、奥州に向かった道と符合する。芭蕉は、義経のことをあれこれと思い感傷にふけりながら、街道を往復し、これを「奥の細道への旅」としたのである。

一方、徳川家康は、日頃から、吾妻鏡を愛読し、頼朝がどのような局面で、どんな行動を取ったのかを研究したと云われる。性格的にも、家康は頼朝の冷静沈着さに惹かれていたと思われる。頼朝の失敗は、義経のような有力な一族を皆葬りさってしまったことである。その頼朝の行動を反面教師として、家康は御三家や新御三家と云われるような同族支配体制を確立し、自らを武門の棟梁(征夷大将軍)とし位置づけた。

家康が敷いたこの徳川260年の封建体制は、「平和の徳川」と言えば聞こえは良いが、日本人のアイデンティティの確立という見地から云えば、「停滞」の時期であり、日本人が世界史から大きく遅れを取る精神の暗黒時代であった。下克上の戦国時代、誰もが、槍を持ち、刀を持って立ち上がれば、天下を目指すことができた。徳川時代のイデオロギーは、「ミザル・イワザル。キカザル」の風潮を民衆に強いる民衆愚民化政策が根底にあった。戦国時代の武家的気風を奪われた民衆は、士農工商という封建的身分制度に甘んじてはいたものの、その時代への郷愁が、義経への思慕となって、判官贔屓が出来上がって行ったものと推測される。

江戸期の民衆が頼朝を概ね嫌いだと裏には、民衆のうちにある反権力的な意識があったと思われる。言葉を換えて言えば、それは動かぬ時代への民衆の抵抗感である。一方で訳もなく義経を好きだという意識の背景には、軍事的天才として異常なほどの能力を発揮し時代の寵児となった義経に対する人間的共感(シンパシー)と無垢の日本人が生き生きと活躍していた時代への郷愁(ノスタルジー)のようなものが、私には透けて見えるのである。

それは現代でも同じだ。今日でも「義経よりも、頼朝に共感を持つ人は結構いる。しかしその人達も頼朝が好きだというよりは、頼朝の方が、現実に対する対応力がある。もしも付いて行くのであれば、頼朝の方が安心安定した人生が送れるのではないか、というほどの理由と思われる。つまり、頼朝の冷徹で現実主義的な感覚を「消極的」に受け入れているのである。

義経の天才性こそが、現代の日本がもっとも必要とする資質だ。徳川家康の敷いた封建的イデオロギーは、出る杭は打つ式のやり方で異能な人物を受けつけなかった。その結果、ロボットの如き平準化された人間が大量生産されてきた。その典型が日本の官僚制度なのかもしれない。大学時代あれほど有能だったものが、省庁に入った途端に口を貝のように閉じて無能になる。いや無能のフリを装っているのか。今でも、何も言わないことが美徳だという誤った風潮が、日本中にある。もう民衆の愚民化時代は去ったのである。だから私は、「今こそ現れ出でよ。21世紀の義経さん!!」と言いたいのである。


https://edupedia.jp/article/5e93cd0829968a00005cb782 【「夏草―「おくのほそ道」から」―歴史的背景や無常観を通じた読解】

1 はじめに

この記事では、中学3年生の国語で学習する「夏草—「おくのほそ道」から」の授業を行う際に役立つヒントを掲載しています。

「おくのほそ道」は、松尾芭蕉による紀行文であり、古典文学の傑作でもあります。芭蕉の俳諧に対する思いや、歴史観をしっかり理解したうえで読解を進めることがポイントとなってきます。

参考資料へのリンクも掲載していますので、お役に立てましたら幸いです。

2 「夏草—「おくのほそ道」から」の内容

「夏草—「おくのほそ道」から」の歴史的背景

「おくのほそ道」について

江戸時代前期に活躍した松尾芭蕉による紀行文です。芭蕉は、弟子の河合曾良とともに東北や北陸をめぐり、岐阜の大垣までを旅しました。その記録が「おくのほそ道」です。芭蕉は、それまで滑稽さやユーモアを主体としていた俳諧の世界を、芭風と呼ばれる芸術性の高いものとして完成させました。 「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。」で始まる冒頭部分には、これから出発しようとする芭蕉の旅への思いが記されています。

「平泉」について

平泉は岩手県の南部にあります。平安時代に、藤原清衡、基衡、秀衡の奥州藤原氏の3代が治めており、その歴史を回顧しながら、この地を訪れた芭蕉が俳諧を詠んでいます。上記のように、奥州藤原氏は3代しか続かず、特に秀衡のときに源義経をかくまったことから、源頼朝に滅ぼされてしまいます。こうした歴史的背景を理解しているかどうかが、読解においても重要です。

3 授業実践のヒント 授業展開の例

1.門出

芭蕉の旅への思い

冒頭では、芭蕉が旅への思いを切々と綴っています。ここでのポイントは、芭蕉がどのような思いで旅に臨もうとしていたのか、その並々ならぬ決意を実感させることです。

現代における旅と芭蕉の旅との違い

旅といっても、現代の私たちにおける旅と芭蕉の旅では、その思いが全く異なります。その違いに焦点を当てながら、芭蕉の思いを読み取っていくと展開しやすいでしょう。

(例1)旅をする目的の違い

  現代→気分転換、趣味など

  芭蕉→どうしても俳諧を極めたいという思いを実現するため

  「そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず。」

 (例2)旅に対する心構えの違い

  現代→旅を楽しみにする

  芭蕉→家を人に譲り、死ぬことも覚悟する

  「古人も多く旅に死せるあり。」「住める方は人に譲り」

上記のような部分から、旅に対する芭蕉の覚悟を読み取りましょう。

2.平泉

歴史的知識からの導入

すでに解説した通り、この場面は奥州藤原氏3代の栄華と深いかかわりがあります。まずは、その歴史的背景の導入から入りましょう。可能であれば、社会科の先生をゲストティーチャーとして迎えるなど、教科横断的な学びができると効果的でしょう。

「無常観」の読み取り

無常観とは、すべてのものは変化し、常に同じであることはないという考え方のことです。この「平泉」の場面においても、特に自然と人間との対比において、その無常感が示されています。

(例1)「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。」

→秀衡が築いた館はすっかり田んぼや野原になってしまっているのに対し、金鶏山だけが形を残している風景を見て、奥州藤原氏の栄華が夢のように消えていったことを、より強調しています。

 (例2)「夏草や 兵どもが 夢の跡」

→ここでは、功名を得ることを夢見て戦った源義経やその家臣の藤原兼房らに思いを馳せ、それらが歴史の中に夢のように消えてしまったことを句にしています。ここでも、今はその戦場に「夏草」が生い茂っているのみであることを表現することで、自然と人間を対比しています。

 (例3)「五月雨の 降り残してや 光堂」

→風雨に晒されて朽ち果てていく運命だった光堂(金色堂)が、周囲の四面を囲い、風雨をよけるようにしたことで何とか残されている様を詠んでいます。ここにも長い年月が経過し奥州藤原氏の栄華が自然の力によって失われていく儚さと、何とか耐え忍んでその栄華を残している金色堂とが対比されています。

このような「無常観」を中心とした読解をしながら、それぞれの句の解釈にも触れていくのが良いでしょう。

4 参考資料(各項目からリンク先へ)

NHK for school / 10min.ボックス おくのほそ道(松尾芭蕉)

おくのほそ道(松尾芭蕉)

scene 01

旅に生きた俳諧師、松尾芭蕉江戸時代、五七五の十七文字に生涯をかけた一人の男が、日本各地を旅していました。『おくのほそ道』の作者、松尾芭蕉です。俳諧という文学を、芸術にまで高めた俳諧師です。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日ゝ旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」。『おくのほそ道』の冒頭は、移りゆく年月は旅人であり、人生は旅そのものであるという芭蕉の哲学から始まります。

scene 02

紀行文学の最高傑作『おくのほそ道』旅の始まりは、1689年、春。数え年で46歳の芭蕉は、江戸を出発し、北へ向かいます。東北から北陸へ、およそ2400km。5ヵ月にわたる旅路でした。この旅をもとに書かれたのが、紀行文学の最高傑作といわれる『おくのほそ道』です。旅先の歴史や風景、人との出会いなどが、格調高い文章と五七五の句で構成されています。

scene 03

平泉:過ぎ去った繁栄への思い平安時代の終わりごろ、奥州藤原氏の拠点として栄えた平泉。草むらと化した風景を目の当たりにして、芭蕉は過ぎ去った遠い昔に思いを馳せます。「扨も義臣すぐつて此城に籠り、功名一時の草村となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるまでなみだを落し侍りぬ」。人の運命のはかなさと、自然の営みの力強さに、芭蕉は圧倒されます。――「夏艸や 兵共が 夢の跡」。

scene 04

立石寺:心洗われる山寺旅に出て2ヵ月あまり。夏も盛りのころ、芭蕉は山形に着きます。地元の人に勧められて、芭蕉は立石寺(りっしゃくじ)という寺に足を伸ばしました。険しい岩の断崖に張り付くように建てられた山寺。岩と老木と寺院がおりなす光景に、芭蕉は心を洗われる思いがします。「岩に巌を重て山とし、松栢年ふり、土石老て、苔なめらかに、岩上の院ゝ扉を閉て、物の音きこえず。佳景寂寞として、こゝろすみ行のみ覚ゆ」。――「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」。

scene 05

俳句のもととなった俳諧芭蕉が活躍した17世紀末、江戸や大坂では、武士から民衆にいたるまで、多彩な文化が花開いていきました。芭蕉が愛した俳諧もその一つです。数人が集まり句を詠み合う、言葉の遊戯として流行していました。「五七五」の句から始まり、「七七」の句と交互に詠んでつなげていきます。そのいちばんはじめの句は「発句(ほっく)」と呼ばれ、明治以降、「俳句」と呼ばれるようになります。芭蕉は、この十七文字を極めるために旅に出たのです。

scene 06

重ねられた推敲芭蕉自身の手で書かれた『おくのほそ道』には、いたるところに切り張りし、書き直したあとが残っています。こうした推敲(すいこう)は、旅が終わってからも数年間にわたって続けられました。山形の立石寺の句も、初めは「山寺や 石にしみつく 蝉の声」という形でした。まず芭蕉は、最初の五文字を大きく変えます。「さびしさや 岩にしみ込 蝉のこゑ」。しかし、まだ満足はできません。そして、「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」。しずかさと蝉の声という相対するものが一つとなって、奥行きのある表現が生まれました。

scene 07

十七文字に込められた世界わずか十七文字に込められた、広く、深い世界観。芭蕉が生涯かけて追い求めたものでした。――「さみだれを あつめて早し 最上川」。――「荒海や 佐渡によこたふ 天河」。

scene 08

旅そのものだった人生『おくのほそ道』の旅が終わったあとも、芭蕉は休む間もなく次の旅に出ます。まさに、人生は旅そのもの。芭蕉は、ひたすら歩き続けながら、数多くの名句を遺しました。そして、旅の途中、大坂で息を引き取ります。51歳でした。芭蕉が最後に遺した辞世の句です。「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」。