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芭蕉忍者説

2020.11.05 04:17

https://www.touken-world.jp/tips/17760/  【松尾芭蕉は忍者?奥の細道は幕府の密命を受けた旅だった?】 より

松尾芭蕉は、奥の細道(おくのほそ道)で知られる江戸時代前期の俳人。「閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずけさや いわにしみいる せみのこえ)」、「五月雨をあつめて早し最上川(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)」など、旅の途中に見た風景を詠んだ句は、東北の豊かな自然をありありと想像させ、旅情を誘います。

そんな松尾芭蕉ですが、その正体は忍者で、奥の細道は幕府の密命を受けた隠密の旅だったという説があるのです。

松尾芭蕉は忍者の里で知られる伊賀国に生まれ、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫で、忍者の血を受けついでいると言われていることも影響しているのでしょうか。

こちらのページでは、松尾芭蕉が忍者と言われる理由について、ご紹介します。

忍者の里・伊賀で生まれた松尾芭蕉

1644年(寛永21年)、松尾芭蕉は忍者の里で知られる伊賀国に生まれた。

父は無足人(むそくにん:苗字と帯刀を許された農民)の松尾与左衛門(まつおよざえもん)。母ははっきりしないが、一説には、伊賀流忍術の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫と言われている。

忍者の里に生まれ、忍者の血を受けついでいることも、松尾芭蕉忍者説のひとつの根拠となっている。

成長した松尾芭蕉は、伊勢や伊賀を治めていた藤堂高虎(とうどうたかとら)の流れをくむ藤堂良忠(とうどうよしただ)に仕えるようになる。

松尾芭蕉が俳句に目覚めたのは、良忠の影響と考えられる。良忠は松永貞徳(まつながていとく)や北村季吟(きたむらきぎん)に俳句を学び、蝉吟(せんぎん)という俳号を持っていた。

年の近かった松尾芭蕉と良忠は、主従を超えた友情関係を育んでいたのだろう。やがて松尾芭蕉も北村季吟に師事して俳句をたしなむようなった。

しかし、1666年(寛文6年)に良忠が若くして急逝。松尾芭蕉は1675年(延宝3年)に藤堂家を出て、江戸に向かった。

江戸での松尾芭蕉

江戸で生活を始めた松尾芭蕉は、当時江戸で流行っていた談林派俳諧(だんりんははいかい)に影響を受け、奥州俳壇の始祖と呼ばれる磐城平(いわきたいら)藩藩主の内藤義概(ないとうよしむね)らと交流を持った。

しかし、経済的に困窮したのか、はたまた藤堂家との関係か、1677年(延宝5年)から4年間、神田上水の水道工事にも携わっている。藤堂藩は高虎以来、築城や土木水利技術に長けていたという。

その後、宗匠(そうしょう:師匠)となった松尾芭蕉は深川に暮らし、「侘び(わび)、寂(さび)、撓り(しおり)、細み(ほそみ)、軽み(かるみ)」を重んじる蕉風俳諧を確立した。

1694年(元禄7年)に50歳で亡くなった松尾芭蕉。晩年10年間は、敬愛する平安・鎌倉時代の歌人、西行(さいぎょう)にならって吟行の旅に出て、「野ざらし紀行」や「更科紀行」を生んだ。

忍者として隠密の旅?松尾芭蕉は奥の細道の旅に出発

松尾芭蕉が弟子の河合曽良(かわいそら)を伴っておくのほそ道の旅に出発したのは1689年(元禄2年)、45歳のこと。この旅が隠密の旅だったのでは?という説は、いくつかの疑念から生まれた。

疑念1 忍者としての密偵?松尾芭蕉の不自然な旅程

出発前、松尾芭蕉は「松島の月まづ心にかかりて(まつしまの つきまずこころ にかかりて)」と松島を訪れることを楽しみにしていた。しかし実際は、肝心の松島では1泊しかしていない。場所によっては13泊、10泊と長期滞在しているにもかかわらずだ。

このことから、松島観光はカモフラージュで、仙台伊達藩内で他に遂行すべきミッションがあったのではないかという発想が生まれた。

そのミッションとは、仙台伊達藩の動向を探ること。当時、仙台伊達藩は幕府から日光東照宮の修繕を命じられていた。

これには莫大な費用がかかることから、幕府は不満を持った伊達藩が謀反を起こすのではないかと警戒していたという。

疑念2 松尾芭蕉の強すぎる足腰は忍者だから?

おくのほそ道は東北・北陸を巡って美濃に入る、長六百里(約2,400km)、約5ヵ月の旅だった。長いときで1日に十数里(約40km)歩いたことから、「年齢のわりに健脚なのは忍者だからにちがいない」と、松尾芭蕉忍者説を後押しした。

しかし、車も電車もない江戸時代の人々にとって、40km程度は何でもなかったとも言われている。

疑念3 松尾芭蕉は旅の資金と手形を忍者として入手?

5ヵ月にわたって旅を続けるには相当な資金が必要だ。また当時、関所を通るには通行手形が必要で、庶民の旅行は今よりも不自由だった。

幕府の命を受けた隠密旅だったからこそ、松尾芭蕉は自由に動き回ることができたのではないかという主張もある。

疑念4 松尾芭蕉の弟子・河合曽良が記した「曽良旅日記」との齟齬

弟子の曽良が記した旅の記録「曽良旅日記」とおくのほそ道の間には、行程などに多数の齟齬(そご:くい違い)が見られるため、松尾芭蕉は特別な意図があって違う日付や内容を記録したのではないかという説がある。

しかし実際のところは、おくのほそ道は旅を終えたあとに推敲(すいこう:文章を何度も練り直すこと)を重ねて完成した作品であり、日付や内容の齟齬は松尾芭蕉の演出と考えられている。

疑念5 松尾芭蕉の弟子・河合曽良が忍者?

実は弟子の河合曽良こそ忍者で、松尾芭蕉を隠れ蓑にして諜報活動を行なったのではないかという説もある。その根拠は、松尾芭蕉の死後、1709年(宝永6年)に幕府の巡見使(じゅんけんし)随員として九州に渡ったことにある。

巡見使とは諸藩の政治状況や幕令の実施状況を調査するために、幕府が派遣する役人のこと。隠密か否かの違いはあれど、やっていることは諜報活動のようなもの。曽良こそ幕府の密命を受けておくのほそ道を旅した忍者だったのではないかという訳だ。


https://kijidasu.com/?p=3676  【 江戸隠密界のスターたち(2) 奥の細道 松尾芭蕉と河合曾良 】より

『奥の細道』で有名な松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師である。

しかし、俳諧師というのは世を欺く仮の姿であり、忍者として公儀隠密の任務を遂行する為の隠れ蓑として、『奥の細道』紀行の旅(東北地方探索?)に出たのではないかという説もある。しかし、筆者は少しばかり違った説を唱えたいのだが・・・。

『奥の細道』と松尾芭蕉隠密説

松尾芭蕉は寛永21年(1644年)に生まれ、元禄7年10月12日(1694年11月28日)に没した。

江戸時代前期の俳諧師で、現在の三重県伊賀市の出身。幼名は金作。通称は甚七郎または甚四郎。名は忠右衛門宗房という。史上最高の俳諧師の一人とされ、「蕉風」と呼ばれる自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現した、芸術性の極めて高い句風を確立した。

後世には、「俳聖」として世界的にも知られることになる。俳号は初め実名の宗房を使い、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟の門下で貞門派を学び、江戸では談林派に感化された。

芭蕉が、河合曾良を伴い江戸から東北・北陸地方を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文に句集『奥の細道』がある。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」の冒頭が有名な、簡潔な文章と情緒豊かな句で記した名作紀行文だ。

芭蕉の最期も旅の途中であった。大坂御堂筋にあった花屋仁左衛門の貸屋敷で、『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』という句を残して客死した。享年51歳。

生前の本人の希望から、弟子たちの手で大津膳所の義仲寺の木曾義仲の墓の隣に葬られた。芭蕉の命日は「時雨忌」といわれ、毎年、11月の第2土曜日に法要が営まれている。

松尾芭蕉は元禄2年(1689年)3月27日(現在の5月16日)に江戸を立ち、門弟の河合曾良と共に、奥州へ向けた旅に出立した。

その後、北陸路を経て9月には美濃(岐阜)の大垣に辿り着いた。この旅で著わしたのが有名な紀行文である『奥の細道』である。

しかしこの旅は、実は公儀の隠密活動であり、東北地方、例えば仙台伊達藩の情報を探索する為、すなわち、スパイ活動の実施を目的としたものであったとの説がある。

隠密の根拠

〈伊賀者〉

先ずは芭蕉の出身地が伊賀上野であること、つまり芭蕉が忍者で有名な地域の生まれであることである。松尾与左衛門の次男として生まれ、彼の生家は無足人と呼ばれた元郷士の農家であり、その先祖の多くが忍術を体得した伊賀の地侍であった。

諸説あるが、芭蕉は寛文2年(1662年)に藤堂家の侍大将・藤堂新七郎良清の子である良忠(俳号は蝉吟)に仕えた。この時の主家である藤堂家は服部半蔵の縁戚であったので、そのことも忍者説を後押しするものである。

芭蕉はこの頃、主君の良忠(蝉吟)と共に俳諧を学んだ。 しかし、彼が二十三歳の時、良忠が病没したので致仕して、その後は専ら俳諧の道を歩んだ。

〈俳諧師〉

俳諧というものは中世の連歌から発展したものである。そして中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴しながら歌を詠み、特に戦国時代に入ると、しばしば大名などの依頼で他家に出入りしたり、各地を渡り歩きながら情報収集の任にあたり、諜報活動を担わされた。室町時代後期の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。

江戸期の俳諧師も同様に各地を自由に旅していたことから、隠密として情報収集活動をしていたのではないかと言われている。自由に旅行することが困難であった江戸時代の前期に、芭蕉も、その生涯で幾度となく、遠国への旅に出かけているのだ。

〈健脚〉

記録によると、芭蕉の歩く速度は異様に速かったことになる。『奥の細道』の旅程は全体でおよそ600里(約2,400km)にものぼり、1日平均10数里(45km以上)を踏破したことになり、険しい山道などもたくさんあった。当時40代半ばの年齢としては大変な健脚であり、また異常なスピードとも入える。

〈旅程〉

芭蕉自身の『奥の細道』と、同行した河合曾良の『曾良旅日記』との間には、80ケ所以上にのぼる記述の食い違いがあるのだ。 先ずは、江戸深川を出発した日からして既に食い違っており、 芭蕉は3月27日と記しているが、曾良の方は3月20日としている。

この多くの相違点は何なのだろうか? あくまでも『奥の細道』は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあることは理解できる。しかしそこには、何か隠されたものがあると思わざるを得ないし、意識的に何かをカモフラージュしている可能性もある。

また、その行動にも謎が多くある。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台伊達藩に入いるのだが、出発前に「松島の月まづ心にかかりて(松島の月が楽しみ)」と絶賛していた松島には、わずか1泊しかしておらず、しかも1句も詠まずに通過している。仙台藩領に入るまではのんびりと移動していたのだが、仙台藩領に入った途端にテキパキと動きだすのだ。

文学的には不要と思われる場所には長居をし、肝心な処にはそれ程長くは逗留していないのだが、芭蕉の任務が諸藩の情報収集であれば、この様な旅程や長旅の連続も理解できる。

なお道中での芭蕉と曾良は、行く先々で歓待され地元の俳諧関係者や庄屋、土地の名士に加えて役人宅にも宿泊していることが多く、単なる俳人とその弟子の相手には、この様な対応も不思議といえば不思議である。

隠密の目的

結局この異様な旅程の最大の目的は、仙台伊達藩の動静を内偵する為だったとされる。

『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事的拠点でもあったといわれる瑞巌寺や、藩の重要な軍港・商業港の石巻港を執拗に見物(実は探索)したことが記されている。しかも芭蕉は石巻港を訪問したことを「道に迷った」と、子供じみた弁明をしているのだから驚きだ。

この様な不自然な行動が多いことから、仙台藩伊達家の動向を調べる任務を負っていたのは、間違いないだろう。

当時、幕府は仙台伊達藩に日光東照宮の修繕・作事を命じていた。莫大な出費を強いられ、しかも工事の遅れていた伊達藩が不穏な動きを示すのではないかと、その兆候を探っていた幕府は隠密を派遣して探索することにした、といわれている。つまり芭蕉の旅の最大の目的は、仙台伊達藩を探ることにあったのだ。

他にも、芭蕉は尾去沢の紅花問屋に10日近くも滞在していて、 「眉掃きを俤(オモカゲ)にして紅花 の花」という句を詠っている。この逗留は最上川上流における紅花の技術を探ろうとした産業スパイ活動であったという説もあるのだ。

また曾良が、『曾良旅日記』に道中のキリシタンの動向を暗号化して記していたという話も有名である。

ちなみに、奈良時代には忍者のことを「細人(しぬび)」とも言ったそうだが、そうなると、『奥の細道』とは、「奥州(東北地方)の忍者による調査報告書」を意味しているのでは、なんて邪推もしたくなる。

援助の背景

合計150日にもわたる旅費の負担は、確かに大きな問題である。一説によると、芭蕉の旅の資金援助は水戸藩が行っていたと言われており、徳川光圀が「大日本史」の編纂の為に全国に調査員を派遣した一環として、門弟の河合曽良に調査の一部を依頼し調査費として旅費を援助したというのだ。それは、曽良が幕府神道方の吉川惟足、幕府御用の魚商の杉風とは知り合いで、彼らと親交があった光圀が、曽良を同行させることを条件に芭蕉に資金援助を申し出たとの説である。

また、幕府が水戸藩を通じて芭蕉に隠密活動を命じたという説もあり、この場合は完全に公儀隠密としての活動を前提とした話となる。

金銭的な支援のみならず、二人が各地の関所をいとも簡単に通過していることも大変不思議なのだが、背後に幕府がついていればこの問題も容易に解決したことだろう。

本当の隠密は誰か

しかし、本当に芭蕉が隠密だったのだろうか? 筆者は、芭蕉が莫大な旅路の費用を捻出する為に、公儀の隠密活動に積極的に協力する立場にあったとは考えるが、門弟の河合曾良の方が本当の幕府隠密その人だったという説を採用したい。

決定的な証拠としては、彼が後に幕府から諸国巡見使の随員に抜擢されていることが、その説の有力な根拠である。この様な立場は、市井の俳諧師がそう簡単にはなれる身分ではない。

それは宝永7年(1710年)3月、62歳の折に、曾良は本名の岩波庄右衛門正字の名で二千石の旗本で書院番の土屋数馬喬直の用人として主に寺社の監察を担当し、九州方面へ向かった幕府巡見使の一行に加わっていたが、しかし5月22日、壱岐島の風本に滞留中、宿舎の海産物問屋の中藤五左衛門宅で病死したと伝わっている。

河合曾良(岩波庄右衛門)は、慶安2年(1649年)に諏訪高島藩城下の下桑原村(現在の諏訪市)に生まれ、幼名は高野与左衛門。その後、岩波家へ養子に迎えられて、岩波庄右衛門正字を名乗った。一時期、長島藩士の川合(河合)源右衛門長征の名跡に入り、河合惣五郎として長島藩に仕官していた時代もある。

後年幕府の神道方となった吉川惟足に学び、神道や国学などの知識を身につけ、平行して(隠密活動に役立てる為か)地誌学に励んだ。この神道への傾倒が水戸徳川家との繋がりとなったのである。

俳諧との関係は、延宝4年(1676年)の28歳の時に曾良の俳号で歳旦吟「袂から春は出たり松葉銭」(初見句)を詠んでいる。その後、天和3年(1683年)頃、山梨に滞在中の芭蕉を訪問し「鶯のちらほら啼や夏木立」を残した。この頃から芭蕉との交友が始まったようだが、貞享4年(1687年)には、39歳で芭蕉の『鹿島詣』(鹿島紀行)に宗波とともに同行していることからも、既に芭蕉とのパイプは相当に強かったようである。

また彼は、もともと隠密として行動していたのだろう。またはフルタイムの隠密ではなくともパートタイムで隠密の下働きをしていたに違いない。芭蕉も時々、隠密まがいの活動をしていたかも知れないが・・・。

『奥の細道』紀行の時も、隠密である曽良の側が、俳諧の師の芭蕉に依頼して伴をしたのだろう、と思われる。曾良は東北諸藩、特に仙台伊達藩の探索任務を幕府から命じられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したのだ。

ちなみに、曾良は今でいう事務処理に優れていて、上述の通り地理にも大変詳しかったらしい。しかも金銭の管理は芭蕉ではなく曾良の担当であった。また、出立直前になって急遽、同行者が路通から曽良に変更されていることも、曾良=隠密説のなによりの証拠である。

曾良は、神道を学び、地誌学に精通し、文学の素養も豊かな多才の人だった。しかし、当時、周囲から「東西南北の人」と言われたが如く、行動的な旅の実践家であった。

実はこれが、隠密であった彼の本質を表す的確な言葉であろう。いつもどこかに探索行に出かける彼が、大変な行動派に映ったに相違ない。


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20190624-390299.php 【【 白河城下 】<関守の宿を水鶏にとはふもの>曽良は隠密?謎めく日記】より

東日本大震災で崩れた部分の修復が完了した小峰城の石垣。芭蕉と曽良が郭内に入ったのかは定かではない白河は江戸時代、白河藩の城下町として一気に発展した。全国屈指の規模を誇ったといわれる「白河の馬市」は、商人をはじめ多くの人でにぎわい、戦後まで約300年続いた。

風流を愛する俳聖松尾芭蕉はそんな巷(ちまた)の俗っぽさを避けたのだろうか。白河城下はほとんど素通りした感がある。しかし、縁がなかったわけではない。会った人物が2人、会えなかった人物が1人いた。

 本名知らぬまま

芭蕉が陸奥(みちのく)に入る折に詠んだ〈西か東か先(まず)早苗にも風の音〉の句は、〈早苗にも我色黒き日数哉(ひかずかな)〉を改作したものだった。改作については「日記」の俳諧書留に記されているが、白河に住む人物に宛てた芭蕉の手紙にも記されている。

人物の名は「何云(かうん)」。はっきり分かるのは、この名と、作品がいくつかの俳諧撰集に収録された―ということだけ。謎の人物である。

芭蕉は、次の宿泊地須賀川で地元の俳人相良等躬(とうきゅう)から何云のことを聞き、彼に次の手紙を出した。

〈白河の風雅聞もらしたり。いと残(のこり)多かりければ、須か川の旅店より申しつかはし侍(はべ)る。

  関守の宿を水鶏(くいな)にとはふもの

又、白河愚句「色黒き」といふ句、乍単(さたん)より申参候(もうしまいりそうろう)よし、かく申直し候。

  西か東か先早苗にも風の音

   何云雅丈   はせを〉

 〈白河の風雅聞きもらしたり〉は「白河であなたの俳諧を聞けなかった」の意。会えずに心残りだと書き〈関守の宿―〉の句では、何云を白河の関の関守になぞらえ「水鶏(水鳥の一種)にあなたの家を訪ね、戸をたたけばよかったのに(水鶏の声は古来、人家の戸をたたく音になぞらえられる)」と詠んだ(今栄蔵「芭蕉句集」)。

 また、現存する手紙(出光美術館所蔵)には「芭蕉翁は私と会いたかったが、私の俗名(本名)が分からず白河を過ぎてしまった」(意訳)などと書いた何云の添文(そえぶみ)が付されている。

 この何云の正体については、元白河市文化財保護審議会長の金子誠三さん(92)が「追跡」していた。手掛かりは何云の句と一緒に俳諧撰集に記されていた彼の所在地名。「宇都宮」「奥州白河」「(出)羽山形」「(備)後福山」。いずれも当時の白河藩主奥平(松平)忠弘とその孫忠雅が国替えしていった城下で、何云は奥平家の家中だったと推理される。

 上級武士と接触

 一方、芭蕉が白河城下で会った2人については「日記」に「中町左五左衛門ヲ尋ネ、大野半治ヘ案内シテ通ル」と名が書かれているが、謎は一層深い。

 中町は現在の白河駅前の一角。芭蕉と曽良は、同地の町人左五左衛門と会い、大野半治の元に案内してもらったということだが、金子さんによると、大野は450石取りで、物頭(足軽を支配する隊長など)を務める白河藩士。そんな上級の武士に、芭蕉たちは一体何の用があったのか? 理由はどこにも書かれていない。

 付け加えると、金子さんが大野の名を見つけたのは1692(元禄5)年に同藩のお家騒動で城下を去った脱藩者の記録の中。つまり彼は、芭蕉らが会った3年後、クーデターを起こした反藩主派の一人だった。何ともきな臭い人物である。

 金子さんは〈1〉曽良が晩年、幕府の諸国巡見使(監察官)の随員として行動している〈2〉旅の俳諧師が上級武士のいる郭内に出入りすることは制約される―ことから、どうも曽良が単独で大野を訪ねたのではと推理する。「その心」は...曽良=隠密? 情報員? 歴史の底に沈んだ真実を知るすべはないが、これも「おくのほそ道」を彩るロマンだろう。

白河城下

 【 道標 】丹羽長重の時代に改修

 白河は江戸時代、伊達など陸奥の外様大名をけん制する「奥州の押さえ」として有力な譜代大名(丹羽を除く)が置かれた。藩主の御国替えも頻繁で、丹羽―榊原―本多―奥平松平―越前松平―久松松平―阿部(―天領)と幕末まで7家が入れ替わっている。

 白河藩の拠点、小峰城の原形は14世紀、周辺の支配者、結城親朝が築城した。ただ白河結城家の本拠地は白川城(現白河市藤沢山)で、小峰城は分家・小峰家の居城だった。

 小峰城が現在の形に整備されたのは江戸時代初期、初代白河藩主丹羽長重の時代。長重は、伊達からの守りを意識し1629(寛永6)年から約7年かけ、石垣を多用した城郭や、本丸から東側へ続く丘陵部の石垣を築く大改修を行った。また、阿武隈川の流れを変えて元の河原(現会津町)に約100軒分の武家屋敷を建設している。

 戊辰戦争では本丸などが焼失したが1987(昭和62)年以降、三重櫓(やぐら)や前御門が復元された。また東日本大震災では石垣の石約7000個が崩落したが、伝統工法による約1万2000個の積み直しが行われ、2019年3月、改修が完了した。(編集局。内野豊大「小峰城」=歴史春秋社「白河」所収=を参考にした)