「童仏尊像」将来の由来〜勝友の急逝に寄せて〜
当寺の境内、観音堂(願興寺)の向拝横に、「童仏」尊像が祀られています。
その由来について、以前にFacebookで触れさせていただきました。
当寺に将来し開眼してから8年が経過しましたが、当時の記事では触れなかった、この「童仏」にまつわるお話を、今になってしたためようと思ったのは、最近あった、ある出来事のためです。
それは、「勝友」の急逝です。
元々、東京・表参道の茶道具屋さんが所蔵しておられたこの像は、鑑定書を取っていないことと、防犯管理の上から名前は伏せますが、この茶道具屋さんに出入りしていた、ある有名な彫刻家の習作だと言われています。
この茶道具屋さんと私の間を取り持って、「童仏」尊像将来のきっかけを作ってくれたのが、かつて私が全国曹洞宗青年会に出向していた際に一緒に活動した、河村康仁さんでした。
その河村さんが、先月25日に急逝しました。
世寿45歳。私と同学年に当たります。
※以下、長文です。
彼とは、もう何年も会う機会がなく、年賀状を交わして互いの近況を確認し合う程度の付き合いでした。
訃報に接した瞬間は、ほの暗い記憶の中にいた旧友の不幸くらいに受け止めていたのですが、数日経っても彼のイメージが日常の雑事に紛れることがなく、逆に日を追うにつれて、まるで毛糸のセーターの穴がほつれて大きくなっていくように、決して小さくない喪失感になっていきました。
私が全曹青に初出向した第十六期(もう、何年前かも正確に覚えていません。15年くらいまでしょうか)で、広報委員会に配属になった時の、副委員長が康仁さんでした。彼はその一期前から広報委員会で活動し、当時の委員長だった久間泰弘さんを支えていました。今思うに、その後およそ8年間出向しましたが、この期の2年間が、出向期間中で一番「楽しかった」時期でした。
人見知りをこじらせ過ぎて暗黒だった学生時代に経験できなかった「団体活動萌え」を追体験させてもらいました。
その後、次期の委員長になった康仁さんから指名されて、私と青野貴芳さんが副委員長を務めました。
前委員長の久間さんは「リーダーシップ無双」のような方で、私たちは「この方の振る御旗の下に集う」といった感じでしたが、康仁さんは「他者を引きずってでも引っ張る」タイプではありませんでした。
本人もそのことに自覚的だったのか、もとより康仁さんも青野さんも私も、個性も考え方もバラバラ。そこをお互いに干渉することなく、「三頭政治」のようにして、会務がうまく回っていました。
今思えば、そのように環境調整したのが、康仁さんの委員長としての才覚であり、持って生まれた「人の良さ」が求心力だったのでしょう。
たまに会議で、「板倉さん、これおもしろくないですか?」と持論に同意を求められたこともありましたが、私は意見が合わないと感じた時には、「うーん、ノーコメントで」と明言を避けていました。
決して強い反対意見をいったわけではないし、そもそも「三頭政治」なのだから、康仁さんは自分のやりたいことをやればいい。それが私のやりたいことと一致しなくても構わない。その代わり、私のやりたいことにも余計な口を挟まないで欲しい。
私はそう考えていたし、それはそれで居心地のいい状況でしたが、私のつれない回答を聞いた時、康仁さんが「そうですか・・・」とだけ言って寂しそうにしているのを見ると、悪いなと思いつつ「まるで契約結婚に同意しながら、それ以上のつながりを求めてるみたいだな」とも感じていました。
次期の副会長に転属となった康仁さんから委員長を引き継いだのが、私でした。
個性も考え方も違うと言いながら、当時彼とは、広報委員会のあり方について、同じビジョンで一致していました。それは、委員会で作成する全曹青会報の「オピニオン誌化」と「デザインオリエンテッド」でした。
「オピニオン誌化」というのは、第三郵便に適用されていた会報の内容として、会務の報告だけではダメで、如何にオピニオン性を発揮し、強いメッセージを発信するか。
「デザインオリエンテッド」とは、読者の目を引くためには、内容もさることながら、デザインも高いクオリティにしなければいけない。
これらが果たされることで、賛助会費が主な収入源である全曹青の活動に対して、委員会として寄与することができる。
この考え方においては、私も彼も寸分の違いもなかったと思います。だから一緒に仕事してこれたのでしょう。
康仁さんから会務を引き継ぐ際、「4大紙とも取引のある東京の制作プロダクションにアポが取れました、今後はここに発注しませんか?」と勧められました。
一介の青年僧侶にすぎない彼が、なぜそんなメジャーな会社に縁故があったかは分かりませんが、私も何となく、その時は「メジャー志向」に喜んで乗っかって、任期中、そのプロダクションを通してで会報を作りました。
確かにデザインは段違いに良かったし、記事にも「メジャー」な視点が加味されて、今考えてもクオリティの高い誌面が構成できたと思います。
でも、プロダクションがメジャーなら、経費もメジャー級。
賛助会費の増額どころか、会計全体に占める編集費の割合が前期を大幅に上回ったことが問題となり、そのプロダクションへの外注自体が摩擦や不信を生んで、結局は私が委員長をした一期だけで外注を取りやめることになりました。
そして、それまで同じ委員会ではビジョンを共有することで、不思議と噛み合っていた康仁さんと私の歯車が、副会長と委員長という、互いに別の立場を背負ったことで、もともと違っていた個性や考え方が、シンプルな齟齬となっていきました。
ある時、私がどうしても掲載したかった記事を、執行部の校正に上げたところ、そこで記事の内容が問題となって、結局記事差し替えの指示が下りました。
決定を伝えられて憤っていると、しかも差し替えを主張したのが、副会長の康仁さんだったと聞き、私の感情は沸点を超えてしまいました。
「ついに口を挟んで、邪魔してきやがった。オピニオン誌にするんじゃなかったのかよ。」
私は執行部に対して、「記事が通らないなら、委員長を辞める」と吐き捨てて、完全に不貞腐れてしまいました。
当時会長を務めておられた久間泰弘さんが、慰留するためにわざわざ島根まで来られた上に、地元の先輩僧侶にも諭されて、委員長を続けることにはしましたが、私の中でほとぼりは全然冷めていません。
その後の執行部理事会で上京した際、不貞腐れて会議室に入ると、康仁さんが私のところにやってきて、
「板倉さん、この前はすみませんでした」
と言葉をかけてくれました。これが彼生来の「人の良さ」です。
でも私は、黙って康仁さんを睨みつけました。
彼は「うわ、マジか」という表情をして、すぐにその場から立ち去っていきました。
すでにその時、お互いのポジションがあって、彼が彼なりに「〝オピニオン〟の名を借りた極端な意見標榜は、バランスを欠き誤解を生む」という組織会報としてのリテラシーやリスクマネジメントを働かせた上での言動で、しかも最終判断が執行部の総意だったことは分かっていたつもりでしたが、その時はどうしても彼を「許す」ことができませんでした。
若気の至りでは済まされない三十代半ばの、瞋毒に侵された私が、そこにいました。
その後、私たち夫婦は第一子を死産して、さすがに久間会長も不憫に思われたのか、「委員長を辞してもいい」との温情を示して下さいましたが、逆に「(康仁さんとのことで迷惑をかけたので)任期は全うします」とお答えしました。それでも結局、康仁さんとは任期中、ろくに言葉を交わさないままでした。
そしてその次の19期、私は副会長となって、当時発生した東日本大震災の復興支援活動で右往左往していた最中、すでに全曹青での活動を終えていた康仁さんが、Facebookで「知り合いの茶道具屋のご主人に頼まれた」として、以下の投稿をしているのを見ました。
死産した我が子の供養のために、何かをしたいと思っていた私は、これを見て天啓を覚え、すぐさま康仁さんに連絡を入れ、購入を申し入れました。
その時、どんな気持ちで彼に第一報を入れたか覚えていません。
でもその後、売主の方にご挨拶するため、活動中だった福島から表参道の茶器店に赴き、そこで康仁さんと、「不貞腐れ」以来初めて、昔のように親しく話ができて、
「亡くなった我が子が仲直りの機会を与えてくれたのかな。おかげで、不貞腐れ野郎のままで終わらずに済んだ」
と思ったことは、よく覚えています。
多分、康仁さんは「全然違いますよ!」って全力で否定するだろうけど、康仁さんと私は「似た者同士」だったように思います。
結局全曹青で私が担った役職は、すべて康仁さんの後をなぞったものでした。
組織の中でのポジショニングも一緒。何となく斜めから意見を言って、会議をなだらかに終わらせたがらなかったり。
派手で大胆な人心掌握も不得手で、うまく他の人に頼むことができずに、結局自分で仕事を抱え込んでしまう。
大きいビジョンを口にし、その志に偽りはないけれど、何となく空を見上げるだけで術を果たすことができず、星を掴み損ねる。
全曹青での任期を終えた時も、
「康仁さんと同じ経歴や成果で終わるなら、それは自分にとって分相応だった」
と、妙な安堵を覚えました。
私の全曹青の活動での指標は、紛れもなく康仁さんでした。
私は彼を鏡にして、自分の至らなさを見せつけられていたのでしょう。
その上、彼の「人の良さ」に甘えて切っていた。
そんな私に、彼は我が子を亡くした傷を癒すきっかけをも与えてくれた。
その感謝も恩返しもできずに、康仁さんは先に逝ってしまいました。
康仁さん、しばらく会っていなかったけど、でも寂しいし、悔しいよ。
「いつか会える」と「もう会えない」では大違いだ。
僕はあなたに吐き出した毒を、多分まだ抱えているし、相変わらず人と関わることが苦しい。
でもこれからも自分なりに生きていかなきゃいけない、その理由が増えてしまったようだ。
あなたは化を遷した先で、今生よりも安穏と過ごして欲しいよ。
康仁さん、心から品位の増崇を祈念します。合掌 (宗淵寺住職 板倉省吾)