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KENGO

連載記事4.育児放棄と虐待に耐えた日々

2020.11.07 07:43

前回のインタビューから引き続きお届け致します。


ここまでの流れをご覧になっていない方はこちらから。

-子供時代からトラウマ、うつ症状に悩まされていた-

以下 筆者 中田享:中 KENGO:K


中: 子供時代から鬱やトラウマに悩まされていながら、それに気付いたのは20代になってから。それまで周りと何かが違うと感じることはあったのでしょうか?


K: ありました。でもそれが一般的なのかなって、みんな表に出さないだけであって。自分が不器用だからこんなに上手くコントロールが出来ないんだろうと感じていました。出来るだけそういう部分も周りには見せたくはないと思っていました。


中: 幼少期からのことをお聞きしたいのですが、覚えている限りのことで大丈夫です。生まれは今と変わらず高知県で?


K: 神奈川県で生まれました。


中: その当時一緒に住んでいたのは両親と?


K: 母親と義父の3人で1Kのボロいアパートに住んでました。


中: 仲は良かった?


K: とても良かったです。今まで生きてきた中で1番綺麗な思い出です。幼なじみもいて、嫌なことを我慢できるくらい3人で過ごせる時間が幸せでした。


中: 思い出に残っているのは?


K: 毎週日曜日3人でお寿司を食べるんです。誕生日とか特別な日には伊勢崎町にあるフジヤのレストランでお子様ランチを食べさせてもらって旗を集めてました。幼なじみ達と誕生日パーティーもしていたり、お祭りにも参加していたのは写真にも残っています。


中: 素敵な思い出ばかりのように思う幼少期ですが、トラウマになるような出来事はその当時からあった?


中: 夜目が覚めたら、家に誰もいないことがよくあって。親が寝静まってから飲みに出かけていたんです。怖くて外に探しにいってタクシーの運転手に保護されて警察に連れて行かれたこともあったんですけど、凄く怒られて。外に出ると普段は車が沢山通ってる交差点も外灯はついてるけど車がほとんど通らない。いつもは盛えてる商店街も真っ暗で全然人がいなかったりで怖かった記憶があります。それよりも怖かったのは一人きりでいる家の中でした。部屋の電気の紐に届かなくて、明かりをつけられなかったんです。


中: そういうことが何回も?


K: はい。アパートの下が新聞屋さんだったんですけど、夜中バイクのお兄さんが丁度いて、多分朝刊の準備時間だったんですね。お母さんがいないから探しにいって欲しいって僕が頼んだらしく、バイクの後ろに乗せられて当時知っていた飲み屋さんの名前を伝えてこの子のお母さんいませんか?って探しにいってくれたこともありました。その後凄く怒られたので記憶に残ってるんだと思います。


中: 新聞配達のお兄さんもびっくりしたことでしょう。飲み屋さんにはよく一緒に連れられて?


K: はい、凄く嫌でいつも駄々をこねてましたね。行くのは嫌だけど離れたくなくて。決定権はいつも母親にあったので。一杯だけだからって行くと絶対そうじゃなくて。「嫌だったらタクシー呼ぶから先にひとりで帰りなよ」って感じでした。

平成初期だったので、それもまかり通ってたというか。今じゃありえないですよね。世間に気付かれていなかっただけかもしれません。夜中にスナックや居酒屋、それまではパチンコ屋にも一緒に連れられていってました。だからパチンコ屋さんにいるかなってひとりで探しにいったこともありました。


中: 義理のお父さんはそういう時どんな反応を?


K: 基本 夜中に飲みに行くのは別々なことが多かったので、何時までに帰ってくるって言って結局帰ってこないっていう。


中: お酒を飲むことで様子が変わったりすることは?


K: 母親はお酒を飲んで帰ってくると必ず僕を叩き起こすんです。怒鳴ってひどい言葉を浴びせてきたり、叩かれたり、怒ってたと思えば泣き出したり、音楽を大音量でかけたり、外が明るくなるまでそういうのが続いてました。窓の外を見ながら背を向けて寝たフリを必死に続けるしかなかった時が多くて。

だから居ないのが寂しいけど、せめて帰ってきてくれるならいつものお母さんに戻ってから帰ってきて欲しいっていうどうしようもない想いで過ごしていました。


中: 普段、いわゆるシラフの時は全くそういうのがなく?


K: そうですね、とても優しくて面白くて、大好きでした。だから、違う人に思えて仕方なかったですし、帰ってくる時の気配やドアの開く音が凄く恐ろしかったです。


中: そんな事が続く中、お酒をやめてほしいという思いも強かったのでは?


K: いつも何かと、これをしたらお酒やめてくれる?って引き合いにだしていたのを覚えてます。今日は出かけないよって約束してくれる時はいつも僕を寝かしつけて出て行くんです。僕もその後に目が覚めて、今日もいないなって。平気で嘘をつかれてましたね。


中: 今でいう育児放棄(ネグレクト)や虐待を連想させるような出来事ですね。


K: そんな言葉 当時は知らなかったので、誰にでもこんなに我慢して怯えないといけない時間がそれなりにあるんだとある程度の歳までは思っていました。


中: 保育園や幼稚園には通っていた?


K: 保育園に通っていました。迎えが来ないことも度々あって、行くのが嫌で友達も出来なくて楽しくなかった記憶があります。


中: 日頃から不安や恐怖心を抱えながら過ごしていたからこそ、馴染めなかったのでしょう。小学生になる頃にはどんな生活環境でしたか?


K: 近くのアパートに3人で引っ越しをして生活をしていました。二階建てのアパートで扉を開くと長い階段が続いていて1K六畳の部屋にキッチンが別でお風呂は前のアパートと同じで付いていませんでした。


中: その当時も両親は相変わらずな生活を?


K: そうですね、良い時も沢山あったんですけど、激しい喧嘩を目にすることが増えて、テレビや物を投げたりして怒鳴り合ってるのを身近で見ているしかなくて。小学2年になる頃には義父が仕事を辞めて地元の高知県に帰ってしまったんです。


中: それは離婚という形で?


K: いいえ、違います。元々結婚してなくて、内縁だったんです。苗字も母親の姓でした。義父の母親が危篤状態とのことで面倒を見るために帰郷したんです。


中: ということは今までと関係は変わらず離れて暮らすということに?


K: そうですね、母はその頃は仕事もほとんどしてなかったので、金銭的な援助もしてもらっていました。


中: 義理のお父さんがいなくなり、お母さんとの2人きりの生活は今までの流れからすれば必然と更に悪い状況になったと思うのですが。


K: 最悪でした。ただでさえ義父がいなくなり凄く寂しかったのに、母は今までと変わらない生活態度で、学校から帰ると居なくて次の日にならないと帰ってこない日も度々ありました。一緒にいる時は大声で取り立てに来る借金取りに居留守を使ったり、学校を休んで外出したりしてました。


中: 悪循環の中で生活をせざるを得なかったんですね。


K: 電気が止まったり、ガスが止まったり、水道まで止まる事も度々あって、丁度その時に母親が帰ってこない日が続いたりすると、当時は死ぬってどういうことか分からなかったですけど、自分はこのままいなくなっちゃうのかなって思うことが多くなりました。


中: そんな心境や環境の中で学校に通うのも難しかったのでは?


K: そうですね、学校にいると友達は何人かいたので楽しかったですけど、段々とここにはいられないっていう思いも強くなって、自分が家にいない時間が増えるほど母親に捨てられるんじゃないかと怖くなってきたんです。次第に先生が嫌いだからと嘘をいって休むようになり、休みがちだった学校も小学3年になる頃にはほとんど行かず登校拒否の状態でした。


中: 学校にいかない日々はどのようなことをして過ごしてましたか?


K: 母親と平日でも街に出かけて映画を見たりゲームセンターにいったり、連れ出してもらってました。当時出来たばかりのブックオフで漫画本を買ってもらうのが楽しみで、お金がなくなって家の電気がつかない時は外の明かりを頼りに読んで、夜になって何も見えなくなったら只々眠くなるまで天井を見上げていたような時間を覚えています。

食事は外食や、当時ちょっとずつ増えてきたコンビニという存在があって、そこで買ったご飯が多かったですね。よく冷凍のミートスパゲティを食べてました。


中: 電気、ガス、水のライフラインが途絶えるのは経済的に余裕がない証拠だとも思うのですが、なんとか繋げられたのは義父の支援があって?


K: うーん、正直お金ないのにどうしてこんなに使うんだろうって思ってました。いろんなところからお金を借りてたんですね。だから今では考えられないような強引な借金取りも度々来てました。

母からはお金を借りるように頼まれて、義父や母の友達に公衆電話から電話をさせられて凄く嫌だったのを覚えてます。

それが続くと貸りるのが難しくなるじゃないですか。だからけんごが泣いたらいいって、泣いたら貸してくれるからって言われるんです。自分が母親の道具のように感じることも段々と増えて自分がなんなのかよく分からなくなっていました。


中: こうして過去にあったことを聞いているとここまで生きてこられたのが不思議といいますか、何度も命の危険を感じる危ない時期があったのではないでしょうか。


K: そうですね、ひとりは嫌だってひたすらもがいていた記憶があります。よく分からない危機感を察知する事がいつからか毎日のように続いていて。お腹がすいても食べるものもなくお金もない。お風呂にも入れなくて、そして母は帰ってこない。選択肢がなかったんです。

酔って帰ってくれば悪夢ですから。

一緒に死のうかと言われたことも、何度かありました。


中: 物心ついた時から、そういったショッキングな出来事が続いたKENGOさんの当時の心境はとても複雑で先が見えない毎日だったと思います。それでもやはり先ほどお話したような幼少期の素敵な思い出もあったからこそ嫌いになることは出来なかったのでしょうか?


K: そうですね。あの頃が戻ってくるといつまでも、信じて、願ってました。自分が頑張れば出来ると。

Remember The Perfectという曲はまさにそれの象徴で、完璧な形が過去にあるが故に壊れていくしかないものを必死に修復しようとする様は惨めでしかないことを歌っているんです。


(続く)


追記

Remember The Perfectという曲はKENGOがリリースした3枚のアルバム作品の内、1番最初の作品「Lights In Darkness」に収録されている。


各種配信サイトにてリリース済み。

https://www.tunecore.co.jp/artists/kengo-japan


彼自身が家族に対してダイレクトに歌いあげたものはこの曲に加え、筆者が知る限りでは「祈り」という楽曲がある。その他の楽曲にも沢山のエピソードが散りばめられていることだろう。


淡々と答える彼からは全てを受け入れているような印象を受け、つらい出来事すら懐かしく思っているように感じた。


           筆者:中田 享