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芭蕉と象潟

2020.11.06 05:05

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12636189827.html 【おくのほそ道119~象潟(きさかた)1】(山形県にかほ市象潟)

【原文】

江山水陸(こうざんすいりく)の風光数(かず)を尽くして、今象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責む。

【意訳】

これまで山水海陸の美しい風景をたくさん見て来て、今、象潟に来て詩心を悩ます。

この「方寸を責む」という言葉を、現代の言葉でどう訳せばいいのか。

一応、「詩心を悩ます」と表したが、どうも十分ではない気がする。

「方寸」とは「心」のことらしい。「心を責める」とはどういうことなのだろう。

この「方寸を責む」という言葉の意味がわかれば、芭蕉がどんな気持ちで象潟を訪れたかわかるのだが…。今、象潟を歩くときは「想像力」を働かせなければいけない。

芭蕉が訪れた時、ここは海だった。この写真左下が「象潟」、右上が「鳥海山」である。

今、田んぼに見えるところが「浅い海」で、黒く小さい点が「島」だった。この島々は「流山」(ながれやま)である。

「流山」とは、鳥海山が噴火した時、鳥海山の一部が「山体崩壊」し、流れ落ちてきた「岩や土砂のかたまり」である。なんと雄大な風景だろう。ここは海ではあるが「湖」のようでもあった。

うまい具合に海岸線が「砂洲」となり、海との出入口は5メートルほどしかなかった。

深さはせいぜい2メートル、鳥海山の伏流水が大量に湧出していたのである。水も澄んでいたことであろう。芭蕉はここで小舟に乗り、島々を巡った。

今は歩いてめぐる。能因法師が三年間隠棲していたという能因島などを回る。

ここの風景は「鳥海山」とセットで考えるとさらにいい。

象潟の「島」も「水」も鳥海山によって生み出されたものである。

芭蕉はこの「象潟」に、中国の景勝地「西湖」の面影を見ている。

象潟や雨に西施が合歓の花   芭蕉

は、北宋時代の詩人・蘇東坡(そとうば)の漢詩をヒントに作られ、雨に濡れる合歓の花を、中国春秋戦国時代の絶世の美女・西施に譬えている。

蘇東坡の詩とは、飲湖上初晴後雨(こじょうにいんす はじめはれのちにあめふる)

で、飲湖上初晴後雨  水光瀲艶晴方好  山色空濛雨亦奇  欲把西湖比西子

淡粧濃抹總相宜の、欲把西湖比西子の、西子が「西施」である。

この句はそういう漢詩を元にした句で、意味がわかりづらい俳句であるが、なぜか心に染みる。やはり芥川龍之介が指摘した、「調べのよさ」にあるのだろう。

芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。

もし『調べ』の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。

俳諧は元来歌よりも『調べ』に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に『言葉の音楽』をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず『調べ』にのみ執するのは俳諧の本道を失したものである。

芭蕉の『調べ』を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。

しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に『調べ』を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を『調べ』にのみ託したものさへある。

―芥川龍之介『芭蕉雑記』―

芭蕉は、松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとしと象潟を表現している。

象潟を歩くのは4回目だが、雨の象潟は初めてである。

4回目の訪問にしてようやく「憾むがごと」き象潟の風景を見ることが出来たような気がする

https://setuoh.web.fc2.com/dewa/kisakata/kisakata.html  【おくのほそ道を辿る うらむがごとし象潟】より

芭蕉は6月16日(陽暦7月30日)、雨の中を象潟に到着、18日早朝に酒田に戻っている。象潟の印象は松島と共に強く残ったようで、「おくのほそ道」も文字数を費やして象潟を書き残している。

「江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑あまの苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。(おくのほそ道)

象潟は秋田県最南部に位置し、今は仁賀保町などと合併して「にかほ市」となっている。小さな漁村という感じだ。羽越本線象潟駅を降り立つと、駅の直ぐ横に大きな芭蕉の碑が建っている。

「芭蕉文学碑」      象潟

きさかたの雨や西施がねぶの花  夕方雨やみて処の   何がし舟にて江の中を   

案内せらる  ゆふ晴や桜に凉む波の華    腰長の汐といふ処は    いと浅くて鶴おり立て    あさるを  腰長や鶴脛ぬれて海凉し        武陵芭蕉翁桃青

十六日に泊まった「向屋跡」

十七日に泊まった「能登屋」跡

「潟舟発着地跡」

かつて多くの島々があった頃、象潟川のここから潟舟で渡っていた。芭蕉の一行もここから島巡りにでかけたのだろう。

「舟つなぎ石」 潟舟発着の舟を繋ぎ止めた石。道しるべを兼ねているのか、道しるべにとも綱を結んだものか、それは知らない。 「左 ○ ○」 どこへいくのだろう。

「象潟の日没」

宿の真横は日本海。大急ぎで夕食をすませて、防波堤によじ登った。三脚もなし、私の安カメラと腕で夕日がどう撮せるやら、とにかく撮ってみた。「日本の夕陽百選」

「象潟の日没」

ここは外海だが、今日は凪て、涼やかな風が僅かに頬をなでるばかり。水平線に沈む夕陽を見つめるのは山国育ちの私には堪らない。「日本の渚百選」

「夕月」

部屋に戻ったら、夕月が鳥海山の上に昇ってきたのが窓越しに見えた。今日は月齢十四日。「……月は東に日は西に」かな?

「鳥海山」

朝の散歩に出ると直ぐ眼についたのは標高2236m鳥海山。出羽の国のシンボルというべき山かな?

「蕉風莊」

昨夜の宿は玄関前に大きな合歓ねむの木が三本。手前の内海はかつての海の名残りかもしれないとか。

「蕉風莊」

宿は岬と云うほどではないが、海に突き出した処に位置する。「海が静かですね」と女将に聞いたら、「冬は大荒れですよ」

「物見山」

宿から象潟川を渡って少し行くと、ちょっとした岬になっていて、20m程の小山があった。ここからは男鹿半島や飛島もよく見えるそうだが、この日は見えず。

「唐戸石」

土地が隆起する前、僅かに水面に頭をのぞかせていたが、岩全体が地上に出たので、隆起の証拠とされている。市指定文化財。

「海べの植物1」

昔小学校の教材に「海べの植物」という教材があった。潮風の影響や、砂地という環境にも育つ植物の特徴を学ぶのだったが

「海べの植物2」  ハマヒルガオ?

散歩で宿の廻りから野草の花を摘んできた。宿の人に名を問うたが、どれも知らない。誰も知らない。知らなくても困らない。

「海べの植物3」  ミヤコグサ?  「海べの植物4」   アセトウナ?

「海べの植物5」   ハマボッス?  「海べの植物6」 ハマエンドウ ?

芭蕉が象潟へ「方寸を責」と心がせき立てられたのは、当時の象潟は東西2km、南北3km程の入り江で、湾内には大小百余の島が点在し、「九十九島・八十八潟」の景勝地であり、松島と並ぶ名勝地だったからだ。歌枕として知られ、能因法師はここの能因島で三年間隠栖していたという。

芭蕉は、「象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこさす。(おくのほそ道)

  蚶方きさかたの桜は波に埋もれて  花の上漕ぐ海士あまの釣り舟  西行

  世の中はかくてもへけり蚶方の あまのとまやをわが宿にして      能因法師

  象潟の欠かけを掴んで鳴く千鳥   / 蝉なくや象潟こんどつぶれしと    一茶

「蚶満寺かんまんじ」

羽越本線の線路を越えると、そこからが寺の境内のようだ。左手には松の公園が拡がっていて、右手は駐車場と売店。

昔ここは「八ツ島」と大きないう島だった由。

「芭蕉像」 

「松島は笑ふ如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」(おくのほそ道)芭蕉は隆起後の今をどう見るのだろう。

「芭蕉句碑」

「象潟の雨や西施かねふの花」  芭蕉像のそばに立っている。傍らには池があり、その畔にはネムノキが何本も。

「蚶満寺山門」

「法海法窟」の扁額を掲げたどっしりとした山門で、仁王尊や建物の彫刻など、作者不明だそうだ。

「皇宮山蚶満珠禅寺 本堂」

開創は仁寿3(852)年。中尊寺、瑞巌寺、立石寺などを開創した慈覚大師による。

庭園を拝観するとそこには、「芭蕉句碑」  中央の「芭蕉翁」の文字を挟んで

象潟の雨や     西施がねぶの花

「親鸞聖人御腰石」

「北条時頼公のつつじ」

「猿丸太夫姿見の井戸」

「西行法師歌桜の跡」

「此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。……江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」(おくのほそ道)

芭蕉が尋ねた後115年後の文化元年(1804)に象潟地震が発生。多くの死者と倒壊家屋を出す。そして地盤が2mほども隆起したため、景勝地「象潟」は陸地と化し、いくつかの島が丘として点在するだけとなった。

「舟つき場の跡と舟つなぎ石」

この先の一段と低くなっている田は隆起の前は海だった訳だ。

「水田」

地震後、島々を削って田地造成が行われたそうで、残っている陸地と田の高さはさして差がないようだ。

「九十九島」

それぞれの(旧)島には松の木が聳えていて一目でわかるが、案内所で貰った地図には名前があってもどの島か判断できない。

「九十九島」

案内所で貸し自転車を借りて「絶景ポイント」まで行くと九十九島の全体が見渡せたそうだ。この島(丘)は「駒留島」かな?

「九十九島の碑」

いつ建てたのかなんと書いてあるのかわからない。市の有形文化財に指定されているのだから、貴重なものなんだろう。

道の駅「ねむの丘」遠望

6階の展望台から九十九島の全貌が見えるかと思ったらそう甘くはなかった。

物産館、レストラン、直売所、温泉などどなのある総合施設のようだ。

「西施像」

ねむの丘の背後、海を背にして、この絶世の美女の像があった。芭蕉の句に詠み込まれたのが縁で、西施の故郷の浙江省諸曁しょき市と姉妹都市となっている。

「西施像」

春秋時代の呉越の争いの際、越王勾践が呉王夫差に西施を献上。呉王はその色香に迷って政治を怠り、越に滅ぼされた。故郷に背を向け異国の鳥海山を見つめてるのは……。

時間があれば、能因島など、もっと尋ね廻って見たい所があった。「あんない地図」には、「シャッターポイント」を数カ所示しているが、一カ所しか行けなかったのが残念だった。

芭蕉らは、ここから酒田に戻り、越後の出雲崎、直江津、市振と南下していく。出来たら私もこの先を尋ね歩きたいものだ。果たして、体が云うことを聞くかどうか? 叶わぬ夢かな?


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200224-462351.php 【【 象潟 】<象潟や雨に西施がねぶの花> 憂いを帯びた『美女の趣』】より

蚶満寺付近から望む象潟の九十九島の景色。左は駒留島。記録的な暖冬で象潟付近も全く雪がない=2月2日、秋田県にかほ市

 象潟は、秋田県にかほ市にあった無数の小島が点在する入り江である。昔から松島と並び称される景勝地として知られた。

 そして松尾芭蕉が訪問を熱望した「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅最北の到達地だ。象潟の場面はこう始まる。「美しい景色を数限りなく見て来て、いよいよ象潟に赴く今、期待に心が気負い立つ」(意訳)。芭蕉の高ぶりが伝わってくるだろう。

 だが、象潟について何も知らない記者は、ピンと来ないまま2月上旬、列車に乗り込んだ。

 よく変わる天気

 1689(元禄2)年6月15日(陽暦7月31日)、芭蕉と河合曽良は、酒田(山形県酒田市)をたち、吹浦(ふくら)(同県遊佐町)で1泊した後、翌16日、雨の中を象潟のほとりの集落、塩越にたどり着いた。折から塩越では熊野神社の祭り。芭蕉たちは混んだ宿を変えるなど、気ぜわしく過ごしつつも、海に近い象潟橋で雨の夕景を楽しんだ。

 翌17日は、待望の象潟巡りである。水辺の蚶満寺(かんまんじ)から絶景を楽しみ、昼には雨も上がり日が差してきた。さらに祭礼での踊り見物、夕食後は舟での象潟遊覧と、バカンスさながらの様子が曽良の「日記」には記される。

 この事実に基づきながらも、「ほそ道」では、しっとりとしたドラマが展開される。

 例えば象潟への道中。右手の鳥海山は雨で見えない。「雨も又奇(き)也(雨もまた味なもの)」だが、雨上がりの景色も期待できると、浜辺で野宿する。翌朝は一転晴れ上がり、朝日の中、象潟に舟を浮かべる―。この雨景と晴色との対比、実に美しい。

 ただ、分かりやすい演出だなと記者は思っていた。しかしだ、象潟駅に降り立ちしばらくすると「演出でもなさそうだ」と思い始めた。現実の象潟も、実に天気が変わりやすいのだった。

 心を騒がす風景

 空模様を気にしつつ記者は、まず道の駅象潟「ねむの丘」の展望塔に上った。そして、陸の方角を望むと、芭蕉の高ぶりが一気に腑(ふ)に落ちた。

 国道7号と山裾の間の枯れ野に、小ぶりな丘が無数にある。かつて入り江だった象潟は、1804(文化元)年の地震で隆起し陸になった。点在する小丘は、すべて当時の小島だ。さらに遠景には、鳥海山を盟主とする山並みがそびえ、振り返ると日本海。巨大で現実離れしたパノラマを完成させている。

 この心を騒がす風景を、芭蕉は美女にたとえた。

 〈象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花〉。象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿(ほうふつ)とさせる、の意(佐藤勝明氏訳)。西施は、越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のことだ。

 芭蕉はこうも記す。「象潟は松島に似ていて、また違う。松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地の趣は(悲しい境遇の)美女が憂いに閉ざされているようだ」(意訳)と。

 確かに、先刻までの青空がうそのように降り出す小雪の中、田んぼになった昔の島々の間を歩きながら見る風景は、憂い顔の美女を思わなくもない。しかし、少々渋すぎではないか...。

 すると訪れた蚶満寺で、修行中の横山智弘さん(29)が「象潟を見るなら田植えの頃が一番」と教えてくれた。春には小丘群の間の田に水が張られ、その風景は、しっとりと美しく、海だった象潟を思わせるのだと言う。

 とぼとぼと季節はずれの旅人か―とつぶやきつつ戻った道の駅で、うどんをすする。すると店の佐藤洋子さんに「芭蕉が象潟で最初に食べたのは、うどんだったのよ」と言われ驚く。確かに「日記」にあった。そこへ佐藤さんの夫と、にかほ市観光案内人協会の伊藤良孝さん(78)が現れ「〈汐越や鶴はぎぬれて海(うみ)涼し〉の句は、海に足をつけた女性の立ち姿を詠んだ」と語り、ついでに「松島が鈴木京香なら、象潟は壇蜜」なんてことも言う。

 ああ、この雰囲気、象潟の場面を締めくくる3句と同じだと思い当たった。それぞれ、祭りの食事、夕涼みする家族、岩の上のミサゴの夫婦を詠んだ曽良たちの3句は、スナップ写真のように、土地の人の温かさ、家族の情を写し出している。象潟の場面の秀逸なエピローグである。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12630740010.html?frm=theme  【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉はなぜ小石川水道の現場監督が出来たのか?】 より

芭蕉はなぜ小石川水道の現場監督が出来たのか?

先日、よみうりカルチャー町屋「じっくりと読むおくのほそ道」で受けた上記の質問、を考えてみたい。

延宝3年(1675)、江戸へ下った芭蕉は延宝5年から神田上水の水道工事に従事している。約四年間従事した、という。

まだ俳諧宗匠ではなかったし、いきなり俳諧では食べていけない為だろう。

文京区の小石川水道のほとり、椿山荘のすぐ下に「関口芭蕉庵」がある。この工事にかかわっていた期間、芭蕉はここに住んでいた。

まず、一介の俳諧師である芭蕉が、なぜ水道工事の現場監督が務まったのか?という疑問がある。

松尾芭蕉のWikipediaには、

労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。とあり、嵐山光三郎さんの『悪党芭蕉』にも、芭蕉の仕事は書記役で、直接工事の労働をするわけではないが…。とある。現場監督といっても「書記方」であり、実際の施工などにかかわっていないことがわかった。

「書記方」の具体的な仕事はおそらく、

・スケジュール管理・人足の調達・進捗状況の記録などであろう。

これなら長年、お城勤めをし、一説には食料の倉庫番をしていた、という芭蕉なら十分務まったであろう。その根拠となる記録がなんなのかわかればいいのだが、それは後日としたい。

次に、なぜ、水道工事の実績がない芭蕉が現場監督の職にありつけたのか?という質問である。これについては「書記役」であれば、実績がないわけではない。問題は「誰」あるいは「どこ」の「ツテ」で職にあり就けたか、である。

これは、Wikipediaも『悪党芭蕉」でも、小沢卜尺の「ツテ」と述べている。

卜尺宅は芭蕉が最初に江戸へ出てきた時の寄宿先で、卜尺は芭蕉の最も早く弟子となってくれた人である。

卜尺の父は日本橋本舟町の名主。日本橋の名主の口添えがあれば、職に就けたであろう。

私が考えたのは、「藤堂藩」との関係である。

実際、講義の時の質問にも私は、築城、土木技術に長けていた藤堂藩との関係があったのではないか?と答えた。

「藤堂藩」とは芭蕉の故郷、伊賀を治めていた藩である。藩祖・藤堂高虎は「築城の名手」で関わった城は20を超える。江戸城の築城にも深くかかわっている。

築城と水道工事は違うが、大きな意味で考えれば「土木工事」である。芭蕉は藤堂藩の「ツテ」を使って現場監督となったのではないか。そう思って調べてみると、関口芭蕉庵の説明板(東京都みどりの推進委員会 文京地区会)には、彼(※芭蕉のこと)の前身が伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったことや、藤堂藩が当時幕府から神田上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると…(以下略)と書いている。

芭蕉が頼み込んだのか、藤堂藩から要請が来たのかはわからないが、「藤堂藩」の「ツテ」で…と考えるのが一番自然のように思える。

芭蕉が仕えていた藤堂良忠は1688年に亡くなってしまったが、その後も藤堂藩との付き合いはあり、藤堂藩は芭蕉の江戸下向にも力を貸していたのかもしれない。