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芭蕉批判

2020.11.06 06:04

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12611256245.html?frm=theme  【「おくのほそ道」をいろいろ考える~上田秋成の芭蕉批判】より

めゆめ学ぶまじき人の有様なり     上田 秋成(うえだ・あきなり)(『去年の枝折』)

おとといのブログで、松尾芭蕉や「おくのほそ道」を批判する人を正岡子規以外知らない

と書いたが「上田秋成」がいたことを思い出した。『雨月物語』の作者である。

くわしくは知らなかったのだが、秋成が芭蕉をやたらと批判していることだけは知っていた。

上田秋成(1734~1809)は大阪曽根崎(現・大阪府大阪市北区曽根崎)の生まれ。

芭蕉は1644年の生まれだから、芭蕉より90年のちの人である。

江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳諧師。

意外であったが、秋成はもともと俳諧師として文壇にデビューし、与謝蕪村などとも交流があったようだ。

その後、国文学に転向、さらに読本作者として活躍した。

秋成は「芭蕉嫌い」で有名だったらしく、「おくのほそ道」の旅を「大名旅行」と揶揄し、芭蕉や、芭蕉の生きざまを上記のように、

決して、その人生を学んではいけない人

と評している。

(先日も書いたが…)子規は確かに、俳句革新運動の中で「芭蕉批判」を展開したが、子規が本当に批判をしたかったのは盲目的な芭蕉信奉者や、芭蕉を金もうけに利用する俳諧宗匠たちであり、著作などを深く読めば芭蕉を敬愛していたことはわかる。

芥川龍之介も、「芭蕉雑記」の中で、芭蕉を「日本の生んだ三百年前の大山師」(※山師…詐欺師のこと)と評したが、それは反面、俳諧師としての器の大きさを讃える言葉であった。

しかし、秋成は本気で芭蕉を嫌っていたようだ。

秋成は城崎温泉の旅行記『去年の枝折』の中で、芭蕉とほとんど同時代に生き、芭蕉とは別の派であった、伊丹(兵庫県伊丹市)の俳諧師・上島鬼貫(うえしま・おにつら)の記した『禁足之旅記』という旅行記に感心したことを述べ、親孝行であった鬼貫の生涯を讃えている。

そうして、文章後半で、

楚やかの翁といふ者、湖上の茅擔、深川の蕉窓、所さだめず住なして、西行宗祇の昔をとなへ、檜の木笠竹の杖に世をうかれあるきし人也とや。

いともこころ得ね。

彼古しへの人々は、保元壽永のみだれ打つづきて、賓昨も今やいづ方に奪ひもて行らんと思へば、そこと定めて住つかぬもことわり感ぜられるる也。

今ひとりも嘉吉應仁に世に生れあひて、月日も地におち、山川も劫灰とや蓋ずなんとおもひまどはんには、何このやどりなるべき。

さらに時雨のと観念すべき時世なりけり。

八洲の外行浪も風吹たたず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて何くか定めて住つくべきを僧俗いづれともなき人の、かく事触て狂ひあるるなん。

誠に堯年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。

と書き、芭蕉を批判している。

正直、私の知識では、上記の文章を正確に読み解くことは出来ないのだが、要約すると、

松尾芭蕉という人は、江戸深川に粗末な庵を結び、漂泊の旅に出て、いにしえの歌人・西行や連歌師・宗祇の昔の姿を慕い、追い求め、旅姿となって浮かれ歩いた人である。

なんという勘違い男だろう。

西行の場合、保元の乱など、源平の乱世に生きた人であり、定住したくてもできず旅に生きたのであって、それははしかたのないことだ。

宗祇もまた、応仁の乱という乱世に生まれ、荒廃した世で、旅に生きた人である。

世にふりてさらに時雨の宿りかな  宗祇

とこの世の無常を嘆き、あきらめの中に生きた時代だったのである。

今、日本は大きな乱れもなく、士農工商の人々も自分の仕事に励み、住まいを定める、太平の世であるのに、僧侶でも、一般人でもない風体で、なにをとち狂ったのであろうか。

平和な時代のはみ出し者としても、まちがっても生き方を学んではいけない愚か者である。

というようなことであろう。ずいぶんひどい言いようだ(笑)。

彼の言い分の核心は、芭蕉が憧れた「旅の詩人」、西行や宗祇は自らの意思で旅に出たのではなく、乱世ゆえの旅だった。

芭蕉の旅はそうではなく、単なる懐古趣味だった。ということであろう。

芭蕉はそういうことを理解せず、ミーハー的に旅に浮かれ歩いた変わり者と断じている。

秋成に関する論文を読んでみると、彼は大阪曽根崎生まれの「都会人」であり、生粋の「現実主義者」であったようだ。

おそらく秋成にとって、芭蕉の旅は太平の世にいにしえに憧れ歩き回った、鼻持ちならない「懐古趣味」に見えたのだろう。

秋成は芭蕉だけではなく、千利休にも、同時代の本居宣長にも批判を加えている。

これらを考えると、彼はやはり「現実主義者」で「懐古趣味」を極度に嫌う思考があるようだ。

芭蕉は、太平の世で、天下の江戸で俳諧宗匠に専念していれば、十分「おいしい思い」を出来たはずである。しかし「自ら」その地位を捨て、「自ら」漂泊の旅に出たことにこそ、芭蕉の偉大さがある、と私は考えている。

悪口ではなく、宗祇の旅は、秋成の言う「乱世ゆえのしかたのない旅」でるからこそ、私は自ら志向した芭蕉の漂泊の旅よりもワンランク落ちる、と考えている。

(まあ、そもそも旅にランクなどないのだが…。)

私は秋成に関しては不勉強なので、断言は出来ないが、感覚的には、彼は関西の知識層にいそうな「皮肉屋」な感じもしないではない。

また、秋成が鬼貫の親孝行に感心したり、芭蕉批判の中に、「皆が汗水たらして堅実に働いているのに…」というニュアンスが感じられるのを考えると、秋成という人は「足を地につけて生きる」ということに人生の重きを置いた人なのかもしれない。

もtもとは大阪の油問屋の主人であったし、火事で財産を失ったりして、前半生は波乱万丈であったから、そういうことも影響しているのかもしれない。


https://skawa68.com/2020/09/14/post-48270/ 【俳聖・松尾芭蕉を批判した勇気ある上田秋成・正岡子規・芥川龍之介・嵐山光三郎】より

松尾芭蕉(1644年~1694年)と言えば、「奥の細道」で有名な「俳聖」ですが、芭蕉を批判した勇気ある人々がいます。

歴史上の人物や芸術家、文化人の評価については、盲目的に崇拝するような一面的な高い評価ばかりでなく、批判的な目で多面的に見ることも大切だと思います。

そこで今回は芭蕉を批判した上田秋成・正岡子規・芥川龍之介・嵐山光三郎について、その内容をわかりやすくご紹介したいと思います。

1.上田秋成

(1)上田秋成の批判

上田秋成はもともと「俳諧師」として出発し、与謝野蕪村(1716年~1784年)などとも交流がありました。その後、国学に転向し、読本(よみほん)作家として活躍しました。

彼は「奥の細道」の旅を「大名旅行」と揶揄し、芭蕉や芭蕉の生きざまを「決してその人生を学んではいけない人」と酷評しています。

彼は城崎温泉の旅行記「去年の枝折」の中で、芭蕉と同時代の人で元談林派で伊丹派の俳諧師・上島鬼貫(うえしまおにつら)(1661年~1738年)を高く評価していますが、芭蕉については次のような趣旨の批判をしています。

芭蕉が憬れた「漂泊の詩人」の西行や宗祇は、自らの意思で旅に出たのではなく、乱世ゆえのやむにやまれぬ旅であった。しかし芭蕉の旅はそうではなく、単なる「懐古趣味」であった。つまり、「太平の世に、いにしえに憧れて浮かれて歩き回った変わり者」という辛辣な見方です。

ちなみに上島鬼貫は、蕉門の広瀬惟然や八十村路通とも親交があり、彼らを通じて芭蕉とも親交を持ちました。1718年に刊行した「獨言(ひとりごと)」の中で、「まことの外に俳諧なし」と述べ、「東の芭蕉、西の鬼貫」と称されました。

(2)上田秋成とは

上田秋成(1734年~1809年)は、江戸後期の国学者、浮世草子・読本作家、俳諧師で大坂生まれです。読本「雨月物語」「春雨物語」、随筆「肝大小心録」、歌文集「藤簍冊子(つづらぶみ)」などで知られています。なお彼は、本居宣長(1730年~1801年)とは「古代音韻」「皇国主義」をめぐって論争を行っています。

2.正岡子規

(1)正岡子規の批判

正岡子規は、「俳句革新運動」の中で「芭蕉批判」を展開しました。彼は「芭蕉雑談」の中で、芭蕉の高名な俳句を次々と批判しました。芭蕉の業績を全面的に否定したわけではありませんが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性が欠けていると批判しました。

「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべきものは其の何十分の一たる少数に過ぎず」と一刀両断し、芭蕉の残した千句あまりのうち、良い句と言えるのは二百句程度に過ぎないと断定しています。「古池や蛙飛び込む水の音」などはあまりに知られ過ぎて「かえって陳腐である」と指摘しています。

ただ彼が最も批判したかったのは、「盲目的な芭蕉信奉者」や、「芭蕉を金儲けに利用する俳諧宗匠たち」であり、芭蕉に対しては一定の評価もしていたようです。

彼は、芭蕉をただただ有難がり崇拝する風潮を批判し、「偶像破壊」にチャレンジしたわけです。一方で彼は、それまで十分に認められていなかった与謝蕪村(1716年~1784年)の俳句を賞揚しました。蕪村の俳句が技法的に洗練されており、鮮明な印象を効率よく読者に伝えている点を高く評価しました。

(2)正岡子規とは

正岡子規(1867年~1902年)は、愛媛県生まれの俳人・歌人で夏目漱石(1867年~1916年)の親友としても有名です。

俳諧の新たな史的考察によって「俳句革新」を志し、次いで「歌よみに与ふる書」を発表して「短歌革新」に乗り出しました。

与謝蕪村の絵画的で自在な句境を学んで俳句に自然を描写する写生の重要性を悟り、俳誌「ホトトギス」に拠って「写生による新しい俳句」を指導しました。

3.芥川龍之介

(1)芥川龍之介の批判

芥川龍之介は、「続芭蕉雑記」の中で、芭蕉を「日本の生んだ三百年前の大山師」(「山師」とは「詐欺師」のこと)と評しています。

芭蕉の伝記は細部に亘わたれば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下しもに尽きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔しゆつぽんし、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚もんがくさへ恐れさせた西行さいぎやうほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産おきみやげ」にある蕩児たうじの一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を残した。……

最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合かうがふに図々づうづうしくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りに貶けなす言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。

しかし、彼は芭蕉を全面否定しているのではなく、彼が天才であることを認めつつ、「現実には名声を求めているのに、名聞を求めていないという姿勢」を皮肉っているようです。

また、「芭蕉の句」というだけで「優れている」と思い込み、有難がることは、文芸の衰弱につながると考えたようです。

「芭蕉雑記」に次のような文章があります。

 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集しちぶしふなるものも悉ことごとく門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞みやうもんを好まぬ為だつたらしい。

「曲翠きよくすゐ問とふ、発句ほつくを取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心しふしんなるべきや。翁をう曰いはく、これ卑しき心より我わが上手じやうずなるを知られんと我を忘れたる名聞より出いづる事也。」

かう云つたのも一応は尤もである。しかしその次を読んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。

「集とは其風体ふうたいの句々をえらび、我風体と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし。しかしながら貞徳ていとく以来其人々の風体ありて、宗因そういんまで俳諧を唱となへ来れり。然しかれども我わが云いふ所ところの俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水かけいやすゐ等に後見うしろみして『冬の日』『春の日』『あら野』等あり。」

芭蕉の説に従へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!

しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――「我俳諧撰集の心なし。」芭蕉の説に従へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?

芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「空くう」と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集を著はすのさへ、実は「悪」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山かんざんは木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転るてんに任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?

僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?

(2)芥川龍之介とは

芥川龍之介(1892年~1927年)は、夏目漱石によって才能を見出された小説家です。東大在学中に菊池寛らと第三次「新思潮」を創刊しました。没後、菊池寛によって「芥川賞」が設けられました。「羅生門」「鼻」「河童」「蜘蛛の糸」などの作品があります。

4.嵐山光三郎

嵐山光三郎

(1)嵐山光三郎の批判

嵐山光三郎は、「悪党芭蕉」の中で、「芭蕉は観念が先行する人で、旅をしても風景などはさして見ず、彼の頭の中の杜甫や西行の詩を見立てた」と述べています。

徳川綱吉の「生類憐みの令」に迎合するように「蛙合(かわずあわせ)」の句会を催すなど「芭蕉は時流に乗る天才的直感があった」とも述べています。

また、ほとんどの芭蕉評伝は、芭蕉を最高指導者として捉える結果、芭蕉に離反した俳人を脱落者として断罪する傾向にあります。芭蕉は自らも言うように風狂の人で聖人君子ではなく、悪党の貫禄があり、少しでも癪に障る弟子を虫けらのように見捨てたそうです。

芭蕉のもっとも有名な俳句である「古池や蛙飛び込む水の音」もフィクションだそうです。この句は「蛙を題材にした句合(くあわせ)」という句会で詠まれたものであり、正岡子規の提唱した「写生俳句」ではありません。

芭蕉が初めに「蛙飛び込む水の音」という下の句を提示して、上五の句を門人たちに考えさせておき、宝井其角が「山吹や」と置いたのを受けて、「古池や」に定めたというのが真相のようです。

芭蕉は和歌的な伝統を持つ「山吹といふ五文字は、風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實(まこと)也。山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからぬ」ということです。

「荒海や佐渡に横たふ天の河」も、芭蕉が実際に見た景色ではなく、想像上の「幻視」です。「曾良日記」によると、この句を詠んだ夜は雨が強く降り、佐渡も天の河も見えなかったそうです。

そういえば「五月雨を集めて早し最上川」という有名な句も、最初「句会」で「五月雨を集めて涼し最上川」と詠んだものを、最上川の川下りを実際に体験した後に、その急流の実感から「早し」に推敲したものです。

(2)嵐山光三郎とは

嵐山光三郎(1942年~ )は、編集者・作家・エッセイストです。

タモリ司会のテレビ番組「今夜は最高!」に、「月間ドリブ」の宣伝も兼ねて出演しました。これがきっかけで、1982年からは「笑っていいとも!増刊号」(フジテレビ)に編集長としてレギュラー出演しました。