Okinawa 沖縄 #2 Day 53 (7/11/20) 旧具志頭 (3) Ooton Hamlet 大頓集落
大頓集落 (おおとん、ウフドゥン)
- 喜屋武墓 (チャンバカ)
- 大頓公民館
- 大頓之御嶽
- 大頓遺跡
大頓集落 (おおとん、ウフドゥン)
この大頓 (おおとん) は第二期屋取募集 (1795-1875年の間) で、ここに移住した首里の貧困士族が帰農してできた屋取集落。最初の移住は首里からで、1838年 (天保9年) 喜納門中の始祖と考えられる人物で、まずは大頓原に移り、そして川田原に定住をした。(のちに別の地に移住していった)その後、第三期、第四期に至る120年の間で、屋宣門中が東風平屋宣から、多和田門中が玉城から、鉢嶺門中が南風原喜屋武より、宜保門中が玉城から、この地に移り住んで、屋取集落を形成した。そうすると、この大頓集落は200年弱前から始まった、他の字に比べて比較的新しい集落だ。この屋取集落が始まったころは、 具志頭間切の 具志頭村と玻名城村の管轄であった。同じ集落内で具志頭村と玻名城村のそれぞれに属するという変則的な状態であった。屋取集落の帰農士族は士族という特権で、農民のような租税の対象からははずれており、村の行政には参加していなかった。このことが、屋取集落の人々の村への帰属意識はなく、地元の村民との交流もなかった。このような状態は沖縄戦終結まで続いた。1927年 (昭和2年) に長毛屋取集落が港川村から独立したことに刺激され、その他の屋取集落でも独立を望む機運が高まり、1931年 (昭和6年) に大字大頓が誕生した。大字は従来通り、字具志頭と字玻名城に属していたが、大字内で組織を編成し自治を行っていた。大字大頓が行政区として独立したのは、それからずいぶんと年月を経た1989年 (平成元年) となった。
大頓集落は発展するのだが、その理由が挙げられている。
- 大頓の地は肥沃え農耕に適していた。
- 畑と住居が隣接しており、移動時間がなく運搬が楽であった。(沖縄の集落は住居が一つのところに集まり、畑は集落の外側であった。屋取の場合は移住してきたときに畑の近くに住居を設けていた。これは生産性を上げるには効果的ではあったが、屋取集落内でも、各家族の住居は距離があり、屋取集落内でも交流は薄かった。これが集落の連帯感が他の伝統的集落と異なるところだ。)
- 貢租、夫役が士族として免除されていた。農民は3分の2を首里王府に納めていたが、屋取集落士族は小作料の支払いのみであり、金持ちを生む要因であった。
- 連帯感が薄いので、金がかかる、拝所の維持、祭祀などの行事がなかった。
1919年 (大正8年) の人口は143人 (29戸) で、その65%が1760年に首里から移住してきた屋宣門中で占められていた。沖縄戦 (1945年)、沖縄本土復帰時では約200名で、現在は460名となっている。ここ10年は人口の減少が続いている。現在の人口の半分は公民館横にある県営住宅の住民だ。この地域を自転車で廻ったのだが、集落といった民家が密集しているところはなく、ほとんどが畑で民家が点在していた。他の地域と少し異なっている。
1933年 (昭和8年) の人口データが199人で、大頓が行政区として独立して三年後。この時は一番小さな字であった。沖縄戦の時は下から2番目、現在は下から三番目となっているがこれは仲座と与座の人口が減少したことによるもので、大頓の人口が急激に増えたわけではない。
旧具志頭村で発行している「具志頭村史 第4巻 村落編」の中で紹介されている文化財は一つだけ。
御嶽: 大頓之御嶽
喜屋武墓 (チャンバカ)
富盛から大頓に向かう途中に、小高い丘に墓がある。喜屋武墓 (チャンバカ) という。喜屋武は現在では「キャン」と読むのだが、その前は「チャン」と発音されていた。この墓は東風平屋宣から移住してきた屋宣 (ヤギ) 門中の墓。この大頓に最初に移住してきたのは喜納門中だが、この喜納門中は他の地域に移住していき、集落内でリーダー的立場であったのが屋宣 (ヤギ) 門中だ。大頓屋取の中軸を成す屋宜門中は、東風平間切大毛で大毛屋取を起こした大毛屋宜門中から、分家として大頓屋取に移住した帰農士族である。ここで触れた大毛屋取とは先に訪れた旧東風平村の屋宜原屋取集落のこと。
大頓公民館
この場所が以前は大頓集落の事務所があったそうなので、村屋 (ムラヤー) だろう。
周りはほとんどがサトウキビ畑。写真左が富盛から集落を見たところで、左端に見える給水塔と県営住宅の場所が中心地。写真左は大頓集落から富盛を見たところ。富盛とは数キロしか離れていない。
大頓之御嶽
1931年 (昭和6年) に大字になった時を、集落の人々は村の始まりと考え、大頓の事務所に御嶽を造った。これが大頓之御嶽だ。現在は農村公園と公民館になっている場所に移っている。
大頓遺跡
この近くに大頓遺跡が発掘されている。
井戸は?
大頓の地は泥灰岩 (クチャ) 之風化土壌 (ジャーガル) で、自然井戸もなく、掘り抜き井戸を造ることもできなかった。そこで、集落の人々は雨水をためる方法で生活用水を賄っていた。ということで、他の集落とは異なり、この集落には井戸の文化財は皆無だ。
これまでに訪問した中で、幾つかの集落は屋取 (ヤードイ) 集落であったが、士族ということで税が課されていないとある。具体的に農民が納めていた税とどれほどの違いがあるのかを調べた。当時の土地制度も大きく関わるので、それも調べた。
旧慣土地制度・租税制度
近世沖縄の農村を貧窮させていた最大の原因は、琉球王朝時代の旧慣として残されていた土地制度で、従来の沖縄の土地制度は地割制度で、農民の土地私有は原則的に許されていなかった。土地に対する租税も、士族層は免税特権があたえられ、農民だけが税負担するというものであった。明治の廃藩置県の後も、沖縄県内の不平士族たちを懐柔するためこの土地制度は温存され、1903年 (明治36年) まで存続した。この制度改革により、「使用していた土地をの私有地と認める」「土地所有者を納税者とする」「物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる」となり、従来の租税はある程度軽減されまのだが、国税や新税の設置で、実際の租税負担は年々重くなっていった。これが、土地を手ばなす者もあらわれ、農民の間には格差が生じ、雇用農民が増加、県外への出稼ぎや海外移民が増えていった原因。
大頓集落には文化財がほとんどないので、この後は南にある具志頭集落に向かう。具志頭集落の訪問記は別途。
参考文献
- 具志頭村の文化財 具志頭村文化財要覧 第1集 (1997 具志頭村文化財保護委員会)
- 具志頭村史 第2巻 歴史編・教育編・沖縄戦編 (1991 具志頭村史編集委員会)
- 具志頭村史 第4巻 村落編 (1995 具志頭村史編集委員会)