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清濁併せ持つ

2020.11.06 11:49

https://ameblo.jp/mameham/entry-12024852291.html  【「清濁併せ持つ」の意味を考えてみた】より

初めてこの言葉に出会ったのは、まだ十代の頃だったと思う。

私のことであるからマンガで知った。

タイトルや作者名は出てこないけど、絵柄や大まかな筋書きは微かながら覚えているので、見ればこの作品だってのはすぐわかると思う。

なにぶんお子ちゃまだったので言葉の輪郭ぐらいは分かるけど、実際にだとどういうことなのか解らない。

無理矢理パッと想像すると、老獪でズルさに慣れた人間がヒョコンと浮かんでくる。

ま~そのマンガで台詞にこの言葉を話してたのが白装束に髪も髭も真っ白のじっちゃんだったので、そういうイメージになった気もする。

ただ、この言葉はずっと引っかかっていた。

そのせいで折に触れて時々考えてしまう言葉だった。

私にはもう一つこだわってしまうものがあって、それは時に「心」と表現し、場合によっては「魂」とか「精神」とか言うこともある、あの謎の「もの」のことになる。

いつも表現する言葉は違っていても観ている「もの」は同じだった。

こっち方面のことを考えるときにも「清濁併せ持つ」という言葉が頭を過ぎる。

で、少し自分なりに掴めてきた気がするので書いてみる。

(でも、みんなとっくに知っていることかも知れませんw)

ぶっちゃけ、↓これがピッタリw

これ使うとチュンソフトから怒られることもあるかも知れないので図形にする。

↑これはでも、ごくごく表面的な見え方でしかないと思う。

これの内側にあるものが今現在、私には↓こう見えることが多い。

歪な図で申し訳ない。

PCのペイントで描いたので正確ではないけど、同心円だと思ってください。

この図は球体を真ん中あたりで輪切りしたもので、私は「心」でも「魂」とか「精神」でも何でもいいですが、「それ」は形に表すと球体だと思っています。

円を色違いにしたのは分かりやすくするためで、ここでは色そのものに意味はありません。

青い矢印は「それ」の成長する方向を大雑把に示すため入れましたが、左右に成長するということではなく、内から外に向かって成長すると考えてください。

要するに成長する方向であるならば、小さな球体は徐々に大きくなっていくということです。

円の地色を白と黒に分けたのは、意識に上っている思考部分と上っていない思考部分とを分けただけで、表面意識の逆を潜在意識としたのは少し実際とは違うかも知れません。

正確には表面に上らない意識のずっと奥にあるものが潜在意識だと思います。

はい、白と黒は善悪を表してるわけではないんです。

ただ隠れている方を黒にしたのです。

でも人はだいたい無意識に自分が好ましいと思う自分を選択し、好ましくないと感じる自分は切り捨て抹殺する作業を知らず知らずやっています。

人は常にどの自分を信じるか取捨選択しながら生きているのだと思います。

ただ客観的に見ても好ましいかどうかは別問題ですので、簡単に善悪で分けることはできません。

そもそも絶対なる善悪が存在するのかどうか、私には判りません。

その時代、その状況、立ち位置など様々に随分左右されるもののような気がします。

捉え方によっても変わりますしね。

要は自分が自分の「それ」をどれだけ把握しているかが大事かなと思っています。

白い部分黒い部分含めて。

それが「清濁併せ持つ」ということに繋がっている気がします。

自分が切り捨てたものを自分とは関係ないものと捉えるか、自分の一部であることには変わりないと捉えるかで、違ってくるのではないかなと思っています。


https://note.com/pipipipooom/n/n0bbbd22373ac 【清濁を併せ持つこと】 より

私の最近の生きていく上でのテーマは清濁を併せ持つことだ。

清濁を併せ持つ、とか厨二チックでかっこいいことをいってみたけど実際は、自分に対して攻撃をしてきた人間や不都合が生じた際に「うるせえわ!ばーーーーーーか!!!!!」と(心のなかで)口にすることを許すことであり、他人の愚痴を「わかる~!」と相づちを打って聴くことだったりする。大学時代にこれを習得(?)した私は高校生の頃よりは随分と楽に毎日を過ごせるようになった。

こんな私でも数年前までは自分の負の感情に抵抗があり、無意識に不満をため込み、必要のないところで傷ついたり悩んだりしていたように思う。

中学・高校と私は対人関係のなかで何かおかしいぞ。と思っても人の悪口や不満をなるべく友人に口にしないように生きてきた。誰かが誰かの悪口を言い始めるとわざととぼけたり、受け流したりして(今でもよくするけど)、自分からも言わないように、思わないようにしていた。それは集団生活する上で自分が無害な存在だと周囲にアピールし友人を作ってきた経験に基づいていて、私なりの処世術であったように思う。いい人でさえあれば誰かが安心して私に近づいてくれる。受け入れてもらえると思っていた。私自身も周囲に誰かの悪口をいいふらす人間が嫌いでたちが悪い、と思っていたこともあると思う。

しかし、いい人の延長で悩みも打ち明けられなかった。高校時代に勉強や部活で感じていた劣等感・嫉妬もろもろの負の感情は誰にもいえず、ノートに書くことで解消しようとしていた。自分が本当に、本当に心の底から他人に対して何も思わない、とってもいい人ではないことを知った。それも受け入れがたかった。私は本当は人に受け入れられるような人間ではないのかもしれない、私はだめな人間だ、という心の声が大きくなっていった。

腐っていたと思う。内側から、とてもめんどくさい感じに。劣等感と嫉妬を完全に持てあましていた。けれど周りからはよく思われたかった。愛想をよくすることに必死だった。そういう姿を人はイタいというのだろう。私はきっとイタかった。カーストなんて気にしないフリをして、人一倍敏感だったと思う。声をかける知り合いは選んでいたと思う。私の分際で。人の態度や言動で人柄を推し量ろうとするのは私の悪い癖だった。私に興味を持ってくれているかにも敏感で、興味のないそぶりをされるとすぐに離れた。だから本当に仲のいい友人は少なかった。

きっかけなんて大したものはないけれど、あまりにも長い時間を共にしていたからか大学でできた友人には私の本性はバレた。嫌われるかな、と思っていたけれど前より仲良くなれた。こんな私でも受け入れてくれる人がいる、それが転機だったように思う。私は自分の臆病で姑息な部分を(仲のいい友人だけだが)隠さなくなった。そうしてわかったことは、自分の弱音も愚痴も受け入れてくれる存在の大切さだった。

いいところも、悪いところも含めて知っていてくれて尚且つ近くにいてくれる。こんなに安心することはないのだと知った。そして、誰もが長所も短所もあるがわかった、そして自分の弱さを後ろめたく思っていることも。

人に敵意をむけることはあまり褒められたことではないし、何か失敗をした時や物事が上手くいかないとき、自分の行いを省みないのも自己の成長を止めてしまう。しかし、それでもだめな自分を認めてくれる人がいるから人間は歩けるし変わろうと思えるのではと思う。

だから私も他人の感情はなるべく否定したくないな、と思ってしまう。

人生は「しゃーないな。」のさじ加減でできていて、何が許せて何が譲れないのか、何が大切で、何を守りたいのか。人によって違う。人間には濁っている部分もあるけれど、確かに大切にしているものがあって、他人を思いやる澄んだ心ももっている。それが人それぞれのバランスで内在しているだけで、心が全くの善であることも悪であることもないと思う。

学校で道徳ばかり教わった私達は一体いつこのバランスを自覚したらいいのか・・。とふと疑問に思ったりするけれど、それが恋愛の人もいれば友情の人もいれば、スポーツの人もいれば・・・生きていく中で遭遇するいくつかのイベントと失敗が教えてくれるのかもしれない。そういうところは本当に人生の不思議だなと思う。皆が一様で、均一でない部分、人生の幅、みたいなものは善悪のバランス感覚で生まれるというのが今の私の持論だ。

人は濁った部分と清らかな部分が一個に内在するから魅力的なのだ。

濁った部分は認めて、清らか(だと自分が信じている)な部分は守っていけばいい。そうやって、自分に対しても他人に対しても何かを許して、何かを守って生きていくことが、私らしく生きるということなのだ!と言い聞かせつつ、気に入らないことには「ばーーーーか!ばーーーか!」と心の中で悪態をつき、生きている今日。